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冷蔵庫のひかり

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、拓真は七時に「よしの」の裏口の前に立っていた。約束したわけではない。昨日、皿を洗い終えたあと、辰造は「朝は七時だ」とだけ言って奥に消えた。それが毎日来いという意味なのか、明日だけの話なのかも分からなかった。ただ来た。

裏口の鍵は開いていた。中に入ると、厨房にはすでに明かりがついていて、辰造が鍋に水を張っていた。冷えた空気の中に、昆布を水に浸けたときの海の匂いがかすかに漂っている。拓真が「おはようございます」と言うと、辰造は顎で流しのほうを示した。それだけだった。

流しには、昨日の閉店後に拓真が洗い終えたはずの鍋や器がまた積まれていた。朝の仕込みで使ったものだろう。拓真はエプロンを締めて蛇口をひねった。

皿洗いは嫌いではなかった。店をやっていた頃は自分でもよく洗った。ただ、あの頃は皿洗いが終わりではなく始まりだった。洗い終えた皿に次の料理を盛る。その連続の中に皿洗いがあった。今は洗って、伏せて、乾かす。その先がない。それでも手を動かしていると、余計なことを考えずに済んだ。水の温度が指先から手首へ伝わり、洗剤の泡が皮膚の皺に入り込む。その感覚だけに意識を預けていれば、三ヶ月間の空白も、閉じた店のことも、少しだけ遠くなった。

辰造は仕込みの間、一言も喋らなかった。出汁を引き、魚をおろし、野菜を刻む。その音だけが厨房に響いている。拓真は流しに向かいながら、背中越しにその音を聞いていた。包丁がまな板を叩く間隔が一定で、迷いがない。繰り返すたびに同じ音がする。機械的なのではなく、身体がそう動くようにできている。拓真の耳は、職業的な精度でその音を拾っていた。刃がまな板に入る深さ、引き戻す速さ、食材を送る指のリズム。どれだけの年月がこの音を作ったのか。自分の包丁がかつて出していた音を思い出そうとして、思い出せなかった。

十一時半に暖簾が出た。

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最初の客は、作業着姿の中年の男だった。ガラス戸を開けるなり「辰さん、焼き魚」とだけ言って、カウンターの一番奥に座った。辰造は返事もせずに魚を焼き始めた。男は新聞を広げ、辰造は焼き台の前に立ち、互いに一言も交わさないまま十五分が過ぎた。定食が出て、男は黙々と食べ、「ごちそうさん」と言って千円札を置いて出ていった。

拓真は流しの横から、その一連を見ていた。

次に来たのは五十代くらいの女性で、買い物袋を足元に置いて「今日は何がいい?」と辰造に聞いた。辰造は「鯖」とだけ答えた。女性は「じゃあそれ」と言って、鞄から文庫本を出した。定食が来るまで本を読み、食べ終えるとまた少し読んで、会計をして出ていった。

三人目は若い男で、作業服のポケットからスマートフォンを出しながら座った。「すみません、日替わりで」と丁寧な口調で言い、料理が来るまで画面を見ていた。食べるときだけスマートフォンを伏せた。

四人目。五人目。昼の二時間で、七人の客が来た。

客はみな、同じように入ってきて、同じように注文し、同じように食べて帰った。声を上げて感動する者はいない。写真を撮る者もいない。ただ座って、出されたものを食べて、帰る。特別なことは何も起きない。

拓真がかつて目指していたものとは正反対だった。ビストロ時代、拓真は客の反応を気にしていた。皿を出した瞬間の表情、最初の一口を運ぶときの目の動き、食べ終えたあとの言葉。「美味しかった」と言われれば安堵し、無言で帰られれば不安になった。料理は評価されるものだった。

ここでは誰も評価していないように見えた。ただ、食べている。

午後二時に最後の客が帰って、辰造が暖簾を下ろした。拓真は七人分の食器を洗った。鯖の味噌煮がこびりついた皿を擦りながら、ひとつ気づいたことがあった。辰造は、客によって味噌の濃さを変えていた。

最初の作業着の男には少し濃いめに。文庫本の女性にはやや甘めに。若い作業服の男にはしっかりとした味付けで。全員同じ鯖の味噌煮を頼んだわけではないが、味噌汁の味が違った。拓真は皿を洗いながら、それぞれの椀に残った味噌汁の痕跡でそれを感じ取っていた。椀の底にわずかに残った液を指先で触れ、舌に乗せる。塩分の角の立ち方、麹の甘みの残り具合が、一椀ごとに違う。

気のせいかもしれない。だが、料理人の舌は皿に残った僅かな痕跡からでも味の輪郭を拾う。

辰造に確認する気にはなれなかった。もし気のせいでなかったとしても、それは辰造が自分の仕事としてやっていることだ。聞かれたくないかもしれない。拓真はただ皿を洗い続けた。

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三日が経った。

拓真は毎朝七時に裏口から入り、皿を洗い、昼の営業を横目で見て、片付けをして帰る。辰造は相変わらず何も教えず、何も聞かなかった。拓真がどこに住んでいるのか、なぜ皿を洗いに来ているのか、そもそも何者なのか。一度も聞かれなかった。

三日目の昼に、見覚えのある客が来た。初日の作業着の男だ。同じ席に座り、同じように「焼き魚」と言った。辰造は同じように黙って焼き始めた。

男が食べ終えて帰ったあと、拓真は皿を下げながら思った。この男は毎日来ているのだろうか。それとも決まった曜日があるのか。文庫本の女性は二日目にも来た。若い男はまだ一度きりだ。

カウンター八席。壁の短冊メニュー五品。換気扇の音と、出汁の匂い。ここには拓真が店をやっていた頃に欲しくてたまらなかったものが、当たり前のようにあった。客が戻ってくる、ということだ。

ビストロの客は、一度来て「美味しかった」と言って、二度と来ないことが多かった。リピーターを作ろうと、メニューを変え、内装を変え、SNSに写真を上げた。それでも客は離れていった。拓真はそれを立地のせいにし、景気のせいにし、最後は運のせいにした。

「よしの」の客は、何も変わらない店に何度も来る。メニューは変わらない。内装も変わらない。辰造は愛想のひとつも言わない。それでも客は来る。決まった席に座り、決まったものを食べ、静かに帰っていく。

その繰り返しの中に、拓真にはまだ名前のつけられない何かがあった。

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三日目の閉店後、拓真は最後の鍋を洗い終えて布巾で手を拭いていた。辰造は翌日の仕込みに取りかかっている。昆布を水に浸し、干し椎茸を戻し、野菜の皮を剥く。その手元を見るともなく見ていたとき、辰造が不意にこちらを向いた。

拓真の手を見ていた。水仕事で荒れた手。爪は短く切り揃えてある。小指の付け根に古い火傷の痕がある。長年の包丁仕事で、右手の中指と人差し指の第二関節には硬い胼胝ができている。

辰造の目がそこに留まった。

「料理人の手だな」

一言だけだった。辰造はすぐに視線を昆布に戻した。それ以上何も言わなかった。

拓真は息を呑んだ。三日間、何ひとつ聞かなかった男が、見ただけで言い当てた。いや、言い当てたのではない。三日間ずっと見ていたのだ。蛇口のひねり方、スポンジの持ち方、器の扱い方——素人の手つきではないことを、初日からとうに分かっていたのだろう。それを三日目の今まで、一言も口にしなかった。

拓真は自分の手を見た。三ヶ月間、この手で何も作らなかった。コンビニ弁当の蓋を開け、割り箸を割り、冷蔵庫の扉を開けて閉める。それだけだった。皿洗いを始めて三日、水とスポンジと洗剤に晒されて、皮膚は赤くなっている。それでも胼胝は消えていなかった。

料理人の手。辰造はそう言った。聞かなかったのに。何も聞かない人が、見ただけで分かった。

裏口を出ると、四月の夕暮れは思ったより明るかった。空がまだ薄い青を残していて、路地の向こうに沈みかけた太陽の橙色がにじんでいる。どこかの家から夕飯の支度の匂いが流れてきた。味噌と、油と、焼ける魚。「よしの」の匂いとは違うが、同じ時間帯の匂いだった。帰り道、拓真は自分の右手を握ったり開いたりした。胼胝の硬さを、指の腹で何度も確かめた。

ワンルームに戻って、段ボール箱の中の柳刃包丁を見た。鞘に収まったまま、三ヶ月前と同じ場所にある。手は伸ばさなかった。ただ、今日は目を逸らさなかった。

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