第1話
第1話
冷めたコンビニ弁当の蓋を開けたとき、割り箸の袋がうまく裂けなかった。
爪の間に木の繊維が刺さって、小さく息を吐く。かつては毎日十時間以上包丁を握っていた手だ。魚の骨を一本ずつ抜き、野菜の皮を途切れなく剥き、焼き加減を指先の温度で測っていた手が、今はコンビニの割り箸ひとつまともに扱えない。
深夜一時のワンルームは、六畳にしては広く感じた。物がないからだ。部屋の隅に段ボール箱がひとつ。中身は着替えと、柳刃包丁が一本。引っ越してきた日から、その箱は開けたまま床に置いてある。棚に移す気にもなれなかったし、そもそも棚がない。
のり弁当を口に運ぶ。白身魚のフライは冷えて衣が湿っている。噛むたびに顎の奥で油が広がる。不味いわけではない。ただ、味がしない。三ヶ月前から何を食べても同じだった。
食べ終えて、弁当の空き容器をビニール袋に入れる。それから無意識に立ち上がり、冷蔵庫の扉を開けた。中には何も入っていない。分かっている。分かっているのに、毎日開ける。朝起きたら開け、帰ってきたら開け、寝る前にも開ける。店をやっていた頃は、冷蔵庫の中身が翌日の仕込みの段取りそのものだった。何がどれだけあるか。何が足りないか。それを把握することが、一日の始まりだった。
今はただ、白い庫内灯に照らされた空っぽの棚を見つめて、数秒後に閉じる。それだけだ。
冷蔵庫の扉が閉まる音が、深夜のワンルームではやけに響いた。
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眠れないまま明け方を迎えた。カーテンの隙間から細い光が入ってくる。四月なのに空気はまだ冷たい。布団の中で天井を見ていると、店のことが断片的に浮かぶ。
七年前、二十八歳で開いた十二席のフレンチビストロ。場所は駅から少し離れた住宅街の一角で、家賃は相場より安かった。内装は自分で塗った。カウンターの木材は彩花が見つけてきた。
彩花は経理と接客を引き受けてくれた。料理学校で出会って、卒業と同時に結婚して、二人で店を持つのが夢だった。いや——俺の夢だった。彩花の夢が何だったのか、ちゃんと聞いたことがあっただろうか。
最初の二年は順調だった。三年目から客足が落ち始めた。新しいメニューを考え、SNSでの発信を始め、ワインのラインナップを変え、内装を模様替えした。全部、俺が決めた。彩花の意見を聞いたことは——あったと思う。ただ、聞いたのか、聞き流したのかは、もう自分でも分からない。
五年目、家賃の支払いが二ヶ月遅れた。彩花が「少し考え直さない」と言った夜、俺は新しいコースメニューの構想をノートに書いていた。
六年目に店を畳んだ。七年目に離婚届を出した。
時系列で並べると、それだけのことだ。劇的な破綻があったわけではない。誰かが裏切ったわけでもない。ただ少しずつ、音を立てずに、全部が崩れた。
スマートフォンが鳴った。午前八時十二分。画面に表示された名前は、再就職先の居酒屋チェーン「和来」の店長だった。
「瀬尾さん、朝早くにすみません」
店長の声は事務的で、少しだけ申し訳なさが混じっていた。
「昨日本部と話しまして。来月からシフトの体制を見直すことになって」
「はい」
「それで、瀬尾さんには明日から来ていただかなくて大丈夫です」
大丈夫です、という言い回しが妙に耳に残った。大丈夫ではないことを、大丈夫という言葉で包む。
「……分かりました」
「短い間でしたけど、ありがとうございました。お給料は月末に振り込みますので」
電話が切れた。通話時間、一分四十七秒。
三ヶ月で三件目だった。最初のファミレスチェーンでは二週間、次の仕出し弁当工場では一ヶ月、今回の居酒屋では六週間。どこでも同じだった。面接では「オーナーシェフの経験がある」ことが評価され、働き始めると同じことが足枷になる。既存のマニュアルに口を出すつもりはなかった。ただ、手が勝手に動いてしまう。味を整えようとする。盛り付けを変えようとする。それが周囲には「元オーナーが現場を仕切ろうとしている」と映る。
立ち上がって、また冷蔵庫を開けた。空っぽだった。分かっている。
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外に出たのは昼過ぎだった。ハローワークに行くべきなのだろうが、足が向かない。この三ヶ月でハローワークの椅子に座った回数は両手で足りるほどで、そのたびに同じことを繰り返している気がした。
四月の風は少し湿っていた。住宅街を抜けて、商店街を通り過ぎて、気がつけば知らない路地に入り込んでいた。古いアパートと、閉まったままのシャッターが並ぶ通り。自販機の唸る音だけがしている。
ふと、出汁の匂いがした。
立ち止まる。鰹節を引いた直後の、あの立ち上るような香り。どこかの換気扇から流れてきている。匂いの元を辿るように路地を進むと、角を曲がった先に小さな店があった。
木枠のガラス戸に、手書きの文字で「よしの」。暖簾は出ていない。ガラス越しに中を覗くと、白髪の老人がカウンターの向こうに立っていた。背筋はまっすぐで、視線は手元の鍋に落ちている。出汁を引いているのだと、すぐに分かった。その所作に迷いがなかった。何十年も同じ動作を繰り返してきた手の動きだった。
どれくらい立っていたのか分からない。ガラス戸の向こうの老人が顔を上げ、こちらを見た。目が合った。老人は何も言わず、また鍋に視線を戻した。
俺はガラス戸に手をかけた。引く理由は分からなかった。ただ、あの出汁の匂いの近くにいたかっただけかもしれない。
カウンター八席の小さな店だった。客はいない。昼の営業前なのか、それとも客が来ないのか。カウンターの木は年季が入って飴色になっている。壁に貼られた短冊メニューは五品ほどしかない。
老人は俺が座っても何も言わなかった。おしぼりも出さず、水も出さず、ただ鍋の前に立っている。
「あの、営業は——」
「座ったなら食え」
それだけ言って、老人は鍋に向き直った。
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十分ほど待った。その間、老人は一度もこちらを見なかった。俺はカウンターの木目を指でなぞりながら、この店の匂いを吸い込んでいた。出汁の香りに混じって、古い木と、かすかに焦げた醤油の匂いがする。どこか懐かしいのに、覚えのない匂いだった。
老人が皿を置いた。煮魚定食。鯖の味噌煮に、小鉢のほうれん草のおひたし、白飯、味噌汁。見た目は何の変哲もない。
箸をつけた。鯖を一口、口に入れた。
味噌の甘さが最初に来て、すぐに引いた。残ったのは鯖そのものの味だった。脂の甘み、身の旨味。味噌はそれを邪魔していなかった。引き立てるのでもなく、ただ、そこにあるものをそのまま届けるための味付けだった。
箸が止まった。
彩花の声が聞こえた気がした。「あなたの料理にはこれが足りない」。何度も聞いた言葉だった。何度聞いても、俺には分からなかった。技術が足りないのか、発想が足りないのか、何が足りないのか。問い返すと、彩花は少し困ったように笑って「うまく言えないんだけど」と言った。それきり、その話は終わった。
今、この鯖を食べて、分かったわけではない。ただ、彩花が言おうとしていたものの輪郭が、舌の上にあった。
視界が滲んだ。
涙だと気づくのに数秒かかった。止まらなかった。音は出なかった。ただ、箸を持ったまま、涙が顎を伝って白飯の上に落ちた。
老人はこちらを一瞥した。眉ひとつ動かさなかった。俺が泣きやむのを待つでもなく、自分の仕込みに戻った。
涙が止まった頃、定食は冷めかけていた。残りを食べた。最後の一口まで、味は変わらなかった。
財布を出そうとして、気づいた。今月の残高は家賃を払えば三万を切る。この定食がいくらかも確認せずに座った自分に、今さら呆れた。
「あの、いくらですか」
老人は厨房の奥から短い視線を寄越した。俺の手元——財布を持つ手が僅かに震えているのを見たのかもしれない。
「皿を洗え。食い逃げは許さん」
カウンターの端に、畳まれた白いエプロンが置かれていた。いつからそこにあったのか、さっきまで気づかなかった。
手に取った。生地は何度も洗われて薄くなっていたが、糊が利いていて硬かった。
これは就職ではなかった。決意でもなかった。ただ、もう少しだけ、この出汁の匂いのする場所にいたかった。エプロンの紐を結ぶとき、指は震えなかった。