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喫茶こもれびの、逃げた先で

第3話 第3話

第3話

第3話

朝五時半に目が覚めた。アラームより先に、鳥の声で。

窓の外で甲高く鳴いているのが何の鳥なのか、分からなかった。声の層が何種類もあって、それが重なったり離れたりしている。東京のマンションで聞いていた鳩の低い鳴き声とも、街路樹のカラスの騒ぎ方とも違う。布団の中で、しばらく天井の木目を見ていた。節の位置に、人の横顔みたいな影があった。

起き上がると、畳がひんやりしていた。足の裏が一瞬だけ縮む。四月の朝は、東京より一段階北の季節をやっているらしい。廊下に出て、共用の洗面所で顔を洗った。水が冷たすぎて、こめかみが痛くなった。鏡に映る自分の顔を見て、また目を逸らした。

エプロンの結び方が、分からなかった。

昨日蓮から渡された焦げ茶のエプロン。肩紐を首にかけて、腰の帯を後ろで結ぼうとするのだけれど、指が滑る。蝶結びは出来るはずなのに、腕を後ろに回した途端に左右が分からなくなる。三度やり直して、四度目にやっと形になったけれど、鏡に映すと片方の蝶が反対を向いていた。もう一度やる気力はなかった。

カフェのホールに出ると、蓮はもうカウンターの中にいた。いつから立っているのか、分からない。窓からの朝日が、彼の横顔の輪郭を細く縁取っていた。焙煎機の低い唸りが、厨房の奥から伝わってくる。

「おはようございます」

「うん」

それだけ。目は、挽き終わった豆の粉末に落ちていた。

最初に任されたのは、カップを温める作業だった。

「お湯、張っておいて。全部」

食器棚に並ぶ白い陶器を、ひとつずつお湯で満たす。単純だ、と思った。単純だ、と思った時点で、もう私は油断していた。三つ目のカップで、熱湯が手の甲に跳ねた。小さな悲鳴が勝手に漏れた。

蓮が一瞬こちらを見た。視線が合う手前で、逸れた。

「氷、冷凍庫」

「あ——大丈夫です」

「大丈夫じゃない」

短く言って、彼は自分で冷凍庫を開け、ジップロックに入った氷をひとつ取り出した。ビニールごと、私の手の甲に当てさせた。指はわずかに触れた。冷たいのは氷で、彼の指先は、むしろ温かかった。触れたと気づく前に、彼は手を引いてまたカウンターに戻っていた。

「……ありがとうございます」

返事はなかった。

七時過ぎ、最初の客が来た。

ドアベルが鳴って、入ってきたのは白髪の老婦人だった。焦げ茶色のコートを腕にかけて、常連らしくカウンター席の一番奥に迷いなく座った。私が水を運ぼうとすると、彼女は穏やかに首を振った。

「私は、いつもの」

「……いつも、というのは」

「蓮くんが知ってるから」

老婦人は私の顔をまっすぐ見て、少しだけ笑った。責めているのではなく、ただ事実を伝えている笑い方だった。カウンターの奥で、蓮が無言でサイフォンを組み立てていた。フラスコに湯を注ぐ手つきに、迷いがひとつもない。

八時半までに六人が入って、六人それぞれの「いつも」があった。注文票を取り出す私を、蓮は手のひらで一度だけ制した。「注文、聞かなくていい」。そう言われて、私は水を運ぶだけの仕事になった。

水を運ぶ。テーブルを拭く。カップを下げる。それだけのことが、身体に馴染まなかった。グラスを置く位置が数センチずれる。お盆を傾けて水をこぼしかける。蓮は何も言わずに布巾を差し出してくる。それが何度目かの布巾だったか、私は数えるのをやめた。

昼前に、エスプレッソマシンの使い方を教わった。教わった、というより、見せられた。

「豆、二十グラム。タンパー、まっすぐ。抽出、二十五秒」

手順を説明しながら、彼の手は一度も止まらなかった。その三つの指示の間に、私が覚えなければならない仕草が十以上あるのを、私だけが気づいていた。フィルターバスケットの縁を指でならす動き、タンパーを置くときの手首の角度、抽出レバーを引く前の一拍の間。全部、言葉にはなっていなかった。

蓮の手元から立ちのぼる豆の香りが、濃く、深く、鼻の奥まで届いた。焦げたような、けれど甘い、どこか懐かしい香り。東京のオフィスで飲んでいたインスタントの匂いとは、まるで別の物質だった。私は無意識に息を止めて、彼の指先を目で追っていた。薬指の付け根に、小さな火傷の跡があるのを、そのとき初めて見た。

やってみろ、と言われて、やった。

豆を量る手が震えた。デジタルスケールの数字が、十八から二十二の間を行き来して、止まらない。タンパーが斜めに入った。抽出されたエスプレッソは、クレマが薄くて、色が均一ではなかった。カップの底に沈んだ液体は、どこか濁って見えた。

蓮はそのカップを手に取って、一口飲んだ。喉仏が、一度だけ動いた。

「……」

何も言わなかった。シンクにそのまま流して、自分でもう一杯淹れた。クレマが濃密に盛り上がって、小さな気泡が均一に並んでいた。私は自分の失敗作が排水溝に消えていくのを、ただ見ていた。茶色い液体が渦を巻いて吸い込まれていく数秒の間、耳の奥で何かが薄く鳴っていた。

怒られた方がまだ楽だった、と思った。

閉店は八時だった。

最後の客が帰って、暖簾を中に入れて、床を掃いて、カウンターを拭いて、食器を洗って——一連の動きを、私は蓮の背中を追いかけながらなぞった。彼の動作には無駄がなかった。無駄がないから、余白もなかった。私が入り込む隙間がなかった。

「お疲れさまです」

「うん。明日も、同じ時間」

「はい」

それだけの会話で、彼は焙煎室の奥に消えた。扉が閉まる音。私は一人でエプロンを外した。結ぶときより、解く方がずっと簡単だった。

住み込みの部屋に戻って、畳の上に仰向けになった。天井の木目の、あの横顔の節が、夜の裸電球の下では違う表情に見えた。

スマートフォンを手に取った。二十時半。東京ならまだ電車が混雑している時間だ。誰かが誰かに押されて、誰かが誰かの舌打ちを聞いている時間だ。

画面を消して、枕元に置いた。

立ち上がって、窓を開けた。

冷たい空気が流れ込んできた。外は、暗かった。街灯が一本、遠くにぼんやり点っているだけで、あとはほとんど闇だった。東京の夜には、必ずどこかに赤い灯りか青い看板があった。暗闇の底が、ここにはあった。

耳を澄ます。

何もなかった。

いや、そうじゃなかった。最初は何もないように思えて、しばらく立っていると、音が少しずつ聞こえてきた。風が木の葉を鳴らす音。どこかの家の、遠い犬の声。自分の呼吸。自分の心臓の音。

——ここには、音がないんじゃない。

私の知らない音があるだけだった。

東京の音は、他人の音だった。電車、車、人の声、エアコンの室外機。どれも私の外側で鳴っていて、私はその中に沈んでいた。ここの音は、自分の身体の近くにあった。風が頬を撫でる音が、風の音なのか、自分の髪の音なのか、区別がつかない。

胸の奥が、ひどく静かだった。

静けさが、こんなに音を持っているものだと、知らなかった。

窓の桟に手を置いたまま、しばらく動けなかった。指先の木肌は、ざらついていて、けれどどこか柔らかかった。何十年も前から誰かの手に撫でられ続けて、角が取れてしまった木。そういう表面だった。東京のマンションの窓枠は、アルミで、いつも均一に冷たかった。

部屋に戻って、座卓の上に置いたままのメモ帳を開いた。蓮の字で書かれた手順。昼間はなぞるだけで精一杯だった字が、夜になって、少し違う顔をして見えた。誰かが次に来る誰かのために、何度も書き足してきた跡。インクの濃さが、ページによって違う。太いボールペンで書かれた行と、鉛筆で書き足された行が、同じ段落の中に混ざっていた。

私の前にも、ここで働いた誰かがいたのだ。

そしてその誰かも、たぶんこの部屋で、この窓の外の闇を見たのだろう。

明日、と思った。

明日、私はまたエプロンを結ぶ。四度目か、五度目で、形になるだろう。その日もきっと、豆の量を間違えて、抽出時間を外して、蓮は何も言わずにそれをシンクに流すのだろう。

それでも、明日のことを考えている自分がいた。

東京にいた頃は、明日のことを考えると胃が痛くなった。今は、痛くなかった。怖くもなかった。ただ、明日が来るという事実だけが、淡々と胸の中にあった。

目を閉じかけたとき、階下で小さな物音がした。誰かが椅子を引くような、軽い音。蓮はまだ、焙煎室にいるらしい。あの扉の向こうで何をしているのか、私には分からない。

——いつもの、と言った老婦人の声が、耳の奥で一度だけ再生された。

明日、その「いつも」を覚えるところから、私の仕事は始まる。

畳に肘をついて、身を起こした。メモ帳を引き寄せて、最初の頁を開いた。ペンは、まだ持たなかった。

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