第2話
第2話
バスのエンジンが止まった瞬間、自分の耳がまだ東京の音を引きずっていたのだと気づいた。
車内アナウンスが流れる。終点、到着。運転手の声がくぐもって遠い。瞼をこじ開けて立ち上がると、膝の裏に鈍い痛みが走った。七時間、同じ姿勢で座っていたらしい。首を回すと骨が鳴って、その乾いた音が妙に大きく聞こえた。
スーツケースを引きずって降りると、四月の朝の空気が喉の奥まで一気に入ってきた。冷たい。東京の夜風とは温度も湿度も違う、山の冷たさだった。白い息が一瞬だけ立ち上がって消える。見上げた空は、まだ青くなりきらない薄い灰色で、稜線の向こうから少しずつ光が漏れ始めている。
駅前——と呼んでいいのか分からない広場には、自販機が一台とベンチがひとつ、あとはタクシーもいない。コンビニの看板が百メートルほど先でぼんやり光っている。スマートフォンの地図を開くと、カフェまでは徒歩十八分と表示された。バスの到着は予定より早かったらしい。まだ六時四十分。
歩き出すと、スーツケースのキャスターが砂利を噛んで、ごり、ごり、と鳴った。その音以外、何もない。車の走る音も、人の声も、電車の音も。朝の工事現場の遠い騒音さえも。
——ここには音がない。
そう気づいた瞬間、怖くなった。
町の中を抜けていく道は緩やかな上り坂で、両脇には古い家屋と畑が交互に並んでいた。軒下に干されたタオル、錆びたトタン屋根、庭先に繋がれた柴犬が一度だけこちらを見て、吠えもせずにまた寝転んだ。東京では人の気配に鈍くなっていた犬まで、ここではゆっくりしている。
坂の途中で、記憶の中の風景と目の前の風景が一瞬重なった。あのとき歩いた道だ、と分かった。六年前の夏、ゼミ旅行の自由行動で、私はここを歩いた。半袖のワンピースを着て、汗をかきながら、日傘も持たずに。
——若かったな。
苦笑いが漏れた。二十二歳と二十八歳の差が、こんなにも身体に出るとは思わなかった。あの頃の自分なら、この坂を息も切らさずに登りきって、振り返って笑っていたのだろう。いま私は、スーツケースの重さに肩を持っていかれそうになりながら、三十メートルごとに息を整えている。
カフェは、坂を登りきった角にあった。
記憶より、古びていた。
木造の外壁に絡まる蔦は、写真で見たときより明らかに伸び放題で、入り口のガラス戸にうっすら曇りがある。「喫茶こもれび」の看板は塗装が剥げていて、「こ」の字が半分消えかけていた。軒先に吊るされた風鈴が、風もないのに一度だけ、ちん、と鳴った。
電話で聞いた年配の女性のイメージを頭の中で確認しながら、ガラス戸に手をかけた。中から古いドアベルの音がした。
扉を押した瞬間、外とはまるで違う空気が頬を包んだ。暖房の乾いた熱ではなく、長年この店に染みついてきた——焙煎豆と、古い木と、わずかに煮詰まったミルクの匂いが層になって鼻に届く。床板が一歩ごとに小さく軋んだ。
「おはようございます」
声をかけると、カウンターの奥から顔を上げたのは、想像していた年配の女性ではなかった。
二十代半ば、くらいだろうか。細身で、黒い無地のシャツに焦げ茶のエプロン。髪は短く、前髪が目にかかっている。その前髪越しに、こちらを見ているような、見ていないような、曖昧な視線が一瞬だけ走った。袖口はきっちり二つ折りにされていて、細い手首に薄い傷跡のようなものが見えた気もしたが、次の瞬間にはエプロンの裾に隠れてしまった。
「藤原瑞希です。今日からお世話になる——」
「荷物、そこ置いて」
最後まで言い終わらないうちに、遮られた。
声は低くて、淡々としていて、歓迎も拒絶もない。まるで配達便に対応するような、用件だけの言葉だった。エプロンの裾で手を拭きながら、彼はカウンターの奥のドアを顎で指した。
「住み込みの部屋、奥。鍵は机の上」
それだけ言うと、彼はまた手元に視線を戻した。ミルクピッチャーを磨いているらしい。布で拭く手つきが丁寧すぎて、かえって取り付く島がない。
「……あの、店長さんですか」
「蓮」
「え?」
「俺の名前。店長は、死んだ婆さんだったけど、今は俺」
目を合わせないまま、彼は言った。
返す言葉を探しているうちに、会話は終わっていた。スーツケースを抱えたまま、私はカウンターの奥のドアを潜った。
狭い廊下を抜けた先の小部屋に、古い学習机と、シングルベッドと、窓がひとつ。それだけだった。
スーツケースを床に置いて、座り込んだ。座り込むというより、膝が勝手に折れた。
——帰ろうか。
本気でそう思った。
夜行バスで来たのは失敗だった。寝不足で判断力が落ちている。今ならまだ帰りのバスに乗れる。午後の便なら東京に戻れる。実家に一晩泊まって、それから——それから、どうする?
机の木目を指で撫でた。ささくれた部分が爪に引っかかる。この机で、誰が何を書いていたんだろう。知らない人の生活の匂いが、薄く残っている気がした。引き出しの取っ手には、長い間触られなかった埃が細く積もっていて、その埃の線が、まるで誰かの指紋の跡みたいに途中で途切れていた。
窓の外には山があった。写真で見たのと同じ、あのぼやけた稜線が、今はくっきりと目の前にあった。朝の光が稜線の向こうから差してきて、部屋の畳を斜めに切っている。埃が光の中で揺れていた。
スーツケースの中に、あの写真があるはずだった。でも、取り出す気力がなかった。
立ち上がって、水でも飲もうと部屋を出た。
カウンターに戻ると、蓮は——名乗られたからそう呼ぶしかない——サイフォンの前に立っていた。
ガラスの球の中で、湯が昇っていく。その湯がコーヒーの粉に触れた瞬間、深い色に染まって、部屋の空気が一気に変わった。焙煎されたばかりの豆の、少し焦げたような、でも甘みを含んだ匂い。喉の奥が反射的に動いた。肩に入っていた力が、匂いに押されて、ふっと外れるのが自分でも分かった。
蓮は無言で、私の前にカップを置いた。
「……え」
「飲んで」
一言だけ。それだけ言って、彼はまた背を向けた。
カップは厚手の白い陶器で、縁が少し欠けていた。その欠けが、口をつけるときに唇に当たらない側に来るように、彼はカップの向きを揃えていた。取っ手を握ると、ほんのり温かい。熱すぎず、ぬるすぎない、ちょうど私が一口目に飲める温度だった。
一口、口に含んだ。
苦味が舌の上で広がって、それから、遅れて、ほんの少しだけ甘みが残った。香りが鼻の奥に抜けていく。喉を通っていく熱が、胸の内側をゆっくり降りていって、凍えていた身体の真ん中に小さな灯りが点くような感覚がした。気づけば、ずっと浅かった呼吸が、ひとつ深く落ちていた。
窓の外に目をやった。さっきまで薄かった朝の光が、いつのまにかもう少し黄色くなって、カフェの木の床を撫でていた。カウンターの向こうで、蓮がまたミルクピッチャーを磨いている。こちらを見ない。感想も聞かない。ただ、コーヒーを出しただけ。
でも、このコーヒーを淹れるために、彼はさっきずっと準備をしていたのだと、今になって分かった。豆の挽き方、湯の温度、カップの向き、欠けの位置。全部、何も言わずに。
——もう少しだけ、いてみようか。
そう思った自分に、少しだけ驚いた。
カップを両手で包むと、指先からじわりと熱が伝わってきた。東京のホームで足が動かなかった夜から、何日経ったのか、もう指折り数える気もなかった。ただ、この熱だけは、今ここにあった。
蓮がカウンターの奥から何かを取り出した。古いメモ帳だった。
「明日から、入ってもらうから」
ぶっきらぼうに、それだけ言って、メモ帳を私の前に置いた。モーニングの時間、仕込みの手順、豆の保管場所——細かい字で、びっしり書き込まれていた。字は意外なほど丁寧だった。角のとれた柔らかい字で、ところどころに線を引いて直した跡があって、直した上からさらに小さく注釈が書き添えられていた。一度使った人間が、次に使う誰かのために、何度も書き足してきたメモだと分かった。
「……はい」
「分からないことは、聞いて」
「聞いて、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃなかったら、雇ってない」
相変わらず、目は合わない。でも、その声の奥に、ほんの少しだけ、ざらついた優しさのようなものが混じっている気がした。気のせいかもしれない。たぶん気のせいだ。
窓の外で、風鈴がまた、ちん、と鳴った。
私は返事の代わりに、もう一口、コーヒーを飲んだ。明日の朝が来ることが、久しぶりに、少しだけ怖くなくなっていた。