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喫茶こもれびの、逃げた先で

第1話 第1話

第1話

第1話

終電のホームで、足が動かなくなった。

比喩じゃない。本当に、一歩も踏み出せなかった。ホームドアの向こうで電車のドアが開いて、閉まって、また開いて——それでも私の足はコンクリートに縫い止められたまま、微動だにしなかった。

発車メロディが遠くで鳴っている。いや、近いのかもしれない。最近、距離の感覚がおかしい。時間の感覚も。今日が何曜日かも、さっき食べたコンビニおにぎりの具が何だったかも、もう思い出せない。蛍光灯の白い光がホーム全体を均一に照らしていて、影という影が薄く伸びている。その光の下にいると、自分の輪郭まで薄まっていくような気がした。

電車が行った。

次の終電まで十二分。その十二分が、私に残された猶予のすべてだった。

ホームのベンチに座り込む。ストッキングの膝が薄くなっているのが目に入った。いつから伝線していたんだろう。誰にも気づかれなかったのか、気づかれていたけど誰も言わなかったのか。どっちでもいい。どっちでもいいと思えてしまうことが、たぶん一番まずい。

藤原瑞希、二十八歳。都内の広告代理店に勤めて三年。入社した頃は「やりがい」という言葉を本気で信じていた。今は「やりがい」と聞くと胃が痛くなる。条件反射みたいに。

スマートフォンの画面が光る。上司からのメッセージ。「明日の朝イチのMTG資料、今夜中に共有よろしく」。時刻は二十三時四十八分。

指が震えた。寒さのせいじゃない。四月の夜風はむしろ生ぬるかった。線路の向こうから湿った空気が流れてきて、前髪がわずかに揺れる。どこかの排水口から鉄錆びた匂いがした。東京の夜は、こんな匂いだったのか。三年間、気づかなかった。気づく余裕がなかった。

既読をつけたまま、返信しなかった。初めてのことだった。

翌朝、私は人事部のドアを開けていた。

廊下の消毒液の匂いが鼻をついた。ドアノブを握る手のひらに、じっとりと汗が滲んでいる。朝九時五分。始業のざわめきがフロア全体に広がり始める時間帯に、私はその流れに逆らうように人事部の前に立っていた。

「退職届を出させてください」

自分の声が妙に落ち着いていて、他人の台詞を聞いているみたいだった。人事の女性が眼鏡の奥で目を丸くし、「藤原さん、少し落ち着いて——」と言いかけたのを、首を横に振って遮った。

「落ち着いています。たぶん、この三年で一番」

嘘じゃなかった。昨夜、終電のホームで足が止まったあの瞬間から、頭の中が不思議なほど静かだった。壊れたのかもしれない。壊れたから静かなのかもしれない。でも、静かなうちに決めてしまいたかった。この静けさが恐怖に変わる前に。

引き留められた。当然だと思う。二週間は——と言われた。就業規則では——とも。全部うなずいた。全部うなずいて、それでも退職届はデスクの上に置いた。日付だけは二週間後に合わせて。それが私にできる、最後の社会人らしい振る舞いだった。

デスクに戻ると、同じフロアの空気が変わっていた。私が辞めるという噂はもう広まっていたらしい。誰も目を合わせない。昨日まで毎日顔を突き合わせていた人たちが、急に知らない人みたいになった。キーボードを叩く音、電話の呼び出し音、コピー機の低い唸り——さっきまでと同じ音のはずなのに、全部がガラス一枚向こうの出来事のように聞こえた。

——いや、違う。元から知らない人たちだったのかもしれない。

終業後、段ボールひとつ分の私物を整理した。三年間で溜まったものがこれだけかと思うと、笑えた。マグカップ、卓上カレンダー、引き出しの奥に押し込まれたのど飴の袋。デスクの上を拭くと、四角く日焼けの跡が残っていた。ここにパソコンがあった、という痕跡。私がいた証拠が、ただの色の差でしかないことが、妙におかしかった。

引き出しの奥から出てきたのは、クリアファイルに挟まれた一枚の写真。

山あいの小さなカフェ。木造の外壁に絡まる蔦。手前にアイスコーヒーのグラスがあって、奥にぼやけた山の稜線が見える。大学三年の夏、ゼミ旅行の自由行動でふらりと入った店だった。名前は——なんだったか。「こもれび」だったような気がする。

コーヒーの味は覚えていない。でも、あの時間の質感だけは覚えていた。窓の外を流れていた雲の遅さ。木のテーブルの手触り。指の腹で撫でると年輪の凹凸がわずかに感じられて、その不揃いさが心地よかった。急いでいないという、ただそれだけのことがどれほど贅沢だったか。あの午後、蝉の声が遠くから聞こえていて、それ以外はほとんど無音だった。グラスの表面を伝う水滴を目で追っているだけの時間が、永遠に続くような気がした。

写真を段ボールに放り込もうとして、やめた。代わりにスマートフォンを取り出し、写真に写っていた地名を検索する。指が勝手に動いていた。

数分後、画面に表示された求人情報を、私は二度読み返した。

「喫茶こもれび スタッフ募集 未経験可・住居あり」

住居あり。その三文字が、網膜に焼きついて離れなかった。

今の私に必要なのは、たぶんそういうことだった。難しい理由じゃない。行ける場所があるということ。帰れる場所じゃなく、行ける場所。

電話をかけたのは、翌日の昼休みだった。給湯室の隅で、紙コップのお茶を握りしめながらスマートフォンを耳に当てた。紙コップの縁がふやけて、指先に湿った感触が広がる。心臓が喉の奥まで上がってきているような感覚がした。呼び出し音が三回鳴って、出たのは年配の女性の声だった。少しかすれていて、でも芯のある声。「ああ、まだ募集してますよ。いつ来られます?」と拍子抜けするほどあっさり言われた。履歴書は?と聞くと、「来るときに持ってくれれば」と笑われた。窓の向こうではエレベーターホールを人が行き来している。あの人たちはみんな、明日もここに来る。私はもう、来ない。

こんなに簡単でいいんだろうか。三年間しがみついたものを手放すのに、これだけの手順で足りてしまうんだろうか。

でも、考えるのはやめた。考えたら止まる。止まったらまた動けなくなる。あのホームみたいに。

退職届が受理された日の夜、私は新宿のバスターミナルにいた。

夜行バスのチケットは片道四千八百円。段ボールは実家に送り、スーツケースひとつに詰められるだけ詰めた。冬物は入らなかったけれど、秋までにはなんとかなるだろうと思った。なんとかならなかったら、そのときはそのときだ。

バスの座席は狭かった。隣の席は空いていて、少しだけほっとした。窓の外を東京の灯りが流れていく。首都高の橋の上から見下ろすビル群は、遠くから見ると綺麗だった。その中のどこかで、まだ働いている人がいるんだろう。三日前までの私みたいに。

スマートフォンに通知が溜まっている。元同期の「え、マジで辞めたの?」。母親の「もう少し考えなさい」。友人の「落ち着いたら連絡して」。どれも既読にしなかった。

イヤホンをつけて、何も流さなかった。エンジンの低い振動だけが、座席越しに伝わってくる。

逃げているのだと思う。

再出発とか、新しい一歩とか、そんな綺麗な言葉で包める段階じゃない。ただ、あの場所にいたら壊れるから、壊れていない場所に移動しているだけだ。それを逃避と呼ぶなら、呼べばいい。

目を閉じた。瞼の裏に、あのカフェの窓から見えた山の稜線がぼんやりと浮かんだ。

山の向こう側に何があるのか、考えたことはなかった。考える必要もなかった。ただ、そこに山があるということだけで、あのとき何かが楽になった気がする。

バスが首都高を抜けた。窓の外の灯りがまばらになっていく。街灯の間隔が広がるたび、闇の比率がじわじわと増えていく。東京を出たのだ、と思った。実感はまだなかった。でも、窓ガラスに映る自分の顔が、蛍光灯の下で見る顔より少しだけ輪郭を取り戻しているように見えた。

眠れるかどうかわからなかった。眠れなくてもいい。明日の朝には——いや、もう今日の朝には、知らない町に着いている。知らない山があって、知らないカフェがある。そこに私の場所があるかどうかなんて、まだ誰にもわからない。

目を閉じたまま、バスの振動に身を預けた。スーツケースの中で、あのカフェの写真がクリアファイルに挟まれて揺れているはずだった。

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