Novelis
← 目次

凍れる手のひら

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、ホームセンターに電話をかけた。ガスコンロの安全装置について聞きたいと言うと、担当者が丁寧に説明してくれた。立ち消え安全装置付きのコンロへの交換、元栓カバー、タイマー式の自動消火器。いくつかの選択肢を聞きながら、奈緒はメモを取った。メモを取る手つきだけは、まだあの頃のままだった。要点を箇条書きにして、優先順位をつけて、コストと効果を天秤にかける。こういう作業は得意だった。問題を分解して、対策を立てて、実行する。感情の入る余地がない分、呼吸が楽になる。

日曜の午前中に、陽菜を連れてホームセンターへ行った。康子はデイサービスの日ではないから家に置いていくことになる。玄関を出る前に元栓を閉め、念のためコンロのつまみにマスキングテープを貼った。「触らないでね」と書いた付箋をつまみの横に貼って、それから一拍置いて剥がした。読めるかどうかの問題ではない。読んでも、三分後には忘れる。付箋は意味がない。それでも何もしないで出るのが怖くて、もう一度元栓を確認した。閉まっている。指先で押さえて、動かないことを確かめた。

ホームセンターの台所用品売り場で、ガスコンロ用の安全カバーを見つけた。つまみ全体を覆うプラスチック製のケース。開けるにはカバーのボタンを押しながらスライドさせる必要がある。二段階の操作。康子にはおそらく開けられない。おそらく、という曖昧さが残ることが、もう何に対しても確信を持てない自分を映していた。

陽菜が隣の棚に並んだキッチンタイマーを触っている。ピンクのタイマーを手に取って、ボタンを押した。ピピピ、と電子音が鳴って、陽菜が慌てて棚に戻した。奈緒は安全カバーを二つ、それからIH対応の卓上コンロをカゴに入れた。いずれガスコンロ自体を使えないようにする必要がある。でも今日のところは、これでいい。今日のところは、という判断を、この二年でいくつ積み重ねてきたかわからない。

帰宅して、康子が居間のソファにいることを確認した。テレビがついていた。昨日と同じ位置に座り、同じ方向を見ている。火をつけた形跡はなかった。元栓は閉まったままだった。安全カバーをコンロに取りつける。ドライバーでネジを締めながら、カバーのボタンを何度か押して動作を確認した。スライドする感触が硬い。新品だからだ。使っていれば緩くなる。緩くなったら、康子にも開けられるかもしれない。そのときはまた対策を考える。そのときは。先のことを考え始めると際限がないから、今の作業に意識を戻した。

ドライバーを握る手が止まった。台所の壁を見ている。白いタイル。油が跳ねた痕が薄く残っている。十年前もこのタイルだった。目地の色だけが変わっている。白かったものが、少し黄ばんでいる。

---

十年前の秋だった。九月の終わり。台所ではなく、居間のちゃぶ台を挟んで母と向き合っていた。内定通知書を置いた。外資系コンサルティング会社の名前が印刷された封筒と、その中の書類。奈緒は二十八歳で、国内の監査法人で三年働いたあとの転職だった。

康子はお茶を入れていた。急須から湯呑みに注ぐ手つきが、いつもと同じだった。書類を見なかった。封筒に目を落としもしなかった。

「お母さん、来月から東京の会社に移るの。コンサルの仕事」

「コンサル」

康子がその単語を繰り返した。舌の上で転がすように、ゆっくりと。味を確かめるように。そのあと、湯呑みをちゃぶ台に置いた。音はしなかった。置き方が静かすぎて、かえって空気が張り詰めた。

「そんな仕事、女がするもんじゃない」

奈緒は母の顔を見た。康子は湯呑みの縁を見ていた。こちらを見なかった。言い捨てたのではなく、信じていることを口にしただけの声だった。怒りも心配も混じっていない、平坦な声。だからこそ、返す言葉がなかった。反論できる隙間がなかった。母の中では事実なのだ。女はそういう仕事をしない。娘はそういう場所に行かない。それだけのことだった。

「私の人生だよ」

そう言った。言えたのはそれだけだった。康子は何も答えなかった。お茶を一口飲んで、テレビのリモコンに手を伸ばした。会話はそれで終わりだった。打ち切られたのでも、途切れたのでもない。母の中では、もう終わっていたのだ。始まってすらいなかったのかもしれない。

その夜、二階の自分の部屋で荷物をまとめた。段ボール二つ分。服と本と、資格の教材と、通帳。部屋を出るとき振り返らなかったと記憶していたけれど、本当だろうか。振り返らない自分を演出していただけかもしれない。階段を降りるとき、台所の明かりがついていた。康子がそこにいたのか、消し忘れただけなのか、確かめなかった。確かめたくなかった。玄関を出て、引き戸を閉めた。引き戸は軽かった。もっと重いものだと思っていた。

タクシーの中で、窓に映る自分の顔を見た。泣いてはいなかった。泣いていないことに安堵して、それから少し怖くなった。泣ける方がまだ正常なのではないかと思った。夜の住宅街が後ろへ流れていく。街灯の光が等間隔に過ぎて、明暗が顔の上を繰り返した。運転手が話しかけてこなかったことだけが、ありがたかった。

---

ドライバーが手から滑り落ちそうになって、我に返った。コンロの安全カバーのネジが半分しか締まっていない。指先に力を入れ直して、残りのネジを回した。金属がタイルに当たるかちかちという音が、静かな台所に響く。

あの日から十年。電話を一度もかけなかった。母からもかかってこなかった。誰が悪いのかを考えるのはとうに止めている。悪いのは自分で、悪いのは母で、悪いのは誰でもない。十年の空白を説明する言葉を、奈緒はまだ持っていない。持っていないまま、母のおむつを替え、母の背中を流し、母のコンロに安全カバーをつけている。

最後のネジを締め終えて、カバーを手で押してみた。動かない。しっかり固定されている。これで、少なくとも今日は大丈夫だ。今日は。

居間に戻ると、陽菜が康子の足元で絵を描いていた。康子はソファに座って、陽菜を見下ろしている。見下ろしている、という表現は正しくない。視線がたまたま下を向いているだけかもしれない。でも奈緒には、母が陽菜を見ているように見えた。

奈緒はキッチンの入り口に立ったまま、その光景を見ていた。日が傾き始めて、居間の空気がオレンジ色に染まっている。陽菜のクレヨンが画用紙を擦る音。テレビの音量が小さくなっている。いつの間に下げたのだろう。康子が触ったのか、陽菜が触ったのか。

「お母さん、夕ごはん何がいい」

声をかけた。康子が顔を上げた。奈緒のほうを見た。西日が康子の横顔を照らしていて、目のあたりに光が入っている。眩しいのか、少し目を細めていた。

数秒の沈黙があった。テレビの中で天気予報のチャイムが鳴った。康子が口を開いた。

「あなた、どなた」

声は穏やかだった。怖がっている様子はなかった。ただ知らないものを見るように、まっすぐにこちらを見ていた。敵意もなく、混乱もなく、ただ純粋にわからない。目の前にいる人間が誰なのか。

奈緒は動けなかった。足がキッチンの床に張りついたように重かった。何か言わなければと思ったが、喉の奥が詰まっている。掌が冷たくなるのがわかった。指先の感覚が遠のいて、さっきまでドライバーを握っていた手が、今は何も握れない。

忘れられることを覚悟していたはずだった。本で読んだ。ケアマネからも聞いた。認知症が進行すれば、家族の顔がわからなくなる。知識としては持っていた。でも知識と、実際に母の口からその言葉を聞くこととは、まるで別のことだった。

陽菜が顔を上げた。クレヨンを握ったまま、奈緒と康子を交互に見ている。何が起きたのかはわかっていない。わかっていないことが、今はかえってよかった。

「ママだよ。奈緒だよ」

自分の声が、遠くから聞こえた。居間の蛍光灯がじいと鳴った。康子はまだ奈緒を見ている。同じ目で、同じ距離で。「奈緒」という名前が、母の耳に届いたのか届いていないのか、その表情からは読み取れなかった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!