第2話
第2話
土曜の朝食を片付けていると、居間から陽菜の声が聞こえた。何を話しているのかは聞き取れない。ただ声の調子が、保育園で友達に話しかけるときのそれと同じだった。遠慮がなくて、まっすぐで、相手が答えを返せるかどうかを気にしていない声。
食器を拭く手を止めて、台所の入り口から覗いた。
陽菜が康子の隣に座っていた。二人の間に絵本が開いてある。陽菜が絵を指さしながら何か言い、康子がそれを見ている。見ているだけで、おそらく内容は理解できていない。でも陽菜はそんなことを知らない。知らないまま、ごく自然に康子の手を握った。左手で絵本を押さえ、右手で祖母の手を。指を絡めるのではなく、掌ごと包むように、上から重ねるように。小さな手が皺だらけの甲をすっぽり覆って、そこだけ妙にあたたかそうに見えた。
康子は握り返さなかった。握り返す力があるのかもわからない。でも手を引かなかった。陽菜の手の下で、康子の指がわずかに動いた。握ろうとしたのか、ただの反射なのか、奈緒のいる場所からは判断できなかった。
布巾を畳んだ。もう一度畳んだ。四つ折りにした布巾をさらに半分にして、意味のない形にしてから気づいた。手が何かをしていないと、目が居間に向いてしまう。布巾から食器用洗剤の匂いがした。指先が湿っていた。その湿り気だけが、自分がさっきまで家事をしていたことの証拠だった。
あの手を握れるかと、自分に問うてみた。答えは出なかった。正確には、出ていた。出ていたから、問いの形にしたくなかっただけだ。
排泄介助のとき、康子の腕を支える。入浴介助のとき、背中を流す。着替えを手伝うとき、袖に腕を通す。触れている。毎日何度も触れている。でもそれは作業の中にある接触で、手を握るのとは違う。手を握るという行為には、目的がない。用事がない。ただ触れたいから触れる。それが、自分にはできない。
陽菜が「おばあちゃん、この犬かわいいね」と言った。康子が「犬」と繰り返した。それだけの会話だった。でも陽菜は満足そうにページをめくった。その手は、まだ康子の手の上にあった。
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月曜の夕方、保育園に陽菜を迎えに行く。園庭では他の子供たちがまだ遊んでいて、陽菜は砂場でシャベルを握ったまま奈緒を見つけた。靴を履き替えるのに手間取り、左右を間違えて、直して、また間違えて、三度目でようやく揃った。その間、奈緒は園の下駄箱の横に立って待っている。壁に貼られた来月の行事予定を読む。遠足、身体測定、保育参観。保育参観の日程に丸をつけなければと思い、スマートフォンのカレンダーを開いた。
「片桐さん」
振り向くと、同じクラスの母親が立っていた。名前は――佐々木さんだった。佐々木さんは息子の手を引いて、奈緒の隣に来た。
「最近どう? お母さんの具合」
「まあ、変わらないですね」
「そっか。いや、ほんと偉いよね、片桐さん。お母さんの介護しながら陽菜ちゃんも育てて」
偉い。その言葉が耳の中で止まった。園庭から聞こえる子供たちの声が一瞬遠のいて、その二文字だけが耳腔の中で反響した。佐々木さんは悪意で言っているのではない。社交辞令ですらなく、たぶん本心からそう思っている。だから余計に、奈緒の中で何かが軋んだ。
「いえ、全然」
「でもほんと大変でしょ。うち、旦那の実家が近いから手伝ってもらえるけど、片桐さんはひとりで全部やってるんでしょ? すごいと思う」
すごくない。偉くもない。他に誰もいないから、やっている。義務だ。義務という言葉すら正確ではないかもしれない。義務には少なくとも、果たすべき理由がある。奈緒にあるのは「やらなければ誰もやらない」という消去法だけで、それは理由というより状況だった。
「ありがとうございます」と言った。言いながら、口の中が乾いた。感謝の言葉を返すのが適切な場面だから返しただけだ。コンサル時代、クライアントに「さすがですね」と言われたときと同じ筋肉を使っている。口角を少し上げて、目元を緩めて、声のトーンを半音上げる。相手が安心する表情。あの頃は仕事の技術だった。今は生活の技術になっている。
陽菜が走ってきて、奈緒の脚にぶつかった。「ママ、行こう」。佐々木さんに軽く頭を下げて、陽菜の手を引いた。小さな手が奈緒の指を握る。この手は握れる。この手だけは、迷わず握り返せる。
帰り道、陽菜が道端のたんぽぽを見つけてしゃがみ込んだ。綿毛になりかけの一本を摘んで、ふう、と吹く。白い種がいくつか飛んで、残りは茎にしがみついている。陽菜はもう一度息を吸って、頬を膨らませて、ふう。今度は全部飛んだ。陽菜が「飛んだ」と笑って、空を見上げた。奈緒も見上げた。種は見えなかった。風に乗ったのか、すぐ近くに落ちたのか、わからないまま消えていた。
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玄関の鍵を開けた瞬間、匂いがした。
焦げた匂いではない。ガスの匂いでもない。何かが熱くなりすぎている匂い。金属が高温になったときの、鼻の奥を刺すような乾いた匂い。
「陽菜、ここにいて」
玄関に陽菜を残して、廊下を早足で進んだ。台所の引き戸を開ける。ガスコンロの火がついていた。鍋も何も載っていない五徳の上で、青い炎が静かに燃えている。コンロの横にやかんが置いてあった。火にかけるつもりで、載せ忘れたのか。あるいは載せた後に下ろしたのか。五徳の鋳鉄が赤みを帯びていた。どれくらいの時間、空焚きの状態だったかわからない。
火を消した。つまみを回す指が硬かった。かちり、と小さな音がして炎が消えた。青い光が消えた台所は、窓からの西日だけになった。レンジフードの換気扇を回す。窓を開ける。四月の風が台所に入ってきて、こもった熱気が薄まっていく。
居間に行くと、康子がソファに座っていた。テレビがついていた。クイズ番組の司会者が何かを言って、観客が笑っている。康子はテレビを見ていなかった。膝の上で手を組んで、窓の外を見ていた。窓の外には何もない。隣の家のブロック塀と、その上に伸びた柿の枝だけ。
「お母さん」
声が出た。自分で思っていたよりも大きな声だった。康子が振り向いた。目が合った。曖昧な目。何かを探しているような、何も探していないような目。
「火、つけたでしょう」
康子は首を傾げた。
「火?」
「コンロ。台所のコンロ、つけっぱなしだった」
「そう?」
そうじゃない。そうじゃないだろう。奈緒の声が上がった。喉の奥に熱いものがせり上がってくる。こめかみの辺りで脈が打っているのがわかった。
「何もないところで火をつけたら危ないの。やかんも載せないで——」
「やかん?」
康子がまた首を傾げる。同じ角度で、同じ表情で。覚えていないのだ。火をつけたことも、やかんを置こうとしたことも。この数十分の記憶がまるごと消えている。怒りをぶつける相手がいない。目の前に母がいるのに、怒りを届ける先がない。記憶を失った人間に怒りを向けても、それは壁に向かって叫ぶのと同じだった。
奈緒は口を閉じた。閉じた口の中で歯を噛み締めた。奥歯の根元に鈍い痛みが走った。何か言えば、怒鳴る。怒鳴れば、陽菜が聞く。陽菜に聞かせたくない。その一点だけが、声を止めていた。
玄関に戻ると、陽菜が靴を脱がずに立っていた。奈緒の顔を見上げている。何かを聞きたそうな目。でも何も聞かなかった。六歳の子供が、聞いてはいけない空気を読んでいる。それが一番つらかった。
「入っていいよ」
陽菜が靴を脱ぐ。右、左、揃えて、上がる。保育園で習った通りの動作。奈緒はその背中を見ながら、台所に戻った。五徳の熱はまだ残っていた。手のひらをかざすと、じんわりとした温度がある。冷めるまでにはもう少し時間がかかる。そのあいだに、やらなければいけないことを数えた。ガスの元栓の管理。コンロのチャイルドロック。いや、チャイルドロックではない。母のための安全対策だ。チャイルドロックという言葉が浮かんだこと自体に、胸が詰まった。
窓から入る風が、台所のカレンダーを揺らした。四月の頁。予定が書き込まれたマスが並んでいる。どのマスにも、介護と保育園と買い物の三つしかない。余白に書き足すことがない。ただ、コンロの火が止まってよかった。それだけを、今は思うことにした。