第1話
第1話
五時二分。アラームが鳴る前に目が開いた。暗い天井を見上げて、まず耳を澄ます。隣の部屋から、かすかな寝息。規則的で、穏やかで、まるで何も壊れていない人の眠りだった。
布団を出る。廊下の床が足裏に冷たい。四月なのに、この家の朝はいつまでも冬の温度をしている。築三十年の木造住宅は断熱材が薄く、春の陽気が室内に届くまで毎年ひと月の遅延がある。洗面所で顔を洗い、鏡に映った自分を一瞬だけ見た。頬のあたりに疲れが溜まっている。目の下にうっすらと影ができて、唇の色が薄い。三十八歳。外資系コンサルで最年少マネージャーになった年齢と同じ数字のはずなのに、鏡の中の人間はあの頃とまるで別人だった。あの頃は毎朝リップを塗り、ジャケットの襟を正してから家を出た。今は鏡を見る時間すら惜しい。
台所に立つ。陽菜の弁当箱を棚から出し、ご飯を詰める。卵を割り、フライパンに流す。じゅう、と油が弾ける小さな音。その音で母が起きるかもしれない。起きたら、排泄介助が先になる。段取りが崩れる。だから卵はそっと、なるべく静かに焼いた。菜箸の先で白身をゆっくり寄せながら、黄身が崩れないように形を整える。陽菜は半熟が好きだが、弁当には火を通さなければならない。そういう小さな判断を、毎朝いくつも重ねている。
六時になると、予想通り隣の部屋から物音がした。スリッパを引きずる足音。ドアが開いて、母——康子が廊下に出てくる。
「あら、おはよう」
「おはよう」
「今日、何曜日?」
「金曜」
「金曜。金曜ね。ねえ、今日何曜日?」
同じ質問が来る。三十秒も経っていない。奈緒は菜箸を握ったまま、息を吐いた。吐く息に感情を混ぜないよう気をつける。混ぜたら、声に出る。声に出たら、自分が何をしているのか考えてしまう。考えたら、たぶん止まる。
「金曜だよ」
「そう、金曜」
康子はそれだけ言って、居間のソファに座った。テレビのリモコンを手に取り、点けもせずに膝の上に置く。その横顔を台所から見ながら、奈緒はウインナーをフライパンに並べた。六本。陽菜が好きな数。ウインナーに切れ目を入れると、皮がめくれて脂がにじんだ。甘い匂いが台所に広がる。この匂いだけは、普通の朝のにおいだと思う。
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排泄介助を終えて、康子の着替えを手伝い、朝食を出す。康子は味噌汁を半分残した。「しょっぱい」と言う。昨日は「薄い」と言った。どちらも同じ分量で作っている。奈緒は何も言わずに椀を下げた。味噌の量は毎回計量スプーンで測っている。以前は目分量だったが、日によって違うと言われるのが嫌で、正確に作るようにした。それでも「しょっぱい」と「薄い」が交互に来る。問題は味噌の量ではない。わかっている。わかっているから、何も言わない。
二階から陽菜が降りてくる足音がする。とん、とん、とん、と一段ずつ慎重に降りる六歳の足音。あの足音だけが、この家でまっすぐに聞こえる音だと思った。
「ママ、おはよう」
「おはよう。顔洗った?」
「洗った」
嘘だな、と思ったが言わなかった。目元に枕の跡がくっきり残っている。陽菜は椅子に座って、食卓に並んだパンを見る。いちごジャムを自分で塗ろうとして、瓶の蓋が開かない。小さな指が蓋の溝に引っかかって、顔を真っ赤にして回そうとしている。奈緒が手を伸ばす前に、陽菜は瓶を抱えたまま席を立ち、康子のところへ歩いていった。
「おばあちゃん、開けて」
康子は陽菜を見た。数秒の間があった。認知症の母は、孫の名前を思い出せないことがある。でも陽菜を「知らない人」として怖がったことは一度もなかった。康子は瓶を受け取り、皺だらけの手で蓋をひねった。開かない。もう一度、力を入れる。関節が白くなるほど握り込んで、小さな音がして、蓋が回った。
「はい」
「ありがとう、おばあちゃん」
陽菜が笑う。康子も笑う。台所から見ているのに、その二人の間にある空気に奈緒は入れない。入り方を知らない。
二年前、康子の認知症が分かったとき、奈緒は三日で退職を決めた。上司は引き留めた。「片桐さんほどの人材が」と言った。同僚は驚いた。部下は泣いた。奈緒は誰にも本当の理由を言わなかった。母のため、とは言えなかった。だってそうじゃない。他に誰もいなかっただけだ。兄弟はいない。父は奈緒が三歳のときに病気で亡くなった。親戚は遠い。母と奈緒の間には十年の空白がある。
十年前、奈緒がコンサルティング会社への転職を報告したとき、康子は言った。「そんな仕事、女がするもんじゃない」。居間のちゃぶ台の上に、奈緒が持ってきた内定通知書が置いてあった。康子はそれを一度も見なかった。奈緒はその夜、荷物をまとめた。振り返らなかった。それから十年、一度も電話しなかった。母からも来なかった。
沈黙は、最初は怒りだった。やがて習慣になり、最後には無関心になった——と思っていた。でも退職届を書く手が震えたのは、無関心ではなかった。あれが何だったのか、奈緒は今もわからないままでいる。
スーパーの帰り道、いつもの路地を歩く。塀と塀の間の細い道。子供の頃は広く感じた。今は肩が触れそうなほど狭い。ブロック塀の表面にひびが入っていて、隙間から雑草が伸びている。足元のアスファルトは所々浮き上がって、ベビーカーを押していた頃はよくつまずいた。いつからこう感じるようになったのか、思い出せない。買い物袋が手に食い込む。豆腐、牛乳、おむつ。大人用のおむつ。あの頃の鞄には企画書とノートパソコンが入っていた。重さは同じくらいなのに、意味がまるで違う。ビニール袋の持ち手が指に白い跡をつける。この跡は、家に帰れば消える。でもあの頃の疲れは、朝になっても消えなかった。どちらがましなのか、比べること自体がもう無意味だとわかっている。
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夕方、康子の入浴介助を終えてリビングに戻ると、陽菜がクレヨンで絵を描いていた。画用紙いっぱいに広がる色。赤、黄色、ピンク。何を描いているのかわからない。
「何描いてるの」
「お花畑」
「きれいだね」
奈緒がそう言うと、陽菜は顔を上げて笑った。前歯が一本抜けた笑顔。それから画用紙をひっくり返して裏にも描き始めた。こういうとき、この子の中に時間の制約がないことに気づく。表が足りなければ裏を使う。裏も足りなければ別の紙を取る。終わりを決めない。奈緒はいつから、すべてに終わりの時間を設定するようになったのだろう。会議は一時間、企画書は三日、プレゼンは十五分。そしていま、介護にも終わりの時間を考えている。それがどういう「終わり」なのかは、考えないようにしている。
康子がソファで居眠りを始めた。毛布をかけようとして立ち上がったとき、康子の口もとが小さく動いた。寝言だった。何を言っているのか聞き取れなかった。唇の動きだけが繰り返される。名前を呼んでいるようにも見えた。誰の名前なのかはわからない。奈緒の名前かもしれないし、ずっと昔に失くした誰かの名前かもしれない。それでも奈緒は一瞬足を止めた。母の寝顔を見るのが久しぶりだと気づいたのだ。起きているときの母は、曖昧な目でこちらを見る。何かを探しているような、何かを忘れているような目。でも寝顔は、ただ静かだった。そこにあるのは、知っている顔だった。何年も前の、まだ何も壊れていなかった頃の。
毛布を肩までかけた。手が康子の腕に触れた。温かかった。それだけのことなのに、指先が少しこわばった。触れた腕は細くなっていた。二年前に再会したとき、最初に驚いたのはこの腕の細さだった。かつて奈緒の手を引いて商店街を歩いた腕。重い漬物石を持ち上げていた腕。それが今、毛布の下で子供のように頼りなく横たわっている。
翌朝。いつもと同じ五時に目が覚める。同じ天井。同じ冷たい廊下。同じ手順で弁当を作り、同じ時刻に康子が起きてくる。
「おはよう。今日何曜日?」
「土曜だよ」
「土曜。土曜ね」
陽菜がまた一段ずつ階段を降りてきて、今度はまっすぐ居間に向かった。康子の隣に座り、その手に自分の手を重ねる。
「おばあちゃん、おはよう」
康子の表情が変わった。ほんの一瞬、目の奥にあるぼんやりした膜が消えて、はっきりとした何かが浮かんだ。口元が緩んで、頬のしわが寄って、それは笑顔と呼んでいいものだった。
「おはよう」
康子がそう返した声は、柔らかかった。陽菜の名前は出なかった。でも、目の前にいる小さな人間に向けた、確かな温度があった。
奈緒はフライパンの卵を見つめたまま、その光景から目を逸らした。逸らさなければ、何かを認めなければいけない気がした。あの柔らかさが、自分には向けられたことがない——いや、あったのかもしれない。覚えていないだけで。覚えていたくないだけで。
卵が焦げかけていた。慌てて火を弱める。換気扇の音だけが台所に響いた。