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ヨルノは教室を知らない

第1話 第1話

第1話

第1話

誰にも気づかれないまま、四時間目が終わった。

チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が弛む。椅子を引く音、弁当箱を開ける音、誰かが誰かを呼ぶ声。その全部が、僕の耳には薄い膜一枚を隔てた向こう側の出来事みたいに聞こえる。

窓際の最後列。僕の定位置だ。

左耳にイヤホンを押し込んで、スマホの画面に目を落とす。昨夜アップした動画の再生数が、もう四万を超えていた。サムネイルの中の「ヨルノ」が、切り抜かれたテロップと一緒にこちらを見ている。こっちが本物の僕で、この教室にいるほうが偽物なんじゃないかと、たまに思う。

弁当の蓋を開けた。母さんが毎朝同じ顔で詰めてくれる、代わり映えしない中身。卵焼き、ミニトマト、昨夜の残りの肉じゃが。醤油とみりんの甘い匂いが鼻先に届いて、ああ今日も同じだ、と思う。別に不満があるわけじゃない。ただこの弁当みたいに、僕の日常はどこを切っても同じ断面をしている。それを黙々と口に運びながら、僕はイヤホンの向こうの声を拾う。

「ヨルノの新作見た? あれ神回じゃん」

心臓が、一拍だけ跳ねた。

三列前の島で、五人くらいが机をくっつけて盛り上がっている。中心にいるのは藤堂翔太。背が高くて声がでかくて、誰とでもすぐ打ち解ける、僕とは正反対の生き物だ。

「あのラスボス戦のくだりさ、実況のテンポが完璧すぎて鳥肌立ったんだけど」

「わかる。ヨルノってトーク力えぐいよな。声もいいし」

「顔出ししてないのがまた良い。ミステリアスっていうか」

箸が止まりそうになるのを、意志の力で動かし続ける。ミニトマトを噛んだ。酸味が口の中に広がって、それだけが今ここにいる感覚を繋ぎ止めてくれた。

褒められている。僕が、褒められている。

——違う。褒められているのは「ヨルノ」だ。春日陽介じゃない。

指先がかすかに震えているのに気がついて、僕は箸を持つ手を膝の上に下ろした。弁当箱の蓋に映る自分の顔がぼんやり歪んでいる。もし今ここで「それ、僕です」と言ったら、藤堂たちはどんな顔をするだろう。驚くのか、笑うのか。たぶん、信じないだろう。この教室の空気に溶けている僕と、何万人を笑わせる「ヨルノ」を同一人物だと認識できる人間は、この世界のどこにもいない。

喉の奥がきゅっと狭くなる感覚があって、僕は残りの肉じゃがを急いで飲み込んだ。じゃがいもの甘さが、なぜか少し苦く感じた。

窓の外では五月の風が銀杏の若葉を揺らしていた。グラウンドから体育の授業の号令が聞こえる。僕はイヤホンの音量を少しだけ上げて、その全部を遠ざけた。

ここにいる僕は、誰の目にも映っていない。それでいい。それが、いい。

「ねえ陽介くん——あ、ごめん」

ふいに声をかけられて顔を上げると、隣の席の女子が気まずそうに手を振った。消しゴムが僕の机の下に転がっていたらしい。「あ、これ」と拾って渡すと、「ありがと」と軽く言って、もう僕のことは見ていなかった。

それだけ。それだけの接点が、この教室における僕の一日の最大値だ。

昼休みが終わるまでの残り十五分を、僕はコメント欄のスクロールに費やした。『ヨルノさんの声聞くと元気出る』『毎日投稿ありがとう!』『今日も最高でした』。画面の中だけが、僕を必要としてくれる場所だった。

午後十一時。

部屋の照明を暖色に落として、デスクの上のマイクとウェブカメラの位置を微調整する。モニターには配信ソフトの待機画面。登録者数一二万四千八百三十二。昨日より百十七人増えている。

椅子の高さを合わせ、ヘッドセットを耳にかける。マイクのポップガードに指先が触れた瞬間、スイッチが入るみたいに背筋が伸びる。この部屋だけが、僕が僕の声を出していい場所だ。

深呼吸をひとつ。

「——はい、どうもヨルノです。今夜もやっていきましょう」

自分でも驚くくらい、声が変わる。教室で消しゴムを渡したときの、あのかすれた小声とは別人みたいに、よく通る声が部屋に響く。コメントが滝のように流れ始める。

『きたああああ』『待ってた!』『今日は何やるの?』

「今日はね、リクエスト多かったあのホラゲーの続きです。前回僕がビビり散らかしたやつ。……うん、わかってる、笑うなって」

画面の向こうで何百人もが笑っている気配を感じながら、僕はゲームを起動する。操作しながら喋る、喋りながらリアクションする、リアクションしながらコメントを拾う。配信中の僕の脳は、教室にいるときの三倍の速さで回っている気がする。

「おいおいおい、さっきのセーブポイントから敵増えてない? 運営さん聞いてます?」

『草』『逃げろ逃げろ』『右!右に弾薬!』

「右ね、右——って嘘じゃん何もないじゃん! お前ら僕を殺す気か!」

コメント欄が爆笑の絵文字で埋まる。その一つひとつが、小さな拍手みたいに僕の胸を叩く。ここでなら、何を言っても大丈夫だ。声を出しても、大げさにリアクションしても、誰も僕を変な目で見ない。画面という壁が、僕を守ってくれている。

配信を終えたのは午前一時過ぎだった。「お疲れヨルノ!」「明日も待ってる!」というコメントを見届けてから配信ソフトを閉じると、部屋が急に静かになる。モニターの光だけが顔を照らしている。

ヘッドセットを外した耳が、じん、と痺れている。二時間ぶりに聞く自分の部屋の静寂は、教室の静寂とはまったく違う。教室では無視されているから静かだけど、ここでは自分で選んで静かにしている。その差は、たぶん外から見たらわからないけど、僕にとっては全然違う。

イヤホンを外すと、世界がぜんぶ遠くなる。

明日もまた、あの教室に行く。誰にも気づかれない窓際の席に座って、イヤホン越しに「ヨルノ」を褒める声を聞く。それを繰り返していれば、傷つかずに済む。バレさえしなければ。

スマホに通知が光った。企業案件の問い合わせメール。月に二、三件は来るようになった。返信用のテンプレを開きかけて、やめた。明日でいい。今日の僕は、もう十分にヨルノをやった。

ベッドに倒れ込んで天井を見る。この部屋の天井と、教室の天井と、どっちが本物の空なんだろう。そんなことを考えながら目を閉じた。

次の日の六時間目、ホームルームで担任の川島先生が茶封筒から冊子を取り出した。

「はいこれ、修学旅行のしおり。来月な、京都二泊三日。班は五人一組で自由に決めていい。今日中に班長の名前書いて提出」

教室がざわつく。あちこちで「一緒の班ね」「え、もう決まってんの?」と声が飛び交い、机を移動させる音が連鎖する。いつもの光景だ。僕には関係のない、いつもの。

しおりの表紙には金閣寺の写真。ページをめくると、行程表、持ち物リスト、部屋割りの空欄。僕は窓の外を見た。銀杏の葉が、さっきより少しだけ濃い緑に見えた。

十分経っても、誰も僕のところに来なかった。

そりゃそうだ。四人組はあっという間にできあがり、五人目を探す声があちこちで上がっているけど、その候補に「春日陽介」の名前が出ることはない。空気に声はかけない。

しおりを持つ手のひらが、じわりと汗ばんでいた。別に傷ついてなんかいない。想定通りだ。想定通りなのに、腹の底にぬるい重さが溜まっていくのは、なぜだろう。周りの笑い声がやけに大きく響いて、僕は無意識にイヤホンに手を伸ばしかけた。——やめた。今つけたら、余計に目立つ。目立たないために存在しているのに、目立つなんて最悪だ。

「先生、うちの班四人なんですけど」

最終的に、川島先生が余った僕を適当な班にねじ込んだ。「はい、藤堂の班に春日入れて。五人になるだろ」。藤堂翔太が「おー、よろしく」と軽く手を挙げた。その声は、昼休みに「ヨルノ神回じゃん」と言っていたのと同じトーンだった。僕は小さく頭を下げただけで、何も言えなかった。

教室を出るとき、配られた部屋割りの紙を確認する。306号室、五名。僕の名前の二つ上に、藤堂翔太。

宿の部屋でなら——消灯後、布団の中でなら、こっそり配信できるかもしれない。

修学旅行まで三週間。僕の頭の中では、もう別の計画が動き始めていた。小声でも拾えるピンマイクの型番、スマホスタンドの角度、WiFi環境の事前調査。旅先でも「ヨルノ」を途切れさせないための準備。

だけど同じ部屋に、藤堂がいる。あの声のでかい、人懐っこい、誰とでも距離を詰める男が。

廊下の窓から差し込む西日が、しおりの表紙を金色に染めた。なんだか嫌な予感がした。根拠はない。ただ、これまで完璧に守ってきた壁の、どこかに小さなひびが入りそうな——そんな気配がした。

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