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ヨルノは教室を知らない

第2話 第2話

第2話

第2話

金曜日の夜、配信を終えてからが本当の仕事だった。

モニターに映るアナリティクス画面をスクロールする。今月の総再生数、二百四十万回。チャンネル登録者数、十二万四千九百四十九人。あと五十一人で十二万五千の大台に乗る。グラフの右肩上がりの曲線を見つめていると、これが自分の数字だという実感がいつも少し遅れてやってくる。デスクの上に置いた缶コーヒーはとっくに冷めていて、一口含むと苦味だけが舌の奥に残った。

受信トレイを開く。未読十四件。そのうち三件が企業案件の打診だった。ゲーミングチェアのメーカー、エナジードリンクのブランド、新作アプリのプロモーション。どれも丁寧な文面で、報酬の桁もじわじわ上がってきている。半年前なら飛びついていたかもしれない。今は案件ごとに「自分のチャンネルの色に合うか」を考える余裕がある。——余裕、というより、臆病さかもしれないけど。

エナジードリンクの案件だけ返信テンプレを開いて、条件を少し書き換えて送信した。残りは保留。スプレッドシートに案件名と受信日を記録する。配信者としての僕は、わりと几帳面にやっている。教室の僕が知ったら笑うだろう。教室の僕を知る人間がいれば、の話だけど。

コメント欄を巡回する。今夜の配信のアーカイブには、もう八百件を超えるコメントがついていた。

『ヨルノのホラゲー実況って、怖いのに安心するんだよな』 『声が好きすぎる。ASMRやってくれ』 『毎日投稿ほんと神。生活の一部になってる』

一つひとつに目を通しながら、ハートマークをつけていく。この作業が好きだ。何千何万の再生数よりも、一件のコメントのほうが、僕には重い。画面の向こうに確かに人がいて、僕の声を必要としてくれている。その実感だけが、春日陽介という存在を地面に繋ぎ止めてくれる錨みたいなものだった。

ふと、コメントの合間に目が止まる。

『ヨルノって絶対高校生だよね 配信時間的に』

心臓がきゅっと縮んだ。すぐに平静を装って、スクロールを続ける。この手の詮索コメントは前からあった。配信時間が夜十一時以降であること、テスト期間に投稿頻度が落ちること、ときどき出る学校ネタ。ヒントは至るところに転がっている。だから僕は細心の注意を払って、具体的な地名や学校名を絶対に出さないようにしている。「高校生かも」までは構わない。「どこの高校か」に辿り着かれたら終わりだ。

指先が少し冷たくなっていることに気づいて、僕は無意識に握りしめていたマウスから手を離した。掌にうっすらと汗が滲んでいた。

午前二時。ベッドに入ってからも、修学旅行のことが頭から離れなかった。

枕元のスマホで宿泊先の旅館のホームページを開く。WiFiは全館対応。部屋にはコンセントが四口。消灯は十時だけど、まあ修学旅行の消灯なんて建前みたいなものだ。問題は、同室の四人の就寝時間。

スマホのメモアプリに、計画を書き出していく。

——ピンマイクKL-03。感度を絞れば囁き声でも拾える。 ——スマホスタンドはクリップ式。布団の中で角度を固定できるやつ。 ——配信タイトルは「深夜のひとりごと」シリーズにすれば、小声でも不自然じゃない。 ——万が一のために、画面は暗転させたまま音声のみ。顔出しなしのメリットがここで活きる。

我ながら手慣れたものだと思う。去年の林間学校でも同じことをやった。あのときは四人部屋で、全員が寝静まった午前一時から小一時間だけ音声配信をした。結果、誰にもバレなかった。小さな成功体験が、今の自信に繋がっている。

ただ今回は変数が一つ増えた。藤堂翔太だ。

あいつは寝るのが遅い。休み時間に「昨日三時まで起きてた」と笑っていたのを聞いたことがある。しかもヨルノのファンだ。もし消灯後に配信を始めて、藤堂がスマホで僕のチャンネルを開いたら——隣の布団から同じ声が聞こえてくることに気づくんじゃないか。

……いや、大丈夫だ。ピンマイクの指向性を最小にして、囁くように話せば、声質はかなり変わる。それに配信中の僕と、教室の僕は、声のトーンもテンポもまるで違う。同じ人間だと気づくほうが難しい。そもそも、あの教室で誰が僕の声を記憶している? 僕は三年間、ほとんど声を発していない人間だ。記憶されるはずがない。

大丈夫。いつも通りやればいい。

メモを保存して、画面を消した。暗くなったスマホの表面に、天井の照明がぼんやり映り込む。僕はそれを見つめながら、もう一度だけ確認するように呟いた。

「——バレない。絶対に」

自分の声が思ったより震えていて、暗闇の中で唇を引き結んだ。エアコンの微かな駆動音だけが部屋を満たしている。天井の染みを数えるふりをして、目を閉じた。眠れるはずもなかった。

月曜の昼休み。いつものように弁当を広げて、イヤホンを左耳に入れた。今日の卵焼きはちょっと焦げていて、母さんが朝ばたばたしていたのだとわかる。

教室の騒がしさに意識を半分だけ浸して、残りの半分はスマホのコメント管理に使う。この時間が、僕にとっては一種の瞑想みたいなものだった。

「——ヨルノって絶対同世代だと思うんだよね」

心臓が止まった。

比喩じゃなく、一瞬、本当に胸の拍動が消えた気がした。

声の主は二列前の席にいた。白石凛。長い黒髪をいつも一つに結んでいて、成績は学年上位で、図書委員で、目立つタイプではないけれど、話せば誰からも好かれる、そういう子だ。僕とは違う種類の静かさを持っている人。

凛は隣の女子と身を乗り出すようにして話していた。僕の存在なんて、まるで眼中にないまま。

「配信の時間帯がさ、テスト前になると急に変わるの。しかもゲームの話題でたまに授業っぽい単語が混じるの、気づいた?」

「えー、そこまで聞いてんの? 凛ちゃんガチ勢じゃん」

「うるさい。……でもね、同世代だったらいいなって、なんとなく思うの。声の感じとか、笑い方とか、なんかこう、近い場所にいる人みたいな気がして」

近い場所。その言葉が鳩尾のあたりに落ちて、じわりと広がった。凛は知らない。その「近い場所」が、たった二列分の距離だということを。

箸を持つ指に力が入りすぎて、卵焼きが真ん中で割れた。焦げた面が断面から見えて、なんだか自分みたいだと思った。表面はなんとか繕っているけど、中身は焦げている。

凛の分析は、正確だった。テスト前に配信時間がずれるのは、勉強時間を確保するためだ。授業っぽい単語が混じるのは、その日に聞いた講義の内容が無意識に出てしまうから。僕は自分で思っているほど、痕跡を消せていないのかもしれない。

「でもヨルノって全然プライベート出さないじゃん。年齢も住所もわかんないし」

「そう、そこがいい。……ちゃんとしてるよね、そういうとこ」

凛の声が少しだけ柔らかくなった気がした。ファンとしての敬意、みたいなものが滲んでいて、僕は急に居たたまれなくなった。

今すぐここを離れたい。でも弁当はまだ半分残っている。不自然に席を立ったら、それこそ目立つ。僕は黙って残りの肉じゃがを口に押し込んだ。味がわからなかった。じゃがいもの柔らかい食感だけが、意味のない情報として口の中で崩れていく。窓から入る五月の風が首筋を撫でたけれど、背中にはじっとりと汗が張りついていた。

あと二週間で修学旅行だ。同じバスに乗り、同じ場所を歩き、夜は同じ建物で眠る。そのどこかで——凛の耳に、僕の配信が届かないとは限らない。

弁当箱の蓋を閉めた。窓の外の銀杏は、先週よりもっと緑が深くなっていた。

帰り道、駅までの並木道を一人で歩きながら、僕はイヤホンの中で自分の過去配信を聞き返していた。癖を探すためだ。語尾の伸ばし方、笑うときの息の吐き方、驚いたときの声の裏返り方。教室の僕との共通点を、一つずつ洗い出して潰していく。

スマホの画面に通知が光った。登録者数、十二万五千人突破。

おめでとう。ありがとう。——でも今は、その数字が少しだけ重かった。十二万五千人が僕の声を知っている。そのうちの一人が、二列前の席に座っている。

夕焼けが並木道を赤く染めていた。影が長く伸びて、僕の輪郭を道の先まで引き延ばしている。イヤホンの向こうで配信中の僕が笑っていて、その声はどこまでも明るくて、今の僕とはまるで別人だった。僕はイヤホンの音量を上げて、自分の声で自分の耳を塞いだ。

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