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ヨルノは教室を知らない

第3話 第3話

第3話

第3話

バスの窓に額をつけると、ガラス越しに五月の京都が流れていった。

新幹線を降りてから観光バスに乗り換えて、もう四十分になる。車内は修学旅行特有の浮ついた空気で満ちていて、誰もが誰かと喋り、誰もが誰かと笑っている。僕は最後列の窓側に座って、イヤホンの代わりにバスのエンジン音を耳に流し込んでいた。さすがにここでイヤホンをつけたら、班行動初日から空気を壊す。それくらいの判断力は、三年間の透明人間生活で身についている。

「春日、お前めっちゃいい席取ったな。窓側最後列とか修学旅行の特等席じゃん」

隣に座った藤堂が、大きな身体をこちらに傾けてきた。膝がぶつかりそうになって、僕は反射的に身を縮める。制汗剤と汗の混じった、運動部特有の匂いがふわりと届いた。

「……たまたま空いてたから」

「おれ通路側でよかったわ。足伸ばせるし」

藤堂はそう言って、本当に通路側に長い脚を投げ出した。後ろの席がないからできる芸当だ。僕が三語で終わらせた会話を、藤堂は気にした様子もなく引き受けて、勝手に完結させてくれる。その気安さが、少しだけありがたくて、少しだけ怖い。距離が近い人間は、壁のひびに気づきやすいから。

バスが大きくカーブを切って、車窓に東山の稜線が広がった。新緑と古い瓦屋根のコントラストが目に刺さるほど鮮やかで、僕は無意識にポケットの中のスマホを握っていた。——撮りたい。この光を、配信のオープニング素材に使いたい。

でも今は、だめだ。隣に藤堂がいる。

指をスマホから離して、僕はただ窓の外を見つめた。京都の五月は東京より少しだけ空気が重たくて、湿った緑の匂いがガラス越しにも感じ取れる気がした。

清水寺の参道を、班の五人で歩いた。藤堂が先頭、僕は自然と最後尾になる。修学旅行のしおりに挟んだ班行動の地図を見るふりをしながら、実際には参道の石畳や土産物屋の軒先を目で切り取っていた。配信者の目は、どこにいても素材を探してしまう。坂道を上がるにつれて汗ばんだ首筋に風が当たって、焼き八つ橋の甘い匂いと石段に染みた雨の匂いが交互に鼻を掠めた。

「春日、抹茶ソフト食う? おごるよ」

藤堂が振り返って声をかけてきた。他の三人はもう買って食べている。僕だけが何も持たずに立っていた。

「いや、大丈夫」

「遠慮すんなって。修学旅行だぞ」

押しが強い。断り方のレパートリーが尽きて、僕は結局抹茶ソフトを受け取った。藤堂は「な、うまいだろ」と笑って、すぐ前を向いて歩き出す。手の中のソフトクリームが五月の日差しで端から溶け始めていて、慌てて舐めた。抹茶の苦味と甘さが舌先で混ざり合って、こういう味を「青春っぽい」と表現したら、配信のリスナーは笑うだろうか。

自由時間になった途端、僕は班からそっと離れた。藤堂たちが土産物屋に吸い込まれていく隙に、裏路地に折れる。集合時間まで一時間半。十分すぎる。

路地裏の京都は、表通りとはまるで別の顔をしていた。観光客の喧騒が嘘みたいに遠のいて、苔むした石垣と格子窓だけが続く。僕はスマホを取り出し、動画モードに切り替えた。

水路に映る新緑。軒先で眠る猫。石畳の隙間から顔を出す雑草の花。一つひとつにレンズを向けながら、頭の中では配信のナレーションが自動的に組み上がっていく。『京都の路地裏ってさ、時間の流れ方が違うんだよ。三歩歩くだけで、百年くらい巻き戻る感じ』——うん、このフレーズは使える。スマホのメモに打ち込んだ。

小さな寺の境内に辿り着いた。名前も知らない、ガイドブックにも載っていなさそうな寺。だけど苔の緑が深くて、木漏れ日が砂利の上に落とす模様が息を呑むほど綺麗だった。カメラを構えて、十秒の素材を三本撮る。この光は、夜のオープニングにぴったりだ。

手を合わせて何を祈ったかは、自分でもよくわからない。ただ、バレませんように、という言葉だけが頭をよぎった瞬間、自分が可笑しくなった。寺で祈ることがそれかよ。

集合場所に戻ると、藤堂が「どこ行ってたんだよ」と聞いてきた。「ちょっと散歩」と答えたら、「春日って一人行動好きだよな」と笑われた。否定はしなかった。否定する必要もなかった。

旅館の大部屋は八畳が二間続きで、布団が五組敷かれていた。

消灯は十時。川島先生が見回りに来て、「寝ろよお前ら」と形だけの注意をして去っていく。藤堂たちは案の定寝る気配がなく、スマホをいじったり小声で喋ったりしている。僕は自分の布団で仰向けになり、天井の木目を見つめていた。

ピンマイクは旅行バッグの底に忍ばせてある。スマホスタンドも。準備は完璧なのに、身体が動かなかった。

十時半、ようやく一人が寝落ちした。静かな寝息が畳の上を這う。十一時、もう一人。藤堂はまだスマホの画面を見ているらしく、ときどき鼻で笑う音が聞こえる。何を見ているんだろう。——もしそれが僕の配信だったら。

想像しただけで、胸の奥が冷たくなった。

僕はそっと寝返りを打って、壁側を向いた。布団の中でスマホを開く。配信ソフトのアイコンが、暗い画面の中でぼんやり光っている。指がアイコンの上で止まった。タップすれば、いつもの僕になれる。声を出せる場所が、指一本の距離にある。

でも隣の布団まで、一メートルもない。

囁き声でも——いや、だめだ。この静けさの中では、息遣いすら輪郭を持つ。旅館の夜は、自分の部屋とは違う。壁が薄くて、空気が繋がっていて、誰かの寝返りの音まではっきり聞こえる。ここは僕だけの空間じゃない。

配信ソフトを閉じた。代わりにコメント欄を開く。今夜は投稿がないことに気づいたリスナーたちが、心配のコメントを残し始めていた。『ヨルノさん今日お休み?』『体調大丈夫?』。一つひとつが胸に刺さる。配信しなかった日の罪悪感は、いつだって翌日の配信で取り返せばよかった。でも明日もこの部屋で寝る。明後日も。三日間、僕は「ヨルノ」になれない。

その事実が、思った以上に僕の輪郭を曖昧にしていく。配信しない僕は、ただの春日陽介だ。誰にも見えない、何も持っていない、窓際の最後列。

天井の木目が暗闇の中でゆっくり歪んで見えた。旅館特有の木と畳の匂いが鼻の奥に溜まる。どこかの部屋で笑い声が上がって、廊下を先生のスリッパが通り過ぎた。それきり、また静寂。僕はスマホを胸の上に置いて、目を閉じた。眠れないまま、時間だけが畳の目を伝うように過ぎていく。

「——なあ、春日。起きてる?」

暗闘の中で、藤堂の声がした。低くて、小さい。昼間のあの声量が嘘みたいだ。

「……起きてる」

「だよな。おれも全然眠れなくてさ」

布団の擦れる音がして、藤堂が寝返りを打ったのがわかった。スマホの画面の光が天井にうっすら映って、すぐ消えた。

「春日ってさ、普段何見てんの。動画とか」

「……いろいろ」

「おれ最近ハマってるやつあんだよね。ゲーム実況なんだけど」

心臓が嫌な跳ね方をした。布団の中で、爪が掌に食い込むのを感じた。

「ヨルノっていうチャンネル。知ってる?」

知ってる。それは僕だ。返事をするまでの二秒間が、五分くらいに引き伸ばされた気がした。喉の奥が張りついて、声を出すのに想像以上の力が要る。天井の木目が視界の端でぐらりと揺れた。指先が冷たい。さっきまで体温で温まっていたはずのスマホが、急に氷みたいに感じられた。

「……名前だけ」

「マジか、見てみろって。トーク面白いしさ、声がいいんだよ。おれ、あの声聞くと元気出んだよな」

暗闇の中で、藤堂が小さく笑った。その笑い方に悪意はなくて、純粋に好きなものを勧めているだけの、まっすぐな温度があった。

僕は布団を顎まで引き上げて、声が震えないように注意深く息を整えた。旅館の天井が、暗闇の中でどこまでも高く見えた。

「——今度、見てみる」

それだけ言うのが、精一杯だった。藤堂は「おう、絶対ハマるから」と返して、それきり静かになった。しばらくして、穏やかな寝息が聞こえ始める。

僕だけが、目を開けたまま朝を待っていた。胸の上のスマホが、体温でほんのり温まっている。画面は暗いままだ。十二万五千人に届く声を持っているのに、隣の布団の一人にさえ本当のことが言えない。

障子の向こうが、うっすら白み始めていた。京都の朝は早い。

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