第3話
第3話
三日が経ち、七日が経った。
源五郎の朝は夜明け前に始まり、おたねの竈の前で終わるようになっていた。昆布の浸水は前夜のうちに仕込み、鰹節は小刀で削る腕が日ごとに上がった。最初は厚い欠片しか削れなかったものが、今では薄く透ける削り片を安定して出せる。刃の角度を寝かせ、手首ではなく肘から引く。身体が覚え始めていた。
出汁の椀に冷や飯を合わせた粥。沢庵の端を刻んで散らしただけの、何の変哲もない朝餉。だがそれを口にした者の顔は、皆一様に変わった。
最初は子供たちだけだった。次におたねの飯を買いに来る独り者の職人が一人、二人と箸をつけるようになり、やがて路地の向こうから棒手振りの魚屋が顔を出した。
「おい、三男坊。噂の粥ってのはここかい」
魚屋の佐吉は四十がらみの日焼けした男で、毎朝天秤棒を担いで日本橋の河岸から魚を仕入れ、裏長屋を売り歩いている。声は大きく、愛想はないが、舌だけは確かだと長屋の者たちは知っていた。
「ただの出汁粥だ。大したものではない」
「いいから食わせろい」
源五郎が椀を差し出すと、佐吉は胡坐をかいたまま一口啜り——そのまま二口、三口と止まらなかった。椀の底が見えたところで、ようやく口を開いた。
「……なんでえ、こりゃあ」
「昆布と鰹節の合わせ出汁で——」
「能書きはいい。明日もあるか」
「ある」
「なら俺も来る。ついでに売れ残りの鯵を持ってきてやらあ」
翌朝、佐吉は本当に鯵を三尾持って現れた。源五郎は出汁に味噌を溶き、鯵のつみれを落とした椀を拵えた。佐吉が「こいつは反則だ」と唸り、その話が河岸の仲間に伝わった。三日後には、隣町の桶屋と畳刺しが朝飯を食いに来た。
おたねの竈の前に、人が集まるようになった。
*
七日目の朝、源五郎は竈の前に並んだ七つの椀を見下ろしていた。
佐吉が持ち込んだ鯵、桶屋の留吉が礼にと置いていった大根、畳刺しの五平が知り合いの乾物屋から融通してもらった昆布。食材が人づてに集まり、源五郎の手元は日を追うごとに豊かになっていた。
竈の火を見つめながら、源五郎は奇妙な感覚に囚われていた。
人の輪の中心にいる、という感覚。前世の三十四年間で一度も味わったことのないものだった。山崎健一は会社の飲み会で常に端の席に座り、話の輪に入れず、二次会には呼ばれなかった。誕生日を祝われたことも、相談を持ちかけられたことも、ない。透明な人間だった。空気のように存在し、空気のように消えた。
それが今、毎朝この竈の前に人が来る。源五郎の出汁を、源五郎の粥を、源五郎の椀を求めて来る。名前を呼ばれる。「三男坊」ではなく——「源五郎さん」と。
嬉しいのだ。間違いなく嬉しい。だがその嬉しさの裏側に、ちりちりとした不安が張り付いている。こんなものがいつまでも続くはずがない。前世でもそうだった。何か一つ良いことがあると、必ずその後にもっと大きな悪いことが来た。昇給の翌月に部署異動、束の間の安息の後に終わりのない残業。だから期待しない方がいい。期待しなければ、裏切られることもない——。
「源五郎さん、味噌が足りないよ」
おたねの声に我に返った。鍋が吹きかけている。慌てて火を引き、味噌を溶く。指先が震えていることに気づき、源五郎は椀を握り直した。
この時間が続く保証など、どこにもないのだ。
その予感は、午後になって現実のものとなった。
*
父・秋山勘右衛門に呼び出されたのは、八ツ半を過ぎた頃だった。
秋山家の奥座敷——といっても六畳一間に違いないが、畳だけは父の代に表替えをしている。父は床の間を背に端座し、源五郎を見据えていた。五十を過ぎ、頬がこけ、髪に白いものが目立つ。だが眼光だけは衰えていない。下級御家人とはいえ武門の矜持を骨の髄まで叩き込まれた男の目だった。
「源五郎。裏長屋で飯炊きをしておるそうだな」
声は穏やかだったが、その穏やかさの奥に氷のような怒りが透けていた。源五郎は畳に手をつき、頭を下げた。
「はい。おたね殿の台所を借りまして——」
「誰に許しを得た」
「……得ておりませぬ」
「棒手振りや職人に飯を振る舞い、礼に魚だの大根だの受け取っておるとも聞いた。物を受け取れば、それは商いだ。武士が商いをするなど、言語道断」
父の言葉は正しかった。この時代、武士が商売をすることは恥とされる。建前の上では、武士は禄で生き、町人は商いで生きる。その身分の壁を、源五郎は無自覚に踏み越えていたのだ。
「武家の体面を汚すなと、何度言えばわかる」
「父上、拙者は別に商いをしようというのでは——」
「ならば何だ。道楽か。道楽にしても分を弁えぬ」
源五郎は唇を噛んだ。言い返したい言葉が喉の奥に溜まっている。体面とは何だ。禄だけでは粥すら満足に食えぬ家で、体面も何もあるものか。だがこの身体の記憶が、口を開くことを許さなかった。秋山家で三男坊が父に口答えをすれば、頬を張られるだけでは済まぬ。勘当という二文字が、現実の重みを持って源五郎の首筋に圧し掛かった。
「明日より、おたねの台所には近づくな。竈も鍋も、一切触れるな」
「父上——」
「これは命だ」
父の声が、一段低くなった。反論を許さぬ声だった。源五郎は畳に額をつけたまま、拳を握り締めた。爪が掌に食い込む。血が滲んでいるかもしれなかったが、確かめる余裕はなかった。
「……承知、仕りました」
それだけを絞り出すのが精一杯だった。
奥座敷を辞し、縁側に出ると、長兄が腕を組んで立っていた。先日源五郎を殴った兄が、今度は殴りもせず、ただ冷たい目で弟を見下ろしている。
「父上に叱られたか」
「……はい」
「当然だ。お前が竈の前で這いつくばっておると、儂まで笑い者にされる。いい加減にせよ」
長兄は吐き捨てるように言い、奥へ消えた。源五郎は縁側の柱に背を預け、目を閉じた。
台所を取り上げられた。
出汁も、粥も、竈の火も。七日間かけて手に入れかけたもの全てが、父の一言で消し飛んだ。あの竈の前に集まっていた人々——佐吉の荒い声、留吉の笑顔、子供たちの「旨い」——あの全てが、もう明日からはない。
前世と同じだ、と思った。
何かを掴みかけたところで、いつも手からこぼれ落ちる。何かを始めかけたところで、いつも横から叩き潰される。前世では上司がそれをやり、今生では父と兄がそれをやる。時代が変わっても、自分は結局この位置なのか。
縁側の向こうに、夕暮れの空が広がっていた。茜色が長屋の屋根を染め、鴉が一羽、ゆっくりと飛んでゆく。どこかで夕餉の支度をする音が聞こえる。薪の爆ぜる音、水を汲む桶の軋み、母親が子を呼ぶ声。
源五郎は拳を解いた。掌に、爪の跡が四つ、赤く残っていた。
*
その夜、源五郎は三畳間の煎餅布団の上で、暗い天井を見つめていた。
竈の火が消えた。あの小さな、煤けた竈の火が。
だが——と、源五郎は思った。火が消えたのは竈であって、自分の中のものではない。おたねの出汁を飲んだときの、あの「化ける」という直感。子供たちの「旨い」。佐吉の「明日もあるか」。あれは全て本物だった。殴られても消えなかったものが、叱られた程度で消えるはずがない。
ならば、どうする。
父の命に背けば勘当される。この時代、勘当された武家の三男坊など、行く先は乞食か野垂れ死にだ。だが命に従えば、あの竈の前には二度と立てぬ。前世と同じように、全てを手放して、何者にもなれぬまま朽ちてゆく。
障子の外を、夜風が吹き抜けた。裏長屋のどこかで犬が一声吠え、すぐに静まった。遠くの番太の拍子木が、乾いた音を夜に刻んでいる。
枕元に、懐から出した欠けた椀がある。おたねの竈で初めて出汁を引いたときの椀だ。もう中には何も入っていない。だが鼻を近づけると、微かに——ほんの微かに、鰹の残り香がした。
その匂いを嗅いだ瞬間、ふと、ある名前が脳裏をよぎった。
黒船。
嘉永六年。来年だ。ペリーが浦賀に来る。この国が根底から揺さぶられる日が、あと一年もせずに訪れる。あの混乱の中で、飯を炊ける人間が要らぬはずがない——。
まだ何の当てもない。ただの妄想かもしれぬ。だが欠けた椀を握る手に、源五郎は力を込めた。竈がなくとも、出汁の引き方を知っている手がある。この手だけは、誰にも取り上げられぬ。
裏長屋の闇の中で、男は目を開けたまま朝を待った。