第2話
第2話
翌朝、源五郎は夜明け前に目を覚ました。
障子の向こうはまだ薄暗い。隣の間から長兄の鼾が低く響いている。源五郎は音を立てぬよう煎餅布団から這い出し、袖を通した。昨夜、おたねの竈の前で水に浸しておいた昆布のことが、寝ている間もずっと頭の隅にあった。
裏長屋の路地に出ると、秋の朝の冷気が頬を刺した。井戸端で顔を洗い、おたねの棟へ向かう。戸口に近づくと、もう竈に火が入っている気配があった。
「おや、源五郎さん。早いねえ」
おたねは炭を継ぎ足しながら振り返った。竈の脇に、昨夜のまま置いてあった鍋がある。源五郎は膝をつき、蓋を取った。
水が薄く色づいている。昆布の旨味が、一晩かけてゆるりと滲み出したのだ。鼻を近づけると、海の香りがほのかに立つ。前世であれば何でもない光景だったが、今この時代に、この手で引き出した一番出汁の入り口がそこにあった。
「おたね殿、鰹節を」
「ほら、これだけだよ。大事に使いな」
婆が差し出したのは、手のひらに収まるほどの鰹節の塊だった。前世のスーパーで売られていた削り節のパックとは比べものにならぬ。硬い。そして高い。長屋暮らしの婆にとって、これは贅沢品そのものだ。
源五郎は鰹節を手に取り、削り器がないことに気づいた。当たり前だ。こんな長屋の台所に、削り器などあるはずがない。一瞬、前世の知識と現世の道具の落差に眩暈がした。だが立ち止まってはおれぬ。小刀を取り出し、鰹節の表面を薄く削ぎ始めた。刃の角度が悪い。削り節のように薄くはならず、厚い欠片がぼろぼろと落ちる。
「違う、もっと薄く——」
呟きながら、刃を寝かせた。三度、四度と試すうちに、どうにか花鰹とは呼べぬまでも、それなりに薄い削り片が膝の上に溜まっていった。指先が鰹節の脂で滑る。爪の間に粉が詰まる。前世なら百円で買えたものに、これほど手間がかかる。だがその手間の一つひとつに、百五十年分の距離が詰まっていた。
*
昆布を浸した鍋を竈にかけた。
火加減が肝だと、源五郎は知っている。沸騰させてはならぬ。昆布の旨味は六十度から七十度の間で最もよく出る——前世の料理番組で聞きかじった知識だが、この時代に温度計などない。指を湯に入れ、熱いが我慢できる程度、それが目安だった。
湯が微かに揺れ始めた頃合いで昆布を引き上げる。次に火を強め、沸騰の直前——鍋底から細かい泡が立ち上り始めた瞬間に、削った鰹節を一気に投じた。
ふわり、と香りが立った。
源五郎の手が止まった。鰹の、あの力強く芳醇な香り。前世で当たり前に嗅いでいたはずのものが、こうして自分の手で引き出してみると、まるで別物だった。鍋の中で鰹節が躍り、湯の色が琥珀に染まってゆく。
火を落とし、鰹節が沈むのを待つ。布で漉す——漉す布がない。源五郎は一瞬詰まり、手拭いを引き裂いてざるに敷いた。おたねが「ああ、もったいない」と声を上げたが、構っている暇はなかった。
琥珀色の液体が、欠けた椀に細く落ちてゆく。
これだ。
合わせ出汁。昆布のグルタミン酸と鰹節のイノシン酸が重なり合い、旨味が何倍にも膨れ上がる相乗効果。二十一世紀では科学的に解明されている原理が、今この煤けた竈の上で、源五郎の手によって再現された。
だが問題はここからだった。前世の記憶通りにはいかぬ。昆布の質が違う。鰹節の削り方が粗い。火加減も勘頼みだ。椀に落ちた出汁を一口含んでみると——旨い。確かに旨い。だが理想にはまだ遠い。昆布の旨味がやや弱く、鰹の香りが前に出すぎている。
源五郎は鍋を見つめ、考えた。昆布の浸水時間をもっと長くするか。あるいは火にかける前に、昆布の表面を布で拭いて白い粉を落としすぎたのがまずかったか。あの粉にも旨味が含まれているはずだ。
「もう一度、やらせてくれ」
おたねに頼み込み、残りの昆布で二度目を試みた。今度は昆布を拭かず、浸水も長めに取った。火加減をさらに慎重に、湯の揺れ具合だけを見つめて調えた。鰹節を入れる量も心持ち減らし、昆布との均衡を探る。
二度目の出汁を椀に受け、口に含んだ瞬間、源五郎は目を閉じた。
——近い。
昆布の穏やかな旨味が先に舌の上に広がり、そこへ鰹の香りが静かに追いかけてくる。二つの旨味が溶け合い、一つの奥深い味わいとなって喉の奥へ滑り落ちてゆく。完璧ではない。まだ粗い。だが前世の記憶にある「合わせ出汁」の骨格が、確かにそこにあった。
「おたね殿、飲んでみてくれ」
椀を差し出すと、婆は怪訝な顔のまま受け取り、ふうふうと息を吹きかけてから一口啜った。
おたねの手が、止まった。
皺だらけの唇が椀の縁から離れず、二口目を、三口目を、飲んでいる。婆の目が、じわりと見開かれた。六十年生きてきた舌が、初めて触れる味の層に戸惑っている——その表情を、源五郎は食い入るように見つめていた。
「……何だい、これは」
おたねの声が掠れていた。
「あたしゃ長いこと飯を炊いてきたけどね、こんな汁は飲んだことがないよ。舌の上で何かが——広がるっていうのかい。醤油でもない、味噌でもない、何かこう、奥の方にもう一つ味がある」
「それが出汁だ。昆布と鰹節を合わせると、こうなる」
源五郎の声は、自分でも驚くほど静かだった。嬉しいのだ。ただ純粋に、嬉しい。前世で三十四年間、一度も聞けなかった言葉——「これは美味い」に等しいものを、今この竈の前で、初めて聞いた。
*
匂いは正直だった。
裏長屋の路地に鰹出汁の香りが流れると、まず子供たちが現れた。鼻を膨らませ、おたねの竈を覗き込む裸足の童が三人、四人と増えてゆく。
「おたね婆、何の匂い」
「いい匂いがする、腹が減った」
源五郎は出汁の残りに冷や飯を放り込み、塩をひとつまみ振っただけの粥を作った。たったそれだけのものだ。だが椀を受け取った子供たちが一口啜ると、路地に沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、いつも腹を空かせている鼻垂らしの男の子だった。
「——旨い」
その一言に、他の子供たちも続いた。旨い、旨い、もう一杯、と椀を差し出す小さな手が源五郎の前に並んだ。
前世では、誰にも求められなかった。 この世では、初めて「もう一杯」と言われている。
その事実が胸の奥の、とうに枯れたと思っていた場所に沁みた。源五郎は黙って鍋の底をさらい、最後の一杯分を男の子の椀に注いだ。粥の湯気が、朝の冷たい空気の中でゆらゆらと立ち上った。
そのとき、背後で足音がした。
振り返ると、路地の入り口に長兄が立っていた。腕を組み、眉間に深い皺を刻んで、竈の前に膝をつく弟を見下ろしている。
「源五郎」
その声の冷たさに、子供たちが蜘蛛の子を散らすように逃げた。おたねも竈の陰に身を引いた。
「何をしておる」
「兄上、これは——」
「武士が竈の前に這いつくばって、飯炊き婆と粥を拵えておるとは」
言葉は静かだったが、次の瞬間、拳が飛んだ。頬に衝撃が走り、源五郎は竈の脇に倒れ込んだ。椀が転がり、煉瓦に当たって鈍い音を立てた。口の中に血の味が広がる。
「秋山の家に、恥をかかせるな」
長兄はそれだけ言い残し、踵を返した。足音が路地の奥へ遠ざかってゆく。源五郎は竈に手をつき、ゆっくりと身を起こした。頬が熱い。唇の端が切れ、血が顎を伝い落ちて、土間の土に小さな染みを作った。
おたねが慌てて駆け寄り、手拭いを差し出した。
「大丈夫かい、源五郎さん。ほら、血が——」
「構わぬ」
源五郎は口の端の血を拭い、転がった椀を拾い上げた。欠けてはいない。まだ使える。その椀の底に、出汁粥の残りがわずかに光っていた。
殴られた頬が熱く脈打っている。だが——不思議と、心は折れていなかった。前世なら、ここで全てを投げ出していた。上司に叱責されるたび、取引先に怒鳴られるたび、黙って引き下がり、何も言い返さず、自分の中の火を一つずつ消していった。そうやって三十四年かけて、全部消し終えた頃に死んだ。
だが今日、子供たちが「旨い」と言った。おたねの目が見開かれた。あの瞬間の手応えは本物だ。殴られた程度で消える火ではない。
源五郎は欠けた椀を懐に収め、竈の前に座り直した。煤けた鍋底に、昆布の切れ端がまだ一片残っている。それを指先でつまみ上げ、匂いを嗅いだ。海の香りが、微かに——だが確かに、残っていた。
「おたね殿」
「何だい」
「明日も、台所を借りてよいか」
婆は源五郎の腫れた頬を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「好きにおやりよ。——あんたの出汁は、確かに美味かったからねえ」
路地の向こうから、さきほど逃げた子供たちがこちらを窺っていた。源五郎が目を向けると、一人がひょいと顔を出し、小さな声で言った。
「明日もあの粥、食えるかい」
源五郎は腫れた頬のまま、かすかに笑った。