第1話
第1話
死んだ、と思った。
蛍光灯の白い光が視界の端で滲み、コンビニ弁当の匂いが鼻をかすめたのが最後だった。終電を逃した深夜のオフィス、机に突っ伏したまま意識が途切れた。心臓が軋むような痛みがあった気もするが、もはや定かではない。三十四年の生涯で、誰かに看取られることもなく、誰かに惜しまれることもなく——ああ、やはり自分はこういう終わり方をする人間だったのだと、妙に腑に落ちた。
それが、目を開けたら板天井だった。
黴と煤と、かすかに漂う味噌の匂い。身体が重い。手を見れば、見覚えのない痩せた指がある。爪の間に泥が詰まっている。起き上がろうとして、背中に硬い板の感触を覚えた。煎餅布団一枚。枕は蕎麦殻。障子の破れ目から差し込む朝の光が、埃を浮かび上がらせている。
ここはどこだ。
いや——いつだ。
記憶が濁流のように押し寄せてきたのは、それから半刻ほど経った頃だった。この身体の持ち主の記憶。名は秋山源五郎。御家人の三男坊。嘉永五年、江戸。
嘉永五年。西暦にして一八五二年。ペリーが浦賀に来る一年前。
源五郎は——いや、かつて山崎健一という名のサラリーマンだった男は、薄暗い裏長屋の三畳間で、しばし呆然と天井を見上げていた。
*
下級御家人・秋山家の朝餉は、質素を通り越して侘しかった。
冷や飯に味噌をひと匙。沢庵が二切れ。以上。汁物すらない。長兄の膳には焼き魚がつくが、三男坊の分はない。家督を継ぐ見込みのない厄介者に割く米も菜も、この家にはないのだ。
「源五郎、食うたら井戸の水を汲んでおけ」
長兄の声に頷き返しながら、源五郎は冷えた飯を口に運んだ。
不味い。
いや、不味いという言葉では足りぬ。米そのものは悪くない。粒の立ち方からして、前世のスーパーで買っていた安米よりよほど上等な米だ。だが炊き方がいけない。水加減が多すぎる。そして何より——出汁がない。味噌はただ塩気があるだけで、旨味の奥行きというものがまるでない。
前世の記憶が、舌の上で重なった。深夜のコンビニで買った味噌汁。インスタントですら、もう少し出汁が利いていた。百五十年後の日本人が当たり前に口にしている「旨さ」の土台が、この時代にはまだ庶民の食卓に届いていない。
「兄上、この味噌は——」
「黙って食え。文句を言える身分か」
長兄の冷たい一瞥に、源五郎は口を噤んだ。箸を持つ手が一瞬止まり、飯粒がぽろりと膳の上に落ちた。それを指先でつまみ上げ、口に入れる。冷えた米の、ざらついた感触が歯茎に触れた。飲み下すと、喉の奥に味噌の塩気だけがいつまでも残った。
秋山家における三男坊の立ち位置は明確だった。剣術は中の下。学問は素読をどうにか終えた程度。長兄は家督を継ぎ、次兄は養子の口が決まっている。源五郎だけが、どこにも行き場がない。
前世と同じだ、と思った。
山崎健一もそうだった。営業成績は中の下。昇進の見込みはなく、結婚もせず、友人と呼べる者もおらず、毎日終電まで働いて、コンビニ弁当を食って寝る。誰にも必要とされぬまま、三十四年を擦り減らして死んだ。
生まれ変わっても、同じ場所にいる。
その虚しさを噛み締めながら膳を下げ、井戸端へ向かう途中、裏長屋の路地から煮物の匂いが漂ってきた。
足が止まった。
醤油と、何かの根菜を煮含めた匂い。素朴だが、どこか懐かしい。前世でも嗅いだことのある匂いだった。正月に祖母の家を訪ねた幼い頃——いや、山崎健一の祖母だ。もういない人の、もう存在しない台所の記憶。それでも鼻腔の奥に刻まれた匂いは、百五十年の隔たりを越えて、源五郎の足を引き留めた。源五郎は匂いに引かれるまま、隣の棟に住む飯炊き婆・おたねの竈の前に立っていた。
「おたね殿、何を煮ておられる」
「ああ、源五郎さんかい。大根だよ、大根。裏の畑で抜いたやつを、醤油でくたくたに煮ただけさ」
おたねは六十がらみの小柄な婆で、長屋の独り者や子供たちに飯を炊いてやることで日銭を稼いでいた。竈の前に座り込み、煤けた鍋の蓋を取る。湯気の中に、大ぶりに切った大根が崩れかけていた。湯気が婆の皺だらけの顔を包み、その向こうに竈の炎が赤く透けていた。
「一切れ、いただけぬか」
「食いなよ、遠慮するこたあない」
箸で持ち上げた大根を、口に含んだ。
甘い。醤油の塩気の奥に、大根そのものの甘みがある。繊維が舌の上でほどけ、じんわりと旨味が広がる——が、そこで止まる。奥行きがない。旨味の層が一枚しかない。美味いのだ。前世で口にしたどんなコンビニ飯よりも、素材そのものは圧倒的に美味い。だがそれは、磨かれていない原石のようなものだった。あと一手、あとほんの一手で、この大根は別の次元に届く。源五郎は咀嚼しながら、その「一手」が何であるかを、もう知っていた。
前世の記憶が、雷のように閃いた。
昆布のグルタミン酸と、鰹節のイノシン酸。この二つを合わせたとき、旨味は単純な足し算ではなく、何倍にも膨れ上がる。相乗効果。二十一世紀の日本人なら誰でも知っている合わせ出汁の原理が、この時代の庶民の台所にはまだ届いていない。
この大根に、昆布と鰹の合わせ出汁を含ませたら——。
口の中に、まだ存在しない味の像が浮かんだ。昆布の穏やかな旨味が大根の繊維に染み渡り、そこへ鰹の力強い香りが追いかけてくる。醤油はそれらを繋ぐ糸になる。味の奥行きが一層から三層になり、噛むたびに違う旨味が立ち上がる——前世のコンビニの棚で百五十円で売られていた「だし巻き卵」にすら宿っていたあの複雑さが、この時代の大根にはまだない。
「おたね殿」
源五郎は自分でも驚くほど真剣な声を出していた。
「この大根、出汁を変えたら化ける」
「出汁? あたしゃ醤油と水で炊いてるだけだよ」
おたねは鍋の縁に手を置いたまま、怪訝そうに源五郎を見上げた。武家の三男坊が飯炊き婆の煮物に口を出すなど、聞いたこともない話だったろう。
「昆布はあるか。それと鰹節」
「昆布なら少しあるけどねえ。鰹節は高いよ、源五郎さん」
婆の声には呆れと心配が半々に混じっていた。あんた、銭も碌にないくせに何を言い出すんだい——そう言いたげな目だった。
源五郎の脳裏を、前世のオフィスの風景がよぎった。蛍光灯に照らされた灰色のデスク、積み上がった書類、誰とも目を合わせずにキーボードを叩き続ける夜。誰にも必要とされず、何の痕跡も残さず消えた三十四年。あの人生で、自分は一度でも「これだ」と思えるものに出会えただろうか。
出会えなかった。だから死んだ。
だが今、この手の中に、確かなものがある。百五十年先の「味」の記憶。それだけが、二つの生を跨いで残った唯一の財産だった。
「おたね殿、頼みがある」
源五郎は畳に手をついた。武士が飯炊き婆に頭を下げるなど、傍目には滑稽な姿だったろう。だが男の目は据わっていた。
「この台所を、少しだけ貸してはくれぬか。俺に——いや、拙者に、出汁の引き方を試させてほしい」
おたねは目を丸くし、それから皺だらけの顔をくしゃりと崩した。
「あんた、侍のくせに変わってるねえ。まあいいよ、好きにおやり。ただし薪は自分で割りな」
竈の火が、ちろちろと揺れていた。
煤けた鍋と、欠けた椀と、ひと握りの昆布。前世では百円で買えたものが、この時代では贅沢品だ。だが源五郎の胸の内には、冷や飯の侘しさとは別の何かが灯り始めていた。
出汁の引き方ひとつで、この国の飯は化ける。
まだ確信とは呼べぬ。ただの直感、ただの予感に過ぎぬ。されど前世の三十四年間で、一度も灯らなかった火が、今この竈の前で小さく揺れている。
裏長屋の路地を、秋の風が吹き抜けていった。どこかで子供の笑い声がする。物干し竿に掛かった襤褸の着物が、風にはたはたと揺れている。源五郎は袖を捲り上げ、おたねの竈の前に膝をついた。手のひらに昆布の乾いた感触がある。海の匂いが、かすかに立ち上った。
——この世界では、逃げない。
昆布を水に浸しながら、男は静かにそう決めた。水面に昆布が沈んでゆく。その向こうに、鍋底の煤けた黒が見える。百五十年の未来からやってきた知識と、この手の中の煤けた鍋と。大層なものは何もない。されど——まだ何者でもない、何も持たぬ三男坊の、それが最初の一歩だった。