第1話
第1話
四月の教室は、まだどこかよそよそしい匂いがする。
新しい教科書のインクと、誰かの制汗剤と、窓から入ってくる校庭の土埃。高二になって席替えをしたばかりの教室で、俺——柊真人は、窓際の一番後ろという特等席を引き当てたことに静かに安堵していた。ここなら、黒板を見ているふりをしながら外を眺めていても誰にも気づかれない。桜はもう散りかけていて、花びらが風に乗って校庭のフェンスに張りついている。あと一週間もすれば、あの薄桃色は茶色く縮んで地面に溶ける。誰にも見られないまま消える。それでいい、と思う。花びらも、俺も。
四時間目の現代文が終わり、チャイムが鳴ると同時に教室の空気が弛んだ。椅子を引く音、弁当箱を開ける音、女子の笑い声。俺は机の中から購買のパンを取り出して、窓の外に目をやった。
「おーい、柊」
聞こえないふりは、できなかった。声の主は須藤翔——クラスの中心にいつもいる、背が高くて声のでかい、典型的な陽キャだ。サッカー部のエースで、女子からの人気も高い。俺とは住んでいる世界が違う。
「柊ってさ、いっつも一人で窓の外見てるよな。何が見えんの?」
須藤の隣で、取り巻きの大垣が笑う。別に悪意があるわけじゃないんだと思う。多分。ただ、教室の隅にいる地味な奴をいじるのが、昼休みの暇つぶしにちょうどいいだけだ。
「別に。ぼーっとしてるだけ」
「ぼーっとしてるだけって、お前いつもそうじゃん」
須藤はケタケタ笑いながら、俺の肩をポンと叩いた。力加減は軽い。いじめじゃない。からかいですらないのかもしれない。ただの確認——お前は俺たちの下にいるよな、という無意識の確認。
「お前って何もないよな」
その一言は、たぶん須藤にとっては空気みたいに軽かった。言った本人は三秒後にはもう大垣とサッカーの話をしている。でも俺の胸の中で、その言葉は小石みたいに沈んでいった。水面には波紋も立たない。もう慣れた。何もない柊真人。それが俺の高校での名刺だ。
俺は愛想笑いを浮かべたまま、パンの袋を開けた。コッペパンのジャムが、やけに甘い。甘さが舌に広がるたびに、須藤の言葉が喉の奥で小さくつかえる。窓の外では、風に煽られた桜の花びらが一枚、教室の中に迷い込んできた。机の角に触れて、音もなく床に落ちる。誰も気づかない。俺は残りのパンを噛みちぎりながら、その花びらを靴の先でそっと踏んだ。
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五時間目が始まる前に、トイレに立った。廊下は昼休みの終わりかけで、まだ何人かの生徒がまばらに歩いている。
——見えた。
二年三組の教室の前。七瀬凛が、女友達と何か話しながら歩いてくる。
凛の髪は肩より少し長くて、歩くたびに揺れる。笑うと目が細くなるのは中学の頃から変わっていない。あの頃は毎日一緒に帰っていた。ピアノの練習があるから先に行くね、と言うと、凛はいつも校門のところで待っていてくれた。夕方の校門、逆光の中で本を読んでいる凛の横顔。あの光景が、今でもたまに瞼の裏に焼きつく。
今は、ただの同学年だ。
すれ違う。二メートル、一メートル、五十センチ。凛がこっちに気づいて、ほんの少し口角を上げた。俺も同じくらいの角度で頷く。会釈。たったそれだけの動作に、一年半分の距離が詰まっている。
凛が通り過ぎた後の空気に、かすかにシャンプーの匂いが残った。柑橘系の、さっぱりした香り。中学の時と同じだと気づいて、俺は自分が嫌になった。
覚えてるな、まだ。
覚えていたところで、どうにもならない。俺は「何もない奴」で、凛は向こうの世界の住人だ。友達が多くて、先生受けもよくて、文化祭では毎年何かの実行委員をやっている。眩しい側の人間だ。
トイレの鏡に映った自分の顔は、いつも通り特徴がなかった。目立たない目、目立たない鼻、目立たない口。パーツのどれひとつとして主張しない、背景に溶けるためだけに設計されたような顔。鏡の中の俺と目が合って、俺は水を出した。冷たい水で手を洗いながら、考える。蛇口から落ちる水の音が、静かなトイレに小さく反響する。指先から伝わる冷たさが、さっきすれ違ったときの心臓の揺れを少しずつ冷ましていく。
このまま、あと二年。目立たず、傷つかず、誰の記憶にも残らないまま卒業する。それが俺の計画で、俺の防壁で、俺の全部だった。
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放課後の音楽室は、この学校で一番静かな場所だ。
吹奏楽部は別棟の練習場を使うから、旧校舎三階の音楽室は放課後になると無人になる。埃っぽい譜面台、壁に貼られたベートーヴェンの肖像画、窓から差す西日。そして部屋の真ん中に、アップライトピアノが一台。
鍵を開ける。蓋を持ち上げる。鍵盤が西日を受けて鈍く光った。
俺はベンチに座り、指を鍵盤の上に置いた。まだ弾かない。ただ、象牙色のキーの冷たさを指先で確かめる。呼吸を整える。教室で被っている「何もない奴」の皮を、一枚ずつ剥がしていく感覚。須藤の言葉も、凛との距離も、鏡に映った特徴のない顔も——全部、ここに来ると溶けて消える。
ショパンのノクターン、第二番。
最初の一音を弾いた瞬間、指が思い出す。中学の頃、毎日五時間練習した記録。コンクールの舞台で、スポットライトの熱を首筋に感じながら弾いた記憶。あの頃の俺は、ピアノが全部だった。ピアノさえあれば何でもできると本気で思っていた。
左手が低音を支え、右手がメロディを歌う。防音室じゃないから音量は控えめにしている。でも旋律は確かに部屋を満たしていく。壁に反射し、天井に昇り、窓ガラスを微かに震わせる。音が空間を満たすにつれて、肩に溜まっていた重さがほどけていく。呼吸が自然に深くなる。世界が狭くなって、鍵盤と指先と音だけになる。
ここでだけ、俺は嘘をつかなくていい。
何もない奴じゃない。目立ちたくない奴でもない。ただ、怖いだけだ。もう一度注目されて、もう一度叩かれるのが。あの夜、スマホの画面を埋め尽くした知らない人間たちの悪意を、もう一度浴びるのが。
だからここで弾く。誰にも聴かれない場所で、誰にも見つからないように。ショパンは文句を言わない。ベートーヴェンの肖像画は目を閉じている。西日だけが俺の観客だ。
中間部に差しかかった。左手のアルペジオが揺れるように響き、右手のトリルが空気を震わせる。指が覚えている。頭ではとっくに諦めた場所に、指だけがまだ立っている。旋律が高まるにつれて、胸の奥で何かが軋む。弾きたい、という気持ちと、弾いてはいけない、という恐怖。その二つが鍵盤の上で絡み合って、音になって放り出される。
曲が終盤に差しかかったとき、ふと手が止まった。
——廊下に、気配がある。
息を殺した。ピアノの残響が部屋の中で細く消えていくのを聞きながら、ドアの方を見る。磨りガラスの向こうに、人影のようなものが見えた気がした。
心臓が跳ねる。指先が鍵盤の上で小さく震えた。
椅子を立ち、ドアに駆け寄って廊下を覗いた。
——誰もいない。
旧校舎の廊下は、夕暮れの光で長い影を落としているだけだった。埃が西日の中をゆっくりと舞っている。靴音も、話し声も、何もない。
気のせいか。
俺は教室に戻り、ピアノの蓋を閉じた。鍵盤が隠れていく。呼吸がまだ少し速い。閉じた蓋の上に、自分の指紋がいくつも残っているのが見えた。ここに来た証拠。誰にも見せるつもりのない、俺だけの痕跡。
鞄を肩にかけ、音楽室を出る。廊下の窓から校庭が見えた。サッカー部が練習している。須藤の声が、ここまで聞こえてくる気がした。
階段を降りながら、さっきの気配のことを考える。もし誰かに聴かれていたら。もし誰かに、俺がピアノを弾いていたことを知られたら。
——別に、大丈夫だ。
ただの古い校舎のきしみだろう。俺はいつも通り、何もない顔をして昇降口に向かった。靴を履き替えるとき、ロッカーの隣に誰かが貼った文化祭実行委員募集のポスターが目に入った。
「第四十二回 桜ヶ丘高校文化祭 テーマ募集中!」
目を逸らして、校門を出た。春の風がぬるい。帰り道の坂を下りながら、イヤホンも音楽もなしに歩く。耳の奥にはまだノクターンの残響がかすかに鳴っている。指先が、さっき弾いていた旋律をなぞるように、鞄の持ち手の上で小さく動いた。このまま、何事もなく夏が来て、秋が来て、冬が過ぎればいい。俺の高校生活に、ステージなんか要らない。
——そのはずだった。