Novelis
← 目次

鍵盤の裏側で、君は歌う

第2話 第2話

第2話

第2話

夢を見た。

中学三年の秋。県のピアノコンクール、本選ステージ。照明が白くて、客席が暗くて、自分の心臓の音だけが異常にはっきり聞こえていた。指先は冷えていたのに、首筋には汗が伝っていて、その矛盾した温度が妙にリアルだった。舞台袖から一歩踏み出したとき、足元のフローリングが靴底越しにも固くて、客席から送られてくる空気がやけに乾いていた。何百人もの視線が暗闇の向こうにあるはずなのに、誰の顔も見えない。あるのはスポットライトの熱と、自分の呼吸だけだった。

弾いたのはリストの「ラ・カンパネラ」。中学生がやる曲じゃないと先生にも言われた。でも俺はあの曲がどうしても弾きたかった。高く跳ねる旋律が鐘の音みたいに会場に降り注ぐ感覚を、自分の指で作りたかった。三ヶ月間、毎日五時間、右手の薬指の皮が剥けてもやめなかった。絆創膏を巻いた指で鍵盤を叩くと、粘着テープが汗で剥がれて、練習が終わるころには鍵盤の隙間に血がにじんでいた。それでもやめられなかった。あの旋律が頭の中で鳴り続けていて、それを外に出さないと息ができなかった。

本番は——完璧だった。と思う。少なくとも、弾き終わった瞬間の拍手は大きかった。最後の和音を押さえた指を鍵盤から離したとき、一瞬の沈黙があった。会場の空気が止まって、自分の心臓が喉の奥で跳ねて、それから——波みたいに拍手が来た。審査員の一人が立ち上がって拍手してくれたのを、今でも覚えている。表彰式で最優秀賞のトロフィーを受け取ったとき、客席の母さんが泣いていた。隣にいた凛が、両手でガッツポーズをしていた。あの日は、世界がまるごと俺の味方だった。

目が覚めると、天井が暗かった。

四月の朝。六時半。カーテンの隙間から細い光が差し込んでいて、枕元のスマホが無音のまま転がっている。通知ランプは光っていない。当たり前だ。全部オフにしてあるから。

布団の中で、右手を持ち上げた。指を開いて、閉じる。昨日、音楽室で弾いたノクターンの感触がまだ残っている。夢の中で弾いたラ・カンパネラの感触と混ざって、どっちが現実か一瞬わからなくなる。指の腹に、鍵盤の象牙の冷たさと、微かな抵抗感。押し込んだときに返ってくるハンマーの重み。それが昨日の音楽室なのか、二年半前のステージなのか、区別がつかない。

俺は枕に顔を押しつけて、目を閉じた。あの夢の続きは見たくない。コンクールの次に来るものを、俺は知っている。

---

あれは授賞式の三日後だった。

動画は、会場にいた誰かが撮ってSNSに上げたらしい。「地区大会で中学生が弾いたラ・カンパネラがヤバい」というキャプションと一緒に。最初は褒めるコメントが多かった。「鳥肌立った」「中学生でこれは天才」「将来が楽しみ」。俺はそれを何度も読み返して、誰にも言えないくらい嬉しかった。スマホの画面が、全部キラキラして見えた。通知が鳴るたびに心臓が弾んで、新しいコメントを読むたびに頬が熱くなった。あの三日間、俺は自分が世界の中心にいるような気がしていた。

変わったのは、再生数が十万を超えたあたりだった。

知らない人たちが来た。クラシックに詳しいらしい人が、演奏の粗を専門用語で指摘した。「テクニックだけ。解釈が浅い」「コンクール受けする弾き方。音楽を舐めてる」。そこまではまだ耐えられた。プロの目から見ればそうなのかもしれない、と思えた。悔しかったけど、それは演奏への批評だった。俺の弾いた音に対する言葉だった。それなら受け止められる。

でも、火がついたのは別の方向からだった。

「なんかこの子、自分に酔ってない?」「弾いてるときの顔キモい」「調子乗ってんな」。どこから来たのかわからないコメントが、一晩で画面を埋めた。演奏の話じゃなかった。顔が、表情が、態度が気に入らないという人たちが、知らない場所から大量に押し寄せてきた。

俺は布団の中で、スマホの画面をスクロールし続けた。やめればいいのに、指が止まらなかった。次のコメントはマシかもしれない。次の次は、きっとまた褒めてくれる——そう思って画面を指で弾くたびに、もっとひどい言葉が出てきた。画面の青白い光が暗い部屋で顔だけを照らしていて、スクロールする指先がだんだん震えてきた。

「中学生のくせに目立ちたがり」 「親に撮らせてバズ狙いとか引くわ」 「才能ないのにイキってて草」

全部、知らない人だった。会ったことも、話したこともない人たちが、俺の顔を見て、俺の演奏を聴いて、俺のことを嫌いだと言っていた。理由なんかなかった。目立ったから。それだけだ。

リビングのドアの向こうで、母さんが電話をしているのが聞こえた。声を抑えているつもりらしかったけど、布団越しでもわかった。

「——いえ、本人はまだ見ていないと思います。……はい、削除依頼は出しましたが……」

見てるよ、母さん。全部見た。

母さんが泣いているのも、わかった。壁が薄いこの家では、声を殺しても泣いている気配は伝わる。鼻をすする音。息を詰めて、また吐く音。それが規則的に繰り返されていて、まるでメトロノームみたいだと場違いなことを思った。布団を頭からかぶって、俺はスマホの電源を切った。暗い画面に、自分の顔がぼんやり映っていた。涙は出なかった。その代わり、胸の奥で何かが凍りついた。指先から熱が引いていくような、静かで確かな感覚。

あの夜、俺は決めた。もう目立たない。もう前に出ない。誰の視界にも入らなければ、誰にも叩かれない。才能なんていらない。注目なんて浴びなくていい。鍵盤の冷たさだけ覚えていればいい。それ以外は、全部捨てる。

---

朝食のトーストをかじりながら、俺はスマホの設定画面を見ていた。

通知——すべてオフ。SNSアプリ——削除済み。LINEの通知——音声オフ、バッジ表示オフ。連絡先に登録しているのは母さんと、学校の事務的な連絡用グループだけ。必要最低限。それ以上は要らない。

「真人、今日寒くなるって。上着持っていきなさい」

母さんがキッチンから声をかけてくる。流し台で水を使う音がして、食器がかちゃんと鳴った。俺はトーストの最後のひとかけらを牛乳で流し込んで、「うん」とだけ返した。母さんは中学のあの一件以来、俺のスマホの使い方に何も言わなくなった。以前は「友達と連絡とってる?」と聞いてきたけど、いつからか聞かなくなった。聞かないのが優しさだと思っているのか、聞いたら何が出てくるか怖いのか。多分、両方だ。

靴を履いて、玄関を出る。四月の朝は陽射しの割にまだ肌寒くて、母さんの言う通り上着を引っかけてくればよかったと思ったけど、戻るのが面倒だった。坂を上りながら、ポケットの中のスマホの存在を意識する。四角くて、薄くて、沈黙している。あの夜から二年半、こいつは俺に一度も災いをもたらしていない。通知が来ないスマホは安全だ。鳴らない電話は武器にならない。

学校に着くと、下駄箱のあたりに文化祭実行委員のポスターがまた増えていた。昨日は一枚だったのが、今日は三枚。「ステージ企画班・装飾班・模擬店班 募集中!」と明朝体で書いてある。誰かが余白にマジックで「青春しようぜ!」と落書きしていて、その横に別の誰かが「何それキモ」と書き足している。小さな攻防が壁の上で凍結されている。

教室に入ると、須藤がまた取り巻きと盛り上がっている。「文化祭、バンドやろうぜ」「お前ギターの腕前やばいって」「モテるだろそれ」。声が大きい。窓際の俺の席まで、全部聞こえる。

目立ちたい人間は、目立てばいい。ステージに立ちたい人間は、立てばいい。俺は窓の外を見る。昨日と同じ景色。桜はさらに散って、枝の緑が濃くなっている。花びらが風に煽られて、グラウンドのフェンスに張りついていた。教科書を開いて、シャーペンを握る。ノートに日付を書く。四月十日、木曜日。

何もない一日が始まる。何もない一日を終える。それでいい。

鞄の底で、スマホが沈黙している。通知は来ない。誰も俺を見つけない。教室の窓際は安全で、目立たない俺の高校生活は計画通りに進んでいる。

——それなのに。

昨日の放課後、音楽室で感じた気配が、まだ頭の隅にこびりついている。磨りガラスの向こうに見えた影。あれが本当に誰かだったとしたら。俺がピアノを弾いていたことを、知った誰かがいるとしたら。

指先が、机の上で勝手に動いた。ノクターンの最初の四小節をなぞっている。俺は慌ててその手を膝の下に押し込んだ。

前の席の女子が、振り返ってこちらを見た気がした。視線を窓に逃がす。心臓が、一拍だけ跳ねた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ