第3話
第3話
五時間目のホームルームで、担任の山崎が教壇に立った。
「文化祭の実行委員、各クラスから二名ずつって話はしたな。うちのクラスからは——」
山崎がプリントに目を落とす。教室のあちこちで私語が続いている。文化祭は六月の第二週。まだ二ヶ月近く先だけど、企画の立ち上げは早い方がいいというのが学校の方針らしい。俺には関係のない話だ。窓の外では風に揺れる木々の緑が、四月の半ばにしてはもう濃い。
「七瀬と、あとは——柊」
名前を呼ばれた瞬間、頭の中が一瞬白くなった。周りの視線が窓際の最後尾に集まる。須藤が「え、柊?」と声を上げて笑い、大垣も口元を歪めている。
「先生、俺聞いてないんですけど」
「昨日プリント配っただろ。希望者がいなかったから、出席番号順で自動的に割り振った。七瀬は希望、柊は——まあ、そういうことだ」
そういうこと。希望者がいなかったから、余った枠に一番存在感のない奴が押し込まれた。反論する気力もない。隣の席の奴が同情するみたいにこっちを見たけど、俺は窓の外に視線を戻した。三組の教室がある棟の屋上に、カラスが一羽止まっている。あいつも別に、止まりたくてそこにいるわけじゃないだろう。
ホームルームが終わった後、山崎が俺のところに来て「悪いな柊、よろしく頼む」と言った。形だけの謝罪。俺は「はい」とだけ返した。声が自分でも驚くくらい平坦だった。
放課後、文化祭実行委員の第一回全体会議が視聴覚室であった。各クラスから集まった実行委員が、パイプ椅子に座ってざわめいている。俺は一番後ろの端に座った。入り口から一番遠くて、一番目立たない席。いつもの選び方だ。
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全体会議は三十分ほどで終わり、そこから班分けに移った。ステージ企画班、装飾班、模擬店班、広報班。各班十人前後。割り振りは実行委員長が事前に決めていて、名前が読み上げられるたびに呼ばれた生徒が前に出る。
「ステージ企画班——二年一組、大垣、柊」
大垣の名前が先に呼ばれた時点で、嫌な予感はしていた。須藤の隣にいつもいるあの大垣だ。体格がよくて、声が大きくて、人を仕切るのが好きなタイプ。俺とは教室でも三回くらいしか話したことがない。そのどれもが、須藤越しの雑談だった。
「二年三組、七瀬」
凛の名前が聞こえて、椅子の上で背中がわずかに強張った。同じ班。週に何回かは顔を合わせることになる。廊下ですれ違って会釈するだけの距離が、一気に縮む。
視聴覚室の前方に移動して、ステージ企画班のメンバーが円形に椅子を並べた。凛は俺の斜め向かいに座った。目が合いそうになって、俺は手元のプリントに視線を落とした。
大垣が自然な流れで仕切り始めた。
「はい、じゃあ俺が班長やるわ。異論ある人?——ないね。オッケー」
誰も何も言わなかった。大垣はこういう場を取りまとめるのが上手い。上手いというか、反対意見が出る隙を与えない話し方を知っている。
「まず役割分担ね。音響チェックは松田と西尾。照明は二年四組の——えーと、河本? と五組の鈴木。出演者との折衝と進行台本は俺と七瀬でやる。んで——」
大垣がちらっとこちらを見た。目が合うと、口の端だけで笑う。
「柊は備品の搬入と搬出、あと体育館の椅子並べとか、その辺よろしく。力仕事」
力仕事。要するに、会議に出なくていい雑用だ。体育館にパイプ椅子を何十脚も運んで、ステージ用の機材を倉庫から出して、当日は裏方で汗をかく。意思決定には一切関わらない。名前がクレジットに載ることもない。
「了解」
俺は頷いた。反射的に出た声は、教室で須藤に「何もないよな」と言われたときと同じトーンだった。抵抗しない、主張しない、波風を立てない。これが俺の処世術で、これが俺の鎧だ。大垣は満足そうに頷いて、次の議題に移った。
周りのメンバーも特に何も言わなかった。ステージ企画班なのに企画に関わらない人間がいることに、誰も疑問を持たない。あるいは持っていても口にしない。大垣に逆らって面倒なことになるよりは、見て見ぬふりをする方が楽だから。俺だってそうしてきた。他の誰かが同じ扱いを受けていても、たぶん何も言わなかった。
会議が進む間、俺はプリントの隅にシャーペンで線を引いていた。意味のない直線を何本も重ねる。線が濃くなって、紙に溝ができて、そこにシャーペンの芯がはまる。引っかかる。折れる。
大垣が音響機材の選定について松田と話しているとき、凛が椅子を引いて立ち上がった。プリントを持って、俺の方に歩いてくる。
心臓が一つ余計に打った。
凛は俺の隣の空いた椅子に座って、声を落とした。距離が近い。教室の蛍光灯の下だと、凛の髪は真っ黒じゃなくて少し茶色がかっていることがわかる。
「柊くん、久しぶりだね。同じ班だったんだ」
名字にくん付け。中学の時は下の名前で呼んでいたのに。一年半の距離が、その二文字に凝縮されている。
「うん。まあ、たまたま」
「あのさ、さっきの役割分担なんだけど——」
凛が何か言いかけた。俺はその先を聞きたいような、聞きたくないような、奇妙な気持ちで凛の横顔を見ていた。中学の頃と変わらない目の形。でも、どこか大人びた輪郭。あの頃の凛は笑うと頬にえくぼが出たけど、今の凛は唇の端だけで微笑む。時間は人の笑い方まで変えるのか、と思った。
「七瀬ー、こっち来てくれる? 進行台本の件」
大垣の声が飛んできた。聞こえよがしの大声。凛の言葉が途切れる。
「あ、うん。ごめん、また後で」
凛は俺の方を振り返りながら椅子を立った。「また後で」という言葉が空中に残って、すぐに消えた。
別に。話すことなんかない。凛が何を言おうとしていたのか、想像する必要もない。役割分担がおかしいと思ったのかもしれない。大垣に何か言おうとしてくれたのかもしれない。でも、そんなことをされても困る。助けられたら、その分だけ俺の居場所がまた狭くなる。情けない奴。庇われないと何もできない奴。そういう目で見られるのは、「何もない奴」と思われるより辛い。
会議が終わって、視聴覚室を出た。廊下には夕方の光が斜めに差し込んでいて、窓枠の影が床に格子模様を作っていた。前を歩く松田と西尾が音響の話で盛り上がっているのが聞こえる。大垣は凛と並んで何か話しながら歩いている。二人の間に、俺が入る余地はない。そもそも入りたくもない。
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昇降口で靴を履き替えるとき、凛の後ろ姿が校門の方に見えた。夕陽が低くて、凛のシルエットが長く伸びている。中学の時と同じだ。俺がピアノの練習を終えて出てくると、凛はいつもあのあたりで待っていた。本を開いて、西日を受けて、ページに落ちる影が少しずつ長くなるのを気にもしないで。
今は待っていない。当たり前だ。待つ理由がない。
校門を出て、坂を下る。イヤホンもなし、音楽もなし。耳の中ではさっきの凛の声が反響している。「あのさ、さっきの役割分担なんだけど——」。その先を、俺の頭が勝手に補完しようとする。何て言うつもりだったんだろう。おかしいよね、もっと他の仕事もあるのに。そう言おうとしていたのか。それとも別のことか。
わからない。わかる必要もない。
坂道の途中にある自販機で立ち止まって、ポケットから小銭を出した。百三十円のスポーツドリンクのボタンを押す。ガコンと音がして、取り出し口に落ちた缶が冷たい。プルタブを起こして一口飲む。炭酸じゃないのに、喉の奥がわずかに痛い。
「別に、話すことなんかない」
声に出していた。自分で驚いて、周りを見る。誰もいない。坂道には俺と自販機の低い唸り声だけ。
——嘘だ。
本当は話したいことが山ほどある。中学の最後、ろくに挨拶もしないまま距離を置いたこと。高校で同じ学校になったのに、一年半も会釈だけで過ごしたこと。放課後の音楽室で、まだピアノを弾いていること。あの日、磨りガラスの向こうにいた影が——もし凛だったなら。
でも、話してどうなる。「まだ弾いてるんだ」と言われて、「うん」と答えて、それで何が変わる。目立ちたくない。注目されたくない。凛と関わればまた何かが動き出す。動き出したら、止められなくなる。あの夜のスマホの画面が、また俺を飲み込むかもしれない。
缶を握りつぶして、自販機の横のゴミ箱に放り込んだ。アルミが潰れる小さな音。
帰り道の坂を下りきったところにあるコンビニの前で、大垣が須藤と立ち話をしているのが見えた。距離があるから声は聞こえない。でも大垣が何か言って、須藤が笑って、大垣がスマホをいじりながら肩をすくめている。文化祭の話をしているんだろう。ステージの話。俺には回ってこない、企画の話。
足早に通り過ぎた。視界の端で須藤がこちらに気づいた気配があったけど、声はかからなかった。かけるほどの存在感が、俺にはない。
家に着いて、自分の部屋に入って、鞄をベッドに投げた。机の上に積んだ教科書が目に入る。その下に、ずっと裏返しにしてある写真立て。中学の時のコンクールの集合写真。俺と、先生と、凛が並んで写っている。あの日の自分は笑っていた。何の防御もなく、まっすぐにカメラを見て笑っていた。今の俺にはできない顔だ。
スマホを取り出して、画面を見た。通知はない。LINEもない。誰からも連絡は来ていない。それが安全で、それが正しくて、それが——少しだけ、今日は重い。
文化祭実行委員。ステージ企画班。備品搬入担当。凛と同じ班。大垣の下。週に二回の会議に、俺は椅子を運ぶだけの人間として出席する。それでいい。それでいいはずだ。
窓を開けると、夕方の風が入ってきた。四月の風はまだ冬の名残を含んでいて、カーテンを冷たく膨らませる。どこかの家からピアノの音が聞こえた。子供が弾いているバイエルの、たどたどしい旋律。一音一音を確かめるように、ゆっくりと、不器用に。
俺は窓を閉めた。
机に向かって教科書を開いたけれど、英語の長文が目の上を滑っていくだけで頭に入らない。凛の「あのさ」が耳の奥でリフレインしている。あの先にあった言葉を、俺は明日も聞けないまま、パイプ椅子を体育館に運ぶのだろう。
——来週の水曜、二回目の班会議がある。
その事実が、何もないはずの胸の真ん中に、小さな棘のように刺さっていた。