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誰にも見つからない放課後

第3話 第3話

第3話

第3話

逃げようとした。反射的に、踵を返そうとした。でもドアノブを握ったままの右手が動かなかった。指先が冷たくなっていく。心臓の音が耳の奥で鳴っている。逃げたら認めたことになる。ここで何食わぬ顔をして、ただの通りすがりを装えば——。

「その手」

天城凛の視線が、俺の右手に落ちた。ドアノブを握っている右手。爪の際にこびりついた、カドミウムイエローの残滓。昨日どれだけ洗っても落ちきらなかった、あの橙に近い黄色。テレピン油で擦っても、爪ブラシで削っても、繊維の奥に染みついた色だけは消えなかった。

「イーゼルに残ってる絵の具と同じ色だね」

静かな声だった。責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ事実を並べるように。彼女は窓際に立ったまま、俺のキャンバスを背にしている。午後の光が彼女の輪郭を縁取っていて、表情がよく見えない。逆光の中に立つその姿が、まるで裁定者のように見えた。

「旧校舎の二階、西向きの窓。あの投稿と同じ構図。画角も、窓枠の傷の位置も、全部一致する」

指を一本ずつ折るみたいに、証拠を積み上げていく。俺は何も言えなかった。

「それと——」凛はキャンバスに視線を戻した。「この絵、まだ乾いてない。昨日描いたものだよね。投稿された時間とも合う」

喉が渇いていた。唾を飲み込もうとして、うまくいかなかった。舌の上がざらついて、息を吸うたびに喉の奥が張りつく。

「……人違いだ」

出てきたのは、乾いた嘘だった。自分でも説得力がないのがわかる。声が震えていないことだけが、かろうじての救いだった。凛は小さく首を傾げた。

「じゃあ、なんでここにいるの」

返す言葉がなかった。放課後の旧校舎の、誰も来ない二階の突き当たり。イーゼルとキャンバスと絵の具が並ぶこの部屋に、俺がいる理由なんて一つしかない。

数秒の沈黙が落ちた。窓の外で鳥が鳴いている。四月の風がカーテンを揺らして、絵の具の匂いを部屋の中にかき混ぜた。リンシードオイルの甘い匂いと、古い木材の乾いた匂いが混じり合う。凛はその沈黙を待っていたように、一歩こちらに近づいた。床板が小さく軋んだ。

「椎名湊。一年三組。——合ってる?」

名前まで調べてある。いつの間に。いや、旧校舎を使いそうな一年生を洗い出すくらい、本気で探せば難しくないのかもしれない。俺は観念したように、小さく息を吐いた。肩から力が抜けていくのがわかった。否定する材料が、もう何もなかった。

---

「それで、どうするつもりなんだ」

黙っているのに耐えかねて、俺の方から口を開いた。凛は窓枠に軽く腰を預けて、腕を組んでいる。

「どうする、って?」

「バラすのか。あのアカウントが俺だって」

「なんで私がそんなことしなきゃいけないの」

心底不思議そうな顔をされた。少しだけ、毒気を抜かれる。

「私が知りたかったのは、この絵を描いた人間が誰かってことだけ。別にネットに晒すつもりはないよ」

それならなぜ、と聞き返す前に、凛がキャンバスに目を向けた。夕暮れの空。散り際の桜。住宅街の屋根に反射する鈍い光。昨日の俺が二時間かけて閉じ込めた、四月の終わりかけの午後。

「この絵、好きだよ」

唐突だった。

「光が生きてる。写真じゃ絶対に出ない質感がある。空の色が刻々と変わっていくその途中を、ちゃんと一枚に収めてる。——こんな絵を描く人が、うちの学校にいたんだ」

褒められている。それはわかる。でも素直に受け取れなかった。胸の奥で何かが軋むように痛んだ。褒め言葉の後には必ず期待がついてくる。もっと描けるよね。次はもっとすごいの見せてよ。その期待の重さで、俺は一度潰れている。

「で、本題なんだけど」

凛の声が切り替わった。さっきまでの柔らかさが消えて、どこか事務的な響きになる。

「うちの部に来てほしい」

「は?」

「芸術部。私が部長をやってる」

「いや——」

「話は歩きながらする。ついてきて」

待ってくれ、と言う前に凛は窓枠から身を離して、俺の横を通り過ぎた。すれ違いざまに、石鹸とも画材ともつかない淡い匂いがした。ドアに向かうその足が止まらない。俺が動かないのを見て、廊下から顔だけ覗かせた。

「来ないなら、この部屋のこと教頭に報告するけど」

「……脅しかよ」

「交渉だよ」

微笑みすら浮かべていなかった。本気の目だ。旧校舎の無断使用を報告されれば、この場所は終わる。俺の唯一の居場所が、なくなる。

選択肢なんか最初からなかったのだ。

廊下に出ると、凛は既に歩き始めていた。旧校舎から本館への渡り廊下を抜け、三階の東棟へ。放課後の廊下にはまだ生徒がまばらに残っていて、凛の姿を見た何人かが小声で何か囁き合っている。有名人なのだろう。その隣を歩いている俺にまで視線が飛んでくるのが居心地悪かった。背中に張りついた視線を振り払うように、俺は少しだけ歩幅を狭めて距離を取った。

「ここ」

凛が足を止めたのは、東棟の突き当たりの教室だった。ドアの横に「芸術部」とだけ書かれたプレートがかかっている。手書きの、少し傾いた文字。凛がドアを開けた。

---

部室の中に、三つの視線があった。

窓際のテーブルに頬杖をついている小柄な女子。銀色がかった髪が肩にかかっている。スケッチブックを開いているけれど、鉛筆は動いていない。目が合った瞬間、彼女はすっと視線を外した。

その隣で、タブレットにペンを走らせている女子。ショートカットにヘアピンを三つ刺して、制服の袖をまくっている。顔を上げた彼女は、俺を見て目を丸くした。

「え、マジで連れてきたの」

そしてテーブルの端に座って何かを削っている女子。背が高くて、肩幅がしっかりしている。彫刻刀を止めて、こちらを見上げた。木屑が制服の膝に散らばっている。

「お、噂の?」

噂の。その一言で、わかった。こいつら全員、知っている。俺のことを、あの絵のことを。凛が一人で動いていたんじゃない。最初から——。

「紹介するね」

凛が俺の背中を軽く押して、部室の中央に立たせた。その手のひらの温度が、制服越しにはっきりと伝わった。逃げ場がなかった。教室の隅に溶けていればよかった日常が、急速に遠ざかっていく。

「椎名湊くん。一年三組。——あの絵を描いた人」

三人の反応がそれぞれ違った。銀髪の女子はちらりとだけこちらを見て、またスケッチブックに目を落とした。ショートカットの女子がタブレットを置いて身を乗り出す。

「うっそ、ほんとに高校生? あのタッチ見たとき美大生だと思ったんだけど」

「真白、落ち着いて」凛がたしなめるように言った。

背の高い女子が椅子から立ち上がって、俺の正面に回った。ぐいっと顔を覗き込まれる。

「ふうん。思ったより普通だな。もっとこう、ギラギラした奴かと思ってた」

「紗季も。距離」

凛の声に、二人が渋々引き下がる。銀髪の女子だけは最初から動いていない。

「小鳥遊雪」と凛が彼女を示した。「水彩。あんまり喋らないけど気にしないで」

雪、と呼ばれた女子は小さく会釈しただけだった。その動きは最小限で、まるで空気に溶け込もうとしているようだった。

「桐谷真白、デジタルイラスト。園田紗季、彫刻」

「よろしくー!」と真白が手を振り、紗季が「おう」と顎を上げた。部室の空気が、明らかに俺を迎え入れる方向に出来上がっている。仕組まれている、と思った。

「待ってくれ」

声が掠れた。

「俺は入部するなんて一言も——」

「入部届はもう出してあるよ」

凛が、笑った。さっきまでの無表情が嘘みたいに、あっさりと。その笑顔があまりにも自然で、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「……は?」

「今朝、顧問の先生に提出しておいた。椎名湊、芸術部入部希望。受理済み」

「勝手に——」

「名前と組だけでいいんだよ、うちの学校の入部届。本人の署名欄もない。ゆるいでしょ」

真白がくすくす笑っている。紗季が腕を組んで「部長、相変わらず強引だな」と呆れた声を出した。雪だけは黙ったまま、スケッチブックに目を落としている。

俺は凛を見た。彼女の目には、確信があった。これが正しいことだという、一片の疑いもない確信。それが怖かった。期待の目で見られることが、もう二度と——。

「嫌なら顧問に取り消しに行けばいい」凛はあっさり言った。「職員室は一階の奥。田村先生。今日はもう帰ったかもしれないけど」

放課後の校舎から、部活の掛け声が聞こえてくる。窓から差す西日が、部室のテーブルに四つのスケッチブックの影を落としている。四人がそこにいて、五つ目の椅子が空いている。

俺は口を開きかけて、閉じた。そしてもう一度開いた。

「——明日、取り消しに行く」

それだけ言って、踵を返した。ドアを開けて廊下に出る。背中に凛の声が追いかけてきた。

「明日、待ってるね」

聞こえないふりをした。でも廊下を歩く足が、来たときより少しだけ遅かった。右手のカドミウムイエローが、蛍光灯の下でかすかに光っていた。

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