第2話
第2話
目が覚めたのは、枕元の振動だった。
スマホが震えている。通知を切っていたはずなのに——いや、切っていた。SNSの通知は切っていた。震えているのはバッテリー残量の警告だ。昨夜、充電するのを忘れたらしい。充電ケーブルを繋ぎながら、寝ぼけた目で時刻を確認する。六時十二分。いつもより少し早い。
ついでに、という軽い気持ちでSNSアプリを開いた。
画面が表示されるまでの数秒が、やけに長く感じた。そして——理解が追いつかなかった。
通知欄が、真っ白だった。正確には、通知が多すぎて読み込みに時間がかかっているのだ。ゆっくりとタイムラインが描画されていく。リポスト。いいね。リプライ。引用。リポスト。リポスト。リポスト。数字が目に飛び込んでくる。
三万リポスト。いいね、八万超。
スマホを取り落としかけた。ベッドの上に落ちたそれを、もう一度恐る恐る拾い上げる。見間違いかと思った。でも何度見ても数字は変わらない。昨日の夕方、フォロワー二十人のアカウントに投稿した、あの夕景画。それが一晩で、三万回リポストされていた。
リプライを震える指でスクロールする。
『これプロの仕事でしょ。光の捉え方が尋常じゃない』『画角的に学校の校舎から撮ってない? 旧校舎っぽい建物が映り込んでる』『制服の影が窓枠に反射してるの気づいた人いる? 学生じゃん』『特定班仕事早すぎワロタ』
血の気が引いた。
通知欄の奥から、引用リポストの一つが目に止まった。フォロワー数万のアカウントが、俺の絵を引用して「匿名の天才高校生画家か。こういう才能が埋もれてるのがSNSの面白さ」と書いている。その引用が更にリポストされて、雪崩のように拡散が広がっていた。
制服に着替える手が、うまく動かなかった。ボタンを一つかけ間違えて、やり直す。鏡に映る自分の顔が青白い。大丈夫だ、と言い聞かせる。匿名アカウントだ。プロフィールには何も書いていない。学校名も、名前も、何一つ紐づいていない。特定なんかされるわけがない。
——でも、旧校舎の窓からの景色を、そのまま描いた。
朝の電車の中で、もう一度スマホを開いた。リポスト数は三万二千に増えていた。通知を切った。切ったはずなのに、数字だけが頭の中で膨らんでいく。フォロワー二十人の、空気みたいなアカウント。そんなものが、一晩で何万もの視線を集めている。あの絵に込めた四月の空気が、知らない誰かの画面に映っている。
怖い。
そう感じている自分に気づいて、余計に怖くなった。
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教室に入った瞬間、空気が違った。
いつもと同じ朝のはずだ。窓際の最後列、俺の席。カバンを置いて座る。それだけのことなのに、周囲の会話が耳に刺さる。
「見た? あのバズってる絵」
前の席の女子二人が、スマホを覗き込みながら話している。心臓が嫌な音を立てた。
「見た見た。めっちゃきれいだよね。あれうちの学校の誰からしいよ」
「えっ、マジ?」
「ツイッターで特定班が動いてて、校舎の形とか窓の位置とかで絞り込んでるんだって。旧校舎の二階って言われてる」
俺は窓の外に目を向けた。桜はまだ散り続けている。何でもない顔を作る。無関心を装う。でも首の後ろに汗が滲んでいるのが自分でわかる。
「美術部の人じゃないの?」
「うちの学校、美術部ないよ。芸術部はあるけど」
「じゃあ芸術部?」
「でも芸術部の人たちってもっとこう、わかりやすく芸術家っぽいじゃん。天城先輩とか」
天城。その名前に、微かに聞き覚えがあった。入学式の日、在校生代表で挨拶をしていた上級生。まっすぐな背筋と、人を射抜くような目。たしか二年——いや、三年だったか。
「にしても誰なんだろうねえ。うちのクラスにいたりして」
一瞬、前の席の女子がこちらを振り返った気がした。目が合う前に、俺はノートを開いて何かを書くふりをした。シャーペンの芯が、何も書かないまま紙の上を滑る。
大丈夫だ。俺と絵を結びつける情報は何もない。中学のコンクールの記録だってネット上にはほとんど残っていない。匿名アカウントと椎名湊のあいだには、何の線も引かれていない。
——ただし、旧校舎の二階から撮った写真という情報を除けば。
午前の授業は何一つ頭に入らなかった。英語の教科書を開いているふりをしながら、頭の中では最悪のシナリオばかりが回っている。誰かが旧校舎に来る。イーゼルを見つける。絵の具の匂いに気づく。そこから芋づる式に——。
「椎名くん、次のページ」
隣の席の男子が小声で教えてくれた。俺は慌てて教科書をめくった。指先が震えていないことだけを確認して、深く息を吐いた。
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昼休み、俺は教室を出た。
いつもは購買でパンを買って教室で食べるのだけど、今日はあの会話の続きを聞いていられる気がしなかった。パンを二つ掴んで、人気のない渡り廊下のベンチに腰を下ろす。
カレーパンを齧りながら、旧校舎の方角をぼんやり眺めた。今日の放課後も、あそこに行くつもりだった。あの場所でなら描ける。あの場所だけが、俺の呼吸できる空間だった。
でも今、あそこに行くのは危険かもしれない。もし誰かが旧校舎を調べに来たら——。
そのとき、視界の端を影が横切った。
旧校舎に続く渡り廊下を、一人の女子が歩いていた。長い黒髪をひとつに結んで、制服の上にベージュのカーディガンを羽織っている。歩き方に迷いがない。目的地が決まっている人間の足取りだ。
彼女は旧校舎の入口の前で立ち止まり、建物を見上げた。二階の窓を——俺がいつも絵を描いている、あの窓を、確かめるように見つめている。それからスマホを取り出して、何かと見比べていた。
たぶん、あの絵だ。あの絵に映り込んだ窓枠の形と、実物を照合しているのだ。
渡り廊下のベンチから旧校舎の入口までは、五十メートルもない。俺は身を硬くしたまま、彼女の姿を目で追った。
彼女が振り返った。遠くてはっきりとは見えないけれど、整った横顔が一瞬だけこちらを向いた気がした。入学式の壇上で見た、あの——。
天城凛。
芸術部の部長だと、朝の会話で誰かが言っていた。彼女は旧校舎の入口を確認するように見回してから、校舎の裏手へと消えていった。探索している。あの絵の出どころを、本気で突き止めようとしている。
カレーパンの味が、もうしなかった。
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午後の授業が終わるまで、俺はずっと考えていた。
今日は旧校舎に行くべきじゃない。天城凛が嗅ぎまわっている。もし鉢合わせでもしたら、イーゼルも絵の具も丸見えだ。一日くらい我慢すればいい。明日になれば、バズも落ち着いて、みんな別の話題に移る。ネットの祭りなんてそんなものだ。
六限のチャイムが鳴った。クラスメイトたちが帰り支度を始める中、俺は窓の外を見た。四月の午後の光が旧校舎の壁を照らしている。あの二階の窓の向こうに、昨日のキャンバスがまだ立てかけたままだ。
——片付けてない。
あのキャンバスが見つかれば終わりだ。昨日の夕景そのものが、あの部屋にある。天城凛が旧校舎を探索していたのは昼休みのことだ。もし放課後にもう一度来たら。もし二階まで上がってきたら。もし、あの教室のドアを開けたら。
気づいたときにはもう、廊下を歩いていた。足は旧校舎に向かっている。行くなと頭が言っている。でも足が止まらない。あのキャンバスを回収しなければ。絵の具を隠さなければ。俺と絵を繋ぐ、あの場所の痕跡を全部消さなければ。
旧校舎の階段を駆け上がる。息が切れる。二階の廊下は静まり返っていて、自分の足音だけが反響する。突き当たりの教室。ドアノブに手をかけて、引いた。
——部屋の中に、誰かの背中があった。
窓際に立って、俺のキャンバスを見ている。長い黒髪。ベージュのカーディガン。昼休みに旧校舎の前にいた、あの後ろ姿。
天城凛が、ゆっくりと振り返った。
俺の絵と、俺の顔を、交互に見比べている。その目は確信に満ちていた。
「——やっぱり、ここだったんだ」
彼女の声が、埃っぽい美術室に静かに落ちた。