第1話
第1話
四月の教室は、期待の匂いがする。真新しい教科書、糊の効いたシャツ、まだ誰のものでもない机。そのどれもが、俺には眩しすぎた。
窓際の最後列。ここが俺の指定席だ。始業式が終わって、担任が何か言って、クラスメイトたちが自己紹介とかいう儀式を始めている。俺はイヤホンを片耳だけ突っ込んで、窓の外をぼんやり眺めていた。校庭の桜がちょうど散り際で、花びらが風に巻かれて渦を作っている。あれを描くなら、白じゃなくて薄い灰紫を下地にする——と考えかけて、慌てて思考を止めた。
指先が微かに動いたのを感じた。筆を握るときの癖だ。何年も繰り返してきた動作が、意識の下にまだ染みついている。右手をポケットに突っ込んで、無理やり黙らせた。
そういうのは、もうやめたんだ。
「椎名くん? 椎名湊くん?」
担任の声で我に返る。どうやら自己紹介の順番が回ってきたらしい。立ち上がって、できるだけ短く済ませる。
「椎名です。よろしくお願いします」
三秒。それ以上は必要ない。趣味も特技も言わない。部活の予定も、中学の話も。何も引っかからない、記憶に残らない自己紹介。座り直した瞬間、前の席の女子がちらっと振り返って、すぐに興味を失ったように前を向いた。
それでいい。
隣の席の男子が「俺、サッカー部入るつもりなんだけど、椎名は?」と話しかけてきた。社交辞令だとわかっていたけれど、無視するのも角が立つ。「まだ決めてない」と答えると、そうなんだ、と軽い相槌が返ってきて、それきり会話は途切れた。ちょうどいい距離感だった。敵も作らず、味方も作らない。透明なまま、この教室の空気に溶けていく。
中学二年の秋、県のコンクールで金賞を取った日のことを、俺はまだ覚えている。体育館の壇上でトロフィーを受け取ったとき、客席から拍手が降ってきた。嬉しかった。たぶん、あの瞬間が俺の人生で一番高い場所だった。
でも高い場所には風が吹く。
「天才だって」「椎名ってマジですごいらしいよ」——最初は心地よかった称賛が、いつの間にか重さを帯びた。次も金賞だろ。次はもっとすごいの描けるんでしょ。期待が積み上がるたびに、筆を持つ手が強張っていった。そしてある日、美術部の先輩に言われた。「お前がいると俺らの絵が霞むんだよ」。笑ってたけど、目が笑ってなかった。
あの言葉のあと、俺は美術室に入れなくなった。ドアの前に立つだけで喉が詰まった。描いた絵を見返すと、全部がまぐれに思えた。金賞のトロフィーは机の引き出しの一番奥に押し込んで、それっきり触っていない。
あの日から、絵を描くのが怖くなった。
だから高校では決めたのだ。絵のことは誰にも言わない。存在感を消して、この窓際の最後列で三年間をやり過ごす。それが俺の、椎名湊の生存戦略だった。
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六限が終わると、俺は誰よりも早く教室を出た。
下駄箱で靴を履き替えながら、周囲を確認する。新入生たちは部活の見学やら新しい友達との寄り道やらで浮き足立っている。その人波に逆らうように、俺は旧校舎へ向かった。
旧校舎は本館の裏手にあって、今はほとんど使われていない。一階の一部が倉庫、二階に空き教室がいくつか。その中の一つが、俺だけの美術室だった。
入学して最初の一週間で見つけた場所だ。たまたま迷い込んだ旧校舎の二階、突き当たりの教室。埃っぽい空気と、西向きの大きな窓。古いイーゼルが隅に放置されていて、水道も一応出る。誰も来ない。完璧だった。
ドアを開けると、松ヤニとテレピン油の残り香がかすかにした。前にここを使っていた誰かの名残だろう。窓を開ける。四月の風が埃を攫っていく。
イーゼルにキャンバスを立てかけ、絵の具を並べる。チューブのキャップを一つずつ外していくと、オイルの匂いが鼻の奥をくすぐった。パレットの上でカドミウムイエローとバーントシェンナを少しずつ混ぜる。夕暮れの空を塗るための、あの微妙な橙を作るには何度も調整がいる。今日のモチーフは決まっていた。この窓から見える景色。桜の向こうに校庭のフェンスがあって、その先に住宅街の屋根が連なっている。空は夕方に向かって橙に傾き始めていて、雲の端だけが白く光っている。
筆を握ると、指先にじわりと体温が戻る感覚がある。
ここでだけは、描いていい。誰にも見られず、誰にも評価されず、ただ目の前の景色を写し取る。教室で殺していた感覚が一斉に目を覚ます。風の温度、光の角度、桜の花びらが落ちる速度。全部が色になって、筆先から流れ出る。
最初の一筆を置いた瞬間、世界の音が遠くなった。窓の外で鳴いている鳥の声も、遠くの踏切の警報音も、全部が薄いヴェールの向こう側に退いていく。残るのは筆がキャンバスを擦る小さな音と、自分の呼吸だけだ。この没入の感覚を、昔は当たり前のように味わっていた。今は、ここでしか手に入らない。
一時間が経ち、二時間が経った。校庭から聞こえていた運動部の掛け声がまばらになり、空がゆっくりと紫に沈んでいく。俺はその変化を追いかけるように筆を動かし続けた。空の色が変わるたびに、パレットの上で新しい色を作り直す。ウルトラマリンにほんの少しだけクリムゾンを混ぜて、地平線近くの紫を拾う。西日が最後の力で窓から差し込んで、キャンバスの表面を金色に染める。その光ごと閉じ込めるように、右下の隅にハイライトを入れた。
筆を置いた。
息を吐く。肩が凝っている。指先に絵の具がこびりついている。でも胸の奥が静かに凪いでいる。この感覚のために、俺は描いている。人に見せるためじゃない。誰かに認めてもらうためでもない。ただ、この凪が欲しくて。
キャンバスを一歩引いて眺める。悪くない出来だった。夕暮れの空のグラデーションがちゃんと呼吸している。手前の桜の枝が画面に奥行きを作っていて、遠景の住宅街の屋根が夕日を反射して鈍く光っている。
ふと、スマホが目に入った。
匿名のSNSアカウントは、半年前に気まぐれで作ったものだ。フォロワーは二十人ちょっと。プロフィールには何も書いていない。たまにラクガキを上げて、誰かがいいねを一つ二つ押して、それで終わり。そういう、空気みたいなアカウント。
スマホを手に取って、キャンバスの写真を撮った。
画面の中の絵は、実物より少しだけ彩度が落ちて見える。でも光の感じは悪くなかった。西日に照らされた旧校舎からの夕景。投稿画面を開いて、キャプションを考える。何も浮かばなかったので、空欄のまま投稿ボタンに指を置いた。
一瞬だけ、迷った。この絵には今日の空気が全部入っている。四月の風の匂いも、桜が散る速度も、教室で息を殺していた午後の重さも。それを画面の向こうに放り出すことに、かすかな怖さがあった。でも——フォロワー二十人だ。誰が見る。
——まあ、誰も見ないだろ。
いつもと同じだ。いいねが二つか三つついて、タイムラインの底に沈んでいく。誰の目にも止まらない。それでいい。誰にも見つからないまま、この匿名の場所でだけ息をする。教室の窓際最後列と、旧校舎の美術室と、フォロワー二十人のアカウント。俺の世界はそれで十分だった。
投稿ボタンを押した。
画面に「投稿しました」の表示が出て、すぐに消える。俺はスマホをポケットにしまい、絵の具を片付け始めた。パレットに残った絵の具をペインティングナイフで丁寧にこそげ落とし、筆をテレピン油で洗う。毛先に残った色が油の中でゆっくりと溶けていく。この片付けの時間も嫌いじゃなかった。描いているときの興奮が少しずつ冷めて、日常に戻っていく移行期間みたいなものだ。窓の外はもう暗い。春の夜は冷える。パーカーのフードを目深にかぶって旧校舎を出ると、校門に向かう道には誰もいなかった。
家に帰って、風呂に入って、ベッドに潜り込む。いつもと同じ夜だ。スマホの通知は切ってある。明日もまた、窓際の最後列で息を潜めて、放課後に旧校舎へ行って、誰にも見つからないまま筆を握る。それだけの毎日が、ずっと続けばいい。
そう思って目を閉じた夜、俺はまだ知らなかった。
あの一枚の絵が、一晩で三万の目に触れることを。