第2話
第2話
便箋を握ったまま、どれくらいそうしていたのか分からない。
気がつくと、指の関節が白くなっていた。紙の繊維が爪の下に食い込むほど握り締めていて、開こうとしたとき、指がうまく動かなかった。関節がきしむような鈍い痛みが、手首の方まで広がっている。便箋には深い皺が刻まれている。師匠の一行が、折り目の谷に沈んで読めなくなっていた。
「冷蔵庫の三段目、お前にしか分からない」
読めなくても、もう頭の中にある。消せない。十年間、師匠の声を忘れようとしてきた。低くて、乾いていて、無駄な抑揚のない声。叱るときも褒めるときも同じ温度で、だから余計に言葉の意味が胸に刺さった。あの声で、この一行が再生される。何度も。何度でも。耳の奥で繰り返されるたびに、言葉の輪郭が鋭くなっていく。
お前にしか分からない。
その言葉が、怒りの形を取って腹の底から込み上げてきた。
十年だ。十年間、一度も連絡をよこさなかった人間が、死んでから一行だけ寄越す。しかもその一行が、意味の分からない謎かけ。冷蔵庫の三段目。知っている。僕はあの段の温度管理を誰より正確にできた。師匠が「蓮に任せろ」と言った、唯一の持ち場だった。あの段にはいつも、翌日のクレーム・パティシエールの仕込みと、発酵バターと、師匠が「寝かせ」と呼んでいた生地の端材が入っていた。温度は三・五度。〇・五度のずれを指先の感覚で当てられるようになるまで、半年かかった。それが何だというのか。お前にしか分からない。分からせてどうする。分かったところで、師匠はもういない。
便箋を床に叩きつけた。
音はほとんどしなかった。紙は軽い。軽すぎる。十年の沈黙の重さに対して、紙一枚は軽すぎる。訃報の書面も一緒に落ちて、フローリングの上を滑って段ボール箱の縁に当たった。製菓道具が詰まった、あの箱。師匠が僕に仕込んだ技術の残骸が入った箱に、師匠の死が寄りかかっている。
部屋の空気が、急に薄くなった。
呼吸が浅くなる。こめかみの奥が脈打っている。指先が冷たい。真冬でもないのに、血の巡りが止まったように手の先から温度が引いていく。目を閉じると、暗闇の中に蛍光灯の白い光が浮かんだ。二十二年前の、あの厨房の光。
ステンレスの調理台。砂糖の焦げた匂い。僕は二十歳で、師匠の「パティスリー・トダ」で働いて二年目だった。その日、僕は師匠のレシピを自分なりに改変したミルフィーユを試作していた。許可は取っていなかった。師匠の不在中に厨房を使って、パイ生地の折り込み回数を変え、カスタードの配合を変え、自分の方が正しいと思っていた。コンクールで入賞した舌を持つ自分には、師匠の古いレシピを更新する権利があると。
師匠が戻ってきたのは、ミルフィーユの試食をしている最中だった。
何も言わなかった。調理台の上のミルフィーユを見て、僕の改変したレシピノートを見て、それからしばらく黙っていた。その沈黙の長さを、僕は今でも正確に覚えている。換気扇の回る音を十四回数えた。師匠の革靴の爪先が、タイルの目地の線に沿って微かに動いたのが視界の端に映っていた。
「帰れ」
最初の一言がそれだった。
「師匠、これは——」
「二度と来るな」
声は低く、平らだった。いつもと同じ温度。叱るときの声と変わらない。だからこそ、それが取り返しのつかない言葉だと分かった。師匠の目は僕を見ていなかった。調理台の上の、僕が作ったミルフィーユを見ていた。長い間。まるでそこに何か、僕には見えないものが書かれているかのように。
白衣を脱いだ。ロッカーから荷物を出した。師匠は僕の背中を見ていたと思う。振り返らなかったから、確かめようがない。店のドアを開けたとき、背中に何か言葉がかかるのを待っていた。待っていた自分が恥ずかしくて、走って駅まで行った。四月の夜で、桜が散っていた。花弁が頬に張りついて、それを剥がす指が震えていた。靴の中にも花弁が入り込んでいた。翌朝、靴を脱いだとき、それに気づいて、なぜかそれが一番堪えた。
あの夜から、僕の手は少しずつ何かを手放していった。
目を開けた。天井の染みが目に入る。二十二年前の蛍光灯の光は消えて、遮光カーテンの薄暗がりに戻っている。床に落ちた便箋と訃報が、さっきと同じ場所にある。時間だけが進んで、何も変わっていない。変わらないことに慣れすぎた十年間。
そのとき、テーブルの上でスマートフォンが震えた。
母の名前が表示されている。木曜に電話が来ることはない。食材を届ける日は、母も気を遣って連絡を避ける。それが十年かけて出来上がった決まりだった。封筒のことだ、と直感した。母は僕がこれを見つける時間を計算して、電話をかけてきている。
四コール待って、出た。
「蓮」
母の声は、いつもよりわずかに高かった。それだけで、母が何日も前からこの電話をかけるかどうか迷っていたことが分かる。声の高さに迷いが出る人だった。
「封筒、見た」
僕の声は自分で思っていたより掠れていた。喉の奥が乾いている。最後に水を飲んだのがいつだったか思い出せない。
「……そう」
沈黙。受話器の向こうで、母が息を整えている気配。テレビの音は聞こえない。消しているのだろう。この電話のために、いつもつけっぱなしのテレビを消した。
「葬儀は」
「終わったの。先月のうちに。ごく内輪で」
先月。訃報の日付は三月二十八日。もう二週間以上前だ。母はそれを知っていて、封筒を袋に入れた。葬儀が終わるまで待ったのか、それとも封筒が届くのが遅れたのか。どちらにしても、僕は師匠を見送れなかった。見送る権利があったのかどうかも分からない。二度と来るなと言われた人間に。
「お店は」
自分でも意外な質問だった。口が勝手に動いていた。
「まだあるみたい」
母の声が少し柔らかくなった。何かを慎重に選んでいる声。
「閉めたまま、そのままになっているって。商店街の人に聞いたの。もう何年も前から閉めていたでしょう。借り手もつかないみたいで」
パティスリー・トダ。駅前の商店街の、角から三軒目。ガラス張りのショーケースがあって、師匠が毎朝そこに焼き菓子を並べていた。マドレーヌは左端、フィナンシェはその隣、フロランタンは一番右。配置は二十年間変わらなかった。閉店時間にショーケースが空になるのが師匠の誇りで、残った日は翌日の仕込み量を必ず見直した。「読めない需要に振り回されるな」。あの店が、空のまま残っている。ショーケースには何も並んでいないだろう。埃が積もっているかもしれない。師匠が毎朝、開店前に三回拭いていたガラスに。
「蓮」
「うん」
「無理しなくていいからね」
母はそれだけ言って、電話を切った。何に対する「無理」なのか、母は言わなかった。封筒を読んだことに対してか、師匠の死を受け止めることに対してか、それとも——あの店がまだ存在しているという事実に対してか。
電話を置いて、床の便箋を拾った。
皺だらけの紙を膝の上で広げる。師匠の字は折り目の中に沈んでいて、それでも読める。二十年間見続けた字だから、半分隠れていても脳が補完する。右上がりの癖のある、力の強い字。インクの太さにむらがあるのは万年筆で書いたからだ。師匠はボールペンを使わない人だった。
冷蔵庫の三段目、お前にしか分からない。
閉まったままの店。その中に、業務用冷蔵庫がある。電源が落ちているのか、まだ生きているのかも分からない。三段目に何があるのか。僕にしか分からないと師匠が書いた、その何か。
窓の外で、夕方のチャイムが鳴り始めた。五時。僕はベッドの端に座ったまま、便箋を膝に置いている。師匠の店は、電車で三十分の場所にある。十年間、外に出ていない僕にとって、それは地球の裏側と同じ距離だった。
便箋の皺を、指が無意識に伸ばしている。角を揃え、折り目を圧着する。テンパリングの指。師匠に仕込まれた指が、師匠の遺言を丁寧に修復している。
段ボール箱の隣に、訃報の書面がまだ寄りかかっていた。拾わなかった。