第3話
第3話
翌朝、僕は玄関の前に立っていた。
眠れなかった、というのは正確ではない。眠ったのか起きていたのか分からない時間が続いて、気がつくと部屋の中が白んでいた。遮光カーテンの隙間からではなく、カーテンそのものが薄く光を透かしている。朝だった。木曜が終わって、金曜が来ていた。便箋は枕元にあった。眠る前にそこに置いた記憶はないのに、手が勝手に運んだらしい。師匠の一行は、もう皺の中に沈んでいても読む必要がなかった。瞼の裏に焼きついている。
冷蔵庫の三段目、お前にしか分からない。
シャワーを浴びた。十年間、生活の最低限は維持してきた。風呂には入るし、歯も磨く。洗濯もする。ただ、それらはすべて部屋の中で完結する行為だった。外に出なくても生きていける。生きていけることを証明するための十年だった。証明したところで誰にも見せる相手がいないという事実を、僕はいつも考えないようにしていた。
靴箱を開けた。十年前に履いていたスニーカーがある。ソールのゴムが劣化しているのが目で見て分かった。白かったはずのメッシュ部分が黄ばんで、全体が靴箱の中の暗い空気を吸い込んだような色をしている。履いてみると、土踏まずのあたりがわずかにべたつく。加水分解。使っていない素材は、使わないことで壊れる。
靴紐を結ぶ。指先は正確に動いた。蝶結びの左右の輪が均等になるように、無意識に力を調整している。何の役にも立たない精度だった。
ドアノブに手をかけた。
冷たかった。金属の冷たさ。この温度を、僕は毎週木曜日に知っている。生協の箱を引き入れるとき、ドアを薄く開ける。そのときの冷たさと同じはずなのに、今日は違った。薄く開けるのと、全部開けるのとでは、ドアノブの重さが違う。全部開けたら、閉める理由を自分で見つけなければならない。薄く開けるだけなら、箱を入れたら閉まる。用事が終われば閉まる。でも今日の用事は、ドアの外にある。
回した。
廊下の蛍光灯が目を刺した。いつも薄暗い部屋にいる目には、マンションの共用廊下の照明ですら強すぎた。目を細めて、一歩踏み出す。リノリウムの床が靴底の下で微かに鳴った。その音が廊下の奥まで反響して、自分の存在を知らせているようで落ち着かなかった。廊下の空気は部屋の中より冷たくて、そして広かった。天井がある。壁がある。でも自分の部屋とは違う天井と壁で、その距離感がうまく掴めない。
エレベーターのボタンを押す指が、二度空振りした。
一階に降りたとき、エントランスの自動ドアが開いて、外の空気が流れ込んできた。四月の午前の空気。冷たくもなく温かくもない、中途半端な温度。それなのに肌が総毛立った。空気の中に含まれる情報量が、部屋の中とはまるで違う。排気ガス、アスファルトの匂い、どこかの庭木の青い匂い、洗剤の匂い。匂いだけで五つも六つも重なっている。部屋の中の空気は一種類しかなかった。自分の匂いだけだった。
歩道に出た。
信号の電子音が鳴っている。横断歩道の向こう側で、歩行者用の信号が点滅している。自転車が横を通り過ぎた。風圧が腕をかすめて、僕は三歩後ずさった。心臓が跳ねている。速い。速すぎる。自転車はもう十メートル先に行っているのに、心臓はまだ追いつかれると思っている。
人が歩いている。向かいの歩道を、スーツの男がスマートフォンを見ながら歩いている。こちらを見ていない。見ていないのに、すれ違うという事実だけで喉が締まる。犬を連れた女性が角を曲がってきて、犬がこちらを見た。目が合った。犬の目と。それだけで足が止まった。
呼吸が浅い。肩で息をしている。マンションのエントランスまで戻れば、三十秒で部屋に帰れる。鍵はポケットにある。戻ればいい。戻って、ドアを閉めて、カーテンを引いて。いつもの部屋に。いつもの温度に。いつもの、何もない場所に。
冷蔵庫の三段目、お前にしか分からない。
足が、戻らなかった。
駅までの道を、僕は覚えていた。身体が覚えていた。角を右に曲がって、コンビニの前を通り過ぎて、歩道橋の下をくぐる。十年前の記憶と、街並みが少しずつずれている。コンビニの看板の色が変わっている。歩道橋のフェンスが塗り替えられている。パン屋だった場所がコインランドリーになっている。十年分のずれ。世界は僕を置いて進んでいた。当たり前のことを、足の裏で確認している。
電車に乗った。改札を通るとき、ICカードの残高が表示された。千二百円。十年前にチャージした金額の残り。使っていない電子マネーは減らない。残高だけが十年前のまま凍っている。僕と同じだった。
車内は空いていた。平日の午前。座席に座ると、向かいの窓から光が差し込んで、僕は目を逸らした。隣に座った女性の香水の匂いが鼻に届いて、息を止めた。匂い、音、光、振動。すべてが同時に来る。部屋の中では一度にひとつしか来ない刺激が、外では束になって押し寄せる。手すりを握る手が白くなっていた。三駅。たった三駅。師匠の店の最寄り駅まで、七分。その七分が、途方もなく長かった。
駅を出て、商店街に入った。
アーケードの屋根が途切れたところに、角から三軒目の店がある。シャッターが降りていた。錆が浮いている。ショーウィンドウのガラスは内側から新聞紙が貼られていて、中は見えなかった。看板だけが残っている。「Pâtisserie Toda」。筆記体のロゴ。師匠が知り合いのデザイナーに頼んで作らせたもので、アクサンテギュの位置が微妙にずれていると師匠が何年も気にしていたことを思い出した。結局直さなかった。直さないまま、店は閉まった。
シャッターの前に立つと、通りから風が吹き抜けた。商店街の風は建物の間を圧縮されて、思ったより強い。コートを着てこなかったことに今さら気づいた。寒い。四月なのに寒い。いや、気温の問題ではないのかもしれない。この場所に立っていることが、身体の芯から熱を奪っている。
シャッターに手を触れた。錆の下の鉄板は冷たくて、指先の体温を吸い取った。指を離すと、錆の赤茶色がうっすらと指紋に移っていた。この中に師匠の厨房がある。業務用冷蔵庫がある。三段目がある。鍵は——どこだ。
母は何も言わなかった。師匠の遺言にも鍵の場所は書かれていない。不動産屋に連絡すればいいのか。それとも、師匠の親族に。親族がいるのかどうかも知らない。師匠の私生活を、僕はほとんど知らなかった。厨房の中の師匠しか知らない。
郵便受けが目に入った。
シャッターの横、壁に埋め込まれた小さな郵便受け。真鍮の蓋が緑青で覆われている。ダイヤル式の錠前がついているが、蓋がわずかに浮いている。錠前が壊れているのか、あるいは最初から閉めていなかったのか。師匠は店の郵便受けに鍵をかけない人だった。「届くべきものは届く」と言って、僕が防犯を気にしたとき、鼻で笑った。
指を差し込んで蓋を開けた。チラシが数枚。古い。色褪せている。その下に、何かが手に触れた。金属の、小さな、冷たい感触。
鍵だった。
一本の鍵が、郵便受けの底に置かれていた。店の鍵。見覚えがある。十年以上前に毎朝この鍵で店を開けていた。師匠より早く来て、鍵を開けて、厨房の換気扇を回して、オーブンの予熱を入れる。それが僕の最初の仕事だった。鍵の持ち手の部分に、小さな傷がある。僕がつけた傷だ。急いで鍵を開けようとして、シリンダーに斜めに差し込んでしまったとき、師匠に「道具を雑に扱うな」と言われた。低い声だった。怒鳴るのではなく、ただ事実を告げるような、それでいて二度と繰り返すなという圧を含んだ声。あの傷。
この鍵を、誰がここに入れたのか。師匠が、生前に。それとも師匠の関係者が、僕が来ることを見越して。どちらにしても、誰かが僕の行動を予測している。十年間外に出なかった人間が、この遺言を読んで、ここまで来ることを。
鍵を握った。手のひらの中で、金属がゆっくり温まっていく。体温が鍵に移り、鍵の冷たさが体温に混ざっていく。その境目がなくなったとき、鍵が自分のものに戻ったような気がした。師匠の店の鍵。これを回せば、十年前の時間に繋がる。師匠がいた場所。僕がいた場所。二度と来るなと言われた場所。
シャッターの下部に、小さなシリンダー錠がある。鍵を差し込んだ。回る感触が、指に伝わった。