第3話
第3話
同窓会に行くと決めたのは、結局、前日の夜だった。
理由は自分でもよく分からない。あの非通知の留守電を何度も再生したわけでもないし、蓮くんのスタンプのない名前をずっと見つめていたわけでもない。ただ、五月に入ってからの二週間、毎晩布団の中で天井を見上げるたびに、閉じたはずの蓋の隙間から何かが漏れ出しているのを感じていた。好奇心なのか、未練なのか、あるいはもっと単純な——自分が本当に透明なのか確かめたいという、小さな意地のようなもの。
グループトークに「参加します」とだけ打った。スタンプは使わなかった。三十秒後にかおりちゃんから「わー!美咲来るんだ!」と返信が来て、ハートの絵文字が三つ並んでいた。私の名前を覚えていたことに少しだけ驚いた。それから、名前を覚えていたことと、私を見ていたことは別だと思い直した。
当日。クローゼットの前で十五分迷って、結局いつもの紺のワンピースを選んだ。膝丈で、襟元が少し詰まっていて、どこにでも着ていけるけれど、どこにいても目立たない服。アクセサリーは母からもらった細いシルバーのネックレスだけ。鏡に映る自分は、同窓会というより近所の法事に行くような地味さで、それが逆に安心だった。誰の視界にも引っかからない。それでいい。
新幹線で二時間、地元の駅に降り立つと、空気の湿度が東京とは違った。少し重たくて、草の匂いがする。五月の夕方の光が駅のロータリーを橙色に染めていて、タクシー乗り場のベンチに座った老人がぼんやり空を見上げていた。改札を抜けた瞬間、知らない香水の甘い匂いが鼻をかすめて、すれ違った女子高生の笑い声が背中を通り過ぎていった。四年前の自分もあんなふうに笑っていただろうか。たぶん、笑っていなかった。この街を出てから四年。何も変わっていないように見えて、駅前のコンビニが一軒増えている。その一軒だけが、時間が確かに流れたことを教えてくれていた。
グランヴィアホテル。地元で唯一の、ちゃんとしたホテルだった。結婚式やら企業の宴会やらに使われていて、高校の頃は前を通るだけで少し背筋が伸びるような場所だった。正面の回転ドアをくぐると、ロビーの天井が高くて、磨かれた大理石の床に自分の靴音が響いた。空調の冷たい風が首筋を撫でて、外との温度差に一瞬だけ身が縮む。
受付に同窓会の案内板が出ていた。三階の宴会場。エレベーターに乗ろうとしたとき、後ろから声がした。
「あ、来たんだ。珍しい」
振り返ると、かおりちゃんがいた。四年ぶりに見る柊かおりは、記憶よりも少し大人びていて、でも笑い方は変わっていなかった。口角だけが上がる、計算された微笑み。隣には高校時代からの取り巻きが二人。名前は——出てこない。向こうも私の名前が出てくるか怪しいけれど。
「かおりちゃん、久しぶり。幹事おつかれさま」
「ありがとー。まさか美咲が来るとは思わなかったから、びっくりしちゃって」
びっくり、という言葉の温度が低い。社交辞令にすらなっていない正直さが、かおりちゃんらしかった。隣の二人は私に目を向けることなく、かおりちゃんの肩越しにスマホで自撮りの角度を確認している。
宴会場は既にざわめいていた。四十人ほどが円卓に分かれて座っている。見覚えのある顔がいくつか。高木翔太がビールのグラスを片手に大声で笑っていて、周りの男子——もう男子という年でもないけれど——が呼応するように笑っている。体育祭の打ち上げの延長みたいだった。四年経っても力関係は変わらないのだと、入口に立った三秒で分かった。
空いている席を探した。どの円卓にも知った顔があるのに、どこに座ればいいのか分からない。グループの境界線は高校時代のまま引き直されていて、私が入れる余白がない。結局、入口に一番近い円卓の端に腰を下ろした。同じテーブルの三人は会話に夢中で、私が座ったことに気づいたかどうかすら怪しい。
乾杯の音頭をかおりちゃんが取った。グラスを掲げながら、「みんな変わってなーい」と笑う。変わっていないのは、たぶん、私を見ていないことも含めてだ。
三十分が経った。料理には手をつけたけれど味は覚えていない。ローストビーフの皿が目の前にあったはずなのに、噛んだ感触も、飲み込んだ温度も、何一つ残っていない。口に運ぶ動作だけが自動的に繰り返されていた。何度かトイレに立つふりをして席を離れた。誰も私の不在に気づかなかった。戻っても、空白はそのまま残っていた。椅子を引く音すら、宴会場の喧騒に一瞬で溶けて消える。
ロビーに出た。少しだけ空気を吸いたかった。宴会場の照明と笑い声から離れると、ロビーの静けさが耳に染みた。天井から吊るされたシャンデリアの灯りが大理石の床に反射して、白っぽい光のなかに自分の影だけが落ちている。壁際のソファに座って、ぬるくなったウーロン茶のグラスを両手で包んだ。
来なければよかった、とは思わなかった。ただ、答え合わせが済んだと思った。やっぱり私はあの輪の中にいない。四年前も、今も。確認するために来たのかもしれない。確認して、それで、どうする。
グラスの結露が指を伝って落ちた。冷たい雫が手首の内側をつたい、ワンピースの裾にひとつ染みを作った。それを見つめていたとき、足音が聞こえた。
革靴の、硬い音。早足。ロビーの奥からまっすぐこちらに向かってくる。
顔を上げる前に、声が届いた。
「——お嬢様」
低く、しかし張り詰めた声だった。
目の前に、黒い礼服の男性が立っていた。五十代半ば、白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけた、背筋の伸びた人。胸元にはホテルのエンブレムと「総支配人」の文字。
彼は私の前で深く腰を折った。ホテルの制服が全く皺にならないほど、慣れた所作だった。
「志田のお嬢様。ご来館いただき、誠にありがとうございます。お迎えのご連絡をいただいておりませんでしたもので、フロントが気づくのが遅れまして——大変申し訳ございません」
声が、ロビーに響いた。
大理石の床は音をよく通す。空調の低い唸りしかなかったロビーに、支配人の声はまるでピアノの単音のように明瞭に広がった。
動けなかった。グラスを持ったまま固まっていた。口を開こうとしたけれど、声が出ない。「あの」とも「違います」とも言えない。言うべき言葉が見つからない。心臓が喉の奥まで押し上がってきて、指先が痺れるように冷たくなっていくのが分かった。
「お部屋をご用意いたしましょうか。会長からは常々、お嬢様がお越しの際はくれぐれもよろしくと——」
「あの、大丈夫です。大丈夫、ですから」
ようやく声を絞り出した。掠れていた。支配人は顔を上げたが、姿勢は崩さない。その目には困惑はなく、ただ純粋な敬意があった。祖父の名前に対する、長年の敬意。
私ではなく、志田の名前を見ている。でもそれを支配人に怒ることはできない。この人は仕事をしているだけだ。
問題は、そこではなかった。
廊下の向こう——宴会場へ続く曲がり角に、人影が立っていた。
一人。二人。三人。トイレに向かう途中だったのか、煙草を吸いに出てきたのか。見覚えのある顔が、こちらを見ていた。
最初に目に入ったのはかおりちゃんだった。口が半開きになっている。さっきまでの計算された微笑みは消えて、代わりに貼りついたような表情が浮かんでいた。片手に持ったカクテルグラスが、わずかに傾いているのに気づいていない。
その隣に翔太。ビールのグラスを持ったまま、廊下の真ん中で固まっている。
もう一人は——知らない顔だった。でもその人の視線も、同じ場所に吸い寄せられている。支配人の背中と、ソファに座ったままの私と、その間に横たわる最敬礼の残響。
静かだった。空調の音すら消えたように感じた。
かおりちゃんの目が、初めて、私を見ていた。視線が顔の上を素通りしない。ちゃんと私の輪郭を捉えて、止まっている。四年前でも、高校三年間でも、一度もなかったこと。
視線が突き刺さるというのは比喩だと思っていた。でも今、廊下の向こうから飛んでくるいくつもの目が、確かに皮膚の下まで届いている気がした。背中が熱い。首筋に汗が浮かぶ。握ったグラスの表面で、結露の水滴が指の間を伝って落ちた。透明になりたかったはずなのに、今この瞬間、私の輪郭はロビーの誰よりもくっきりと浮かび上がっている。
お嬢様、と呼ばれた私を、同級生たちが見ている。