第2話
第2話
眠れないまま朝を迎えた、というほど劇的な夜ではなかった。ただ、いつもより少しだけ寝つきが悪くて、目覚ましが鳴る五分前に目が開いた。それだけのことだ。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、鏡の前に立つ。映っているのは昨日と同じ顔。特徴のない目元、薄い唇、結んでも下ろしても印象の変わらない黒髪。化粧をしてもしなくても誰にも気づかれないだろうという確信が、もう自嘲ですらなくなっている。事実として受け入れている。受け入れた、と思っている。
通勤電車の中で、昨夜の同窓会グループを開いた。通知はオフにしたままだったけれど、未読メッセージが四十二件に膨れ上がっていた。スクロールしていくと、参加表明のスタンプ、近況報告、誰かが貼った高校時代の集合写真。体育祭の一枚だった。クラス全員が校庭に並んで、みんな笑っている。画像の隅に写り込んだ万国旗が風にたなびいていて、あの日の乾いた土のにおいと歓声がふいに鼻先をかすめた気がした。
私もいるはずだ。三列目の端あたりに。でも画面が小さくて、拡大しなければ確認できない。拡大しなかった。
御園蓮の名前は、相変わらずスタンプなしのままだった。
電車を降りて、駅から出版社までの七分間を歩く。いつもの道。いつもの角のコンビニ。自動ドアの前で少し迷ってから、今日も鮭のおにぎりを手に取った。レジで「温めますか」と聞かれて、首を横に振る。冷たいままのほうが味が分かる。そんな小さなこだわりだけが、毎日に薄い輪郭を与えてくれている。
仕事中はよかった。校正に没頭しているあいだは、何も考えなくて済む。言葉の一つひとつに集中して、誤字を拾い、表現の揺れをチェックする。この作業が好きだった。文章の中に入り込んで、自分が透明になれるから——いや、違う。ここでは透明であることが、ちゃんと役割になるから。
昼休みにおにぎりをかじりながら、ふと窓の外を見た。四月の空は今日も曇っている。そのくすんだ灰色が、あの教室の天井の色に似ていると思った。
高校二年の春。あの頃の私は、まだ蓮くんの隣にいた。
隣、というのは比喩ではない。席順がそうだった。出席番号で「御園」と「志田」は近くて、一年のときから何度か隣同士になった。蓮くんは男子の中心にいる人だった。バスケ部のエース。背が高くて、声がよく通って、廊下を歩くだけで視線を集める。でも本人はそういう空気をまったく気にしていないようで、休み時間になると隣の私にも同じ調子で話しかけてきた。
「志田、昼どうする?」
「あ、うん、教室で食べる」
「じゃ俺も残るわ」
たったそれだけのやり取り。蓮くんにとっては何でもないことだったと思う。でも私にとっては、名前を呼ばれること自体が小さな奇跡みたいなもので、声をかけられるたびに胸の奥がかすかにざわついた。嬉しいのか、居心地が悪いのか、その両方が入り混じった感覚。
問題は、周りの目だった。
蓮くんが私に話しかけると、空気が変わる。かおりちゃんたちのグループが、ほんの一瞬だけ会話を止める。視線が飛んでくる。直接何かを言われるわけではない。ただ、空白が生まれる。教室の空気に、ごく薄い膜のような違和感が差し込まれる。
最初は気のせいだと思っていた。でも、そういう瞬間を数え始めたら止まらなくなった。蓮くんが私のぶんの飲み物を買ってきてくれたとき。体育の移動で自然と隣を歩いたとき。文化祭の準備で二人で買い出しに行ったとき。そのたびに、かおりちゃんたちの輪から笑い声が一つ減る。代わりに、ひそひそと交わされる声が一つ増える。
決定的だったのは、二年の秋だった。
放課後、体育館裏の自販機にジュースを買いに行った。角を曲がろうとしたところで、声が聞こえた。
「蓮くんって優しいから、ああいう子にも話しかけるんだよね」
かおりちゃんの声だった。甘くて、よく通る声。悪気があるのかないのか分からないトーン。それが一番たちが悪かった。
「ほんとそれ。蓮の隣にいるだけの子なのにね」
別の声。笑いが混じっている。
「なんか勘違いしてそうじゃない? 自分が選ばれたとか思ってたりして」
三人目の声。今度は明確に笑い声がついた。
角を曲がれなかった。足が動かなかった。手に握った百円玉が、汗でぬるくなっていくのだけを感じていた。五秒か、十秒か。自販機のモーターの低い音だけが聞こえていた。背中がじわりと冷たくなって、制服のブラウスが肌に貼りつくのが分かった。
彼女たちが去ったあと、私はジュースを買わずに教室に戻った。蓮くんが「遅かったな」と言って、自分の麦茶を差し出してくれた。受け取って、一口飲んで、ちゃんと笑えたと思う。でもあの日から、何かが少しずつずれ始めた。
距離を取った。意識的に。
席が隣でも、自分から話しかけるのをやめた。昼は教室ではなく図書室で食べるようにした。蓮くんが「最近どうした?」と聞いてきたとき、「ちょっと本読みたくて」と笑って返した。嘘ではなかった。図書室では実際に本を読んでいた。ただ、ページをめくる指先が震えていたことは、誰も知らなくていい。
蓮くんは何度か図書室に来た。「ここ空いてる?」と向かいの席に座って、自分も文庫本を広げた。何も聞かなかった。なぜ距離を取ったのか、何があったのか。ただ、同じ空間にいた。その沈黙が優しかったのか残酷だったのか、今でも分からない。追いかけてくれているようで、でも核心には触れない。その境界線の上に立たれると、こちらからも踏み出せなくなる。
三年になって、クラスが変わった。蓮くんとは別のクラスになって、自然と会う機会が減った。廊下ですれ違えば会釈はする。でもそれだけだ。かおりちゃんたちは相変わらず蓮くんの周囲にいて、私は相変わらず教室の風景に溶け込んでいた。誰も変化に気づかなかったと思う。もともと存在感のない人間が少し後退したところで、誰の地図にも影響しない。
気づいていたのは、たぶん蓮くんだけだった。
卒業式の日。花もない校庭で、蓮くんが近づいてきた。周りに誰もいない一瞬を、まるで計ったように。
「元気でな」
「うん」
それだけだった。目が合って、蓮くんが何か言いかけて、でも飲み込んだ。唇がわずかに動いて、形になる前に閉じた。私も何か言いたかった気がする。ありがとう、とか。ごめんね、とか。でも何に対してのありがとうで、何に対してのごめんなのか、自分でも分からなかった。だから「うん」しか出てこなかった。蓮くんは少しだけ笑って、それから背を向けた。その背中が人混みに消えるまで、私は動けなかった。
——スマホが震えて、回想が途切れた。
昼休みはとっくに終わっていた。慌ててゲラに視線を戻す。赤ペンのインクが一箇所、点になって滲んでいた。考え事をしながら、ペン先を紙に押し当てていたらしい。
定時後、オフィスを出て駅に向かう途中でもう一度スマホを確認した。同窓会グループの未読は七十を超えている。開かなかった。その代わり、LINEの別の通知に目が止まった。
非通知着信。一件。
留守電が残っていた。再生ボタンを押す。
ざらついたノイズの後に、声が聞こえた。男とも女ともつかない、低く平坦な声。
『志田さん。同窓会には、出た方がいいですよ』
短い間。
『面白いことが起きるから』
それだけだった。プツリと切れて、留守電は終わった。
歩道の真ん中で立ち止まっていた。後ろから来たサラリーマンが舌打ちして避けていく。イヤホンの片方が外れて、街の喧騒が一気に耳に流れ込んできた。車のクラクション、信号の電子音、居酒屋の呼び込み——さっきまで遮断していた世界が、一瞬で輪郭を取り戻す。
誰。どういう意味。
面白いこと。その言葉の響きが、ざらざらと胸の底を擦っていた。もう一度再生した。同じ声。同じ言葉。声の主に心当たりはない。番号は非通知。かけ直すこともできない。
スマホを鞄にしまって、歩き出した。駅の改札を通り、ホームに立ち、いつもの電車に乗る。吊り革に掴まりながら、揺れに身を任せて目を閉じた。
行かない。行く理由がない。
昨夜と同じ言葉を繰り返す。でも今度は、その言葉の裏側に、薄い好奇心のようなものが混じっていることに気づいてしまった。蓮くんのスタンプのない名前。非通知の留守電。面白いこと。
知らない声が、閉じかけていた蓋をこじ開けようとしている。