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隠れ令嬢の逆転と、幼なじみの嘘

第1話 第1話

第1話

第1話

昼休みのチャイムが鳴って、私はデスクの引き出しからコンビニのおにぎりを取り出した。

鮭。毎日同じ具を選んでいることに気づいたのは先週のことで、気づいたところで変える理由もなかった。パリパリの海苔を開封する乾いた音だけが、やけに大きく聞こえる。編集部のフロアは半分が外にランチへ出ていて、残った数人はそれぞれのデスクで黙々と食べている。誰かのカップスープの匂いが空調に乗ってかすかに漂ってくる。窓の外は四月の曇り空。ビルの谷間から見える空は、切手くらいの大きさしかない。その切手みたいな空も、今日はくすんだ灰色で、光がどこから差しているのかも分からなかった。

おにぎりを半分かじったところで、癖のようにスマホを開く。

インスタグラムのストーリーが並んでいた。地元の同級生たち——と呼ぶのも少し気が引ける、かつて同じ教室にいただけの人たち——の投稿が、時系列順に流れていく。

柊かおりがカフェで撮ったラテアートの写真。高木翔太が仲間と行ったバーベキュー。誰かの誕生日パーティー。タグ付けされた名前がいくつも重なって、知っている顔がいくつも映っている。みんな笑っている。それぞれの笑い方を私はまだ覚えていて、覚えているという事実だけが、薄い棘のように胸のどこかに引っかかった。

そこに、志田美咲という名前はない。

別に外されたわけじゃない。最初から数に入っていなかっただけだ。高校を卒業して四年。大学で東京に出てきて、そのまま就職した。引っ越しを報告する相手もいなかったし、報告しなかったことを気にする相手もいなかった。

「志田さん、午後の校正ゲラ、机に置いてあるから」

向かいの席の中嶋先輩が、カップ麺の蓋を押さえながら声をかけてくる。湯気が先輩の眼鏡の下半分を白く曇らせていた。

「はい、確認します」

「三時までに赤入れお願いね」

「分かりました」

必要最低限の会話。でも不快ではない。ここでは少なくとも、名前で呼んでもらえる。「志田さん」。たったそれだけのことが、ちゃんと地面を踏んでいる感覚をくれる。透明じゃない。ここにいるということを、少なくとも一人は知っている。それで十分だった——十分だと、自分に言い聞かせていた。

午後の校正は、新人賞の一次通過作品だった。恋愛もの。少し不器用な女の子が、自分を変えようと奮闘する話。赤ペンを走らせながら、ふと手が止まる。主人公が友人グループの中で笑えなくなるシーン。みんなの輪の中にいるのに、自分だけガラス一枚向こう側にいるような描写。喉の奥がかすかに詰まるような感覚があって、私はペンを握り直した。ペン先がゲラの上で小さく震えたのを、自分の目で見てしまった。

仕事だ。感情移入している場合じゃない。

赤を入れ終えたゲラを中嶋先輩のデスクに置いたとき、時計は十四時五十二分だった。八分の余裕。それだけで少しだけ息がしやすくなる。こういう小さな達成感を拾い集めて、一日を乗り切っている。

定時の十八時を少し過ぎて、オフィスを出た。最寄り駅までの道を歩きながら、イヤホンをつける。流れてくるのは特に好きでもないプレイリスト。好きな曲を集める気力が湧かないまま、サブスクが勝手におすすめしてくるものを聞き流している。知らない誰かの声が耳元で歌っていて、歌詞の意味を追う気にもなれない。ただ、外の雑音——車のクラクションや酔っ払いの笑い声——が遠くなるだけでよかった。

電車に揺られて二十分。車窓に映る自分の顔はぼんやりとして輪郭がなく、背後のビルの灯りが透けて見えた。一人暮らしのワンルームに着くと、靴を脱いで、電気をつけて、冷蔵庫を開ける。蛍光灯が一瞬ちらついてから点く。いつ替えたか思い出せない。昨日の残りの味噌汁を温めて、パックのご飯をレンジに入れる。電子レンジの低い唸り声だけが、部屋の沈黙を埋めている。

テーブルに座ったとき、スマホの通知が光った。

『美咲。たまには顔を見せなさい。体は元気ですか。いちごを送りました。届いたら連絡をください』

おじいちゃんからのメッセージだった。丁寧だけど、どこかぎこちない文面。スマホに慣れていない人の打ち方だと分かる。句読点を一つも省略しない律儀さが、あの人らしかった。「体は元気ですか」の一文に、電話すればいいのにそうしない遠慮がにじんでいる。本当は声が聞きたいのだろう。でもおじいちゃんは、こちらが出なかったときのことを考えて、いつもメッセージにする人だった。

既読をつけて、そのまま画面を閉じた。

返さないわけじゃない。あとで返す。いつもそう思って、翌日の昼休みにようやく「ありがとう、元気だよ」とだけ返す。それが私と祖父の距離だった。近すぎず、遠すぎず。でも正直に言えば、少しずつ遠くなっている。自分から離れているのに、離れていることに気づかないふりをしている。

おじいちゃんが何者なのか——それを知ったのは、高校二年の冬だった。母が癌で入院して、手術費のことで父と母が深夜に声を潜めて揉めていた。寝室のドア越しに聞こえた父の声は、初めて聞くほど低くて固かった。「受け取れない」と父は言った。「俺の稼ぎで何とかする」と。母の声は聞こえなかった。ただ、長い沈黙があった。翌朝、すべてが片付いていた。手術費だけじゃない。入院する病院まで変わっていた。個室。最新の設備。担当医は名前を検索すると学会の論文が出てくるような人。

「おじいちゃんがね」と母は言った。それだけだった。父は朝食の間ずっと黙っていて、味噌汁の具を箸で意味もなくかき混ぜていた。その横顔を見たとき、大人にも壊れそうな夜があるのだと初めて知った。

母方の祖父、志田嘉一郎。国内有数の製薬グループ——志田メディカルホールディングスの創業家当主。私は、正真正銘の令嬢だった。

でも、だから何だというのだろう。

祖父の名字を持っていても、祖父の世界で生きているわけじゃない。母は創業家を出て普通のサラリーマンと結婚した。私は公立の中学に通い、公立の高校に通い、奨学金で大学を出た。祖父は何度も援助を申し出てくれたけれど、母がそれを断り続けた。「自分の足で立ちなさい」が母の口癖だった。その言葉の裏に、母自身が創業家の中で立てなかった記憶があることを、私はうっすら感じていた。でも聞けなかった。聞いてしまったら、母の選んだ人生を疑うことになりそうで。

だから私は、誰にも言わなかった。言って何が変わるのか分からなかったし、変わってしまうことのほうが怖かった。

味噌汁を啜りながら、窓の外を見る。向かいのマンションの明かり。誰かの夕飯の匂い。どこかでテレビの音がする。四月の夜風はまだ冷たくて、少しだけ開けた窓の隙間から、湿った空気が足元を撫でていく。

静かだ。寂しくはない——と、思う。

スマホがもう一度光った。今度はLINEの通知。見慣れないアイコンだった。

開くと、グループへの招待だった。「久遠高校27期 同窓会」。

『皆さんお久しぶりです!このたび同窓会を開催することになりました🎉 場所は地元のグランヴィアホテル、日程は5月10日(土)です。参加できる方はスタンプ押してね! 幹事:柊かおり』

柊かおり。

その名前を見た瞬間、指先の温度が少し下がった気がした。味噌汁の椀を持つ手に、じわりと力が入る。

かおりちゃん。クラスの女子の中心にいつもいて、蓮くんのグループとも自然に繋がっていて、笑い声が教室の端まで届く子。三年間、私の半径一メートル以内にいたのに、私の名前を正確に覚えていたかどうかすら怪しい子。廊下ですれ違うとき、かおりちゃんの視線は私の顔の少し上——ちょうど存在しない誰かを見るように——を通り過ぎていった。

『あの子、蓮くんの隣にいるだけの子でしょ?』

あれは、かおりちゃんの声だった。体育館裏の自販機の前。私は角を曲がりかけていて、足がそのまま止まった。続く笑い声が二つ、三つ。否定する声は一つもなかった。

トーク画面には既にスタンプが並び始めている。既読の数字がどんどん増えていく。私は画面をスクロールして、参加者の名前を一つずつ見た。知っている名前。知っている顔。私がいなくなった後も当たり前に続いていたらしい繋がりの証拠。四年分の空白を挟んでも、彼らは変わらず一つの輪の中にいる。

そして——一つの名前で目が止まった。

御園蓮。既読済み。スタンプは押していない。

蓮くん。最後に会ったのはいつだっただろう。高校の卒業式。桜はまだ咲いていなくて、校庭の木はどれも裸のままだった。「元気でな」と言われて、「うん」と答えた。それだけだった。他に何か言いたかったのか、今となっては分からない。あの日から四年、一度も連絡を取っていない。

グループトークの通知をオフにして、スマホを伏せた。味噌汁はもう冷めていた。表面に薄い膜が張っている。それを見つめながら、自分の中の何かにも同じように膜が張っていることに気づいていた。

行かない。行く理由がない。

そう決めたはずなのに、夜、布団の中で目を閉じると、蓮くんの名前がまぶたの裏にちらついて消えなかった。スタンプを押していない、という事実だけが妙に引っかかっている。あの人も迷っているのだろうか。それとも、もう興味がないだけなのか。どちらでもいい。どちらでもいいはずなのに、暗い天井を見上げたまま、私はなかなか眠れなかった。

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