Novelis
← 目次

翼なき妃と双翼の契約

第9話 第9話「帰還と、小さな勝利」

第9話

第9話「帰還と、小さな勝利」

# 第9話「帰還と、小さな勝利」

---

翌朝の枢密院は、昨日とは空気が違っていた。

朝、部屋を出る前に鏡を見た。翼が映っていた。安定して。消える気配がない。鏡の中のわたしは、昨日のわたしとは別人に見えた。目の下に疲れの隈があり、頬がわずかに痩けている。けれど、背筋が違った。翼が違った。

議員たちの視線に、嘲りがない。代わりに、戸惑いと敬意が混じった目でわたしを見ている。昨日まで「異国の娘」を値踏みしていた目が、今日は少しだけ温度を持っていた。円形の間の中央に立つわたしの背中で、銀色の翼が静かに開いていた。昨日の試練を越えてから、翼は以前よりずっと安定していた。翼の付け根が確かな脈動を刻んでいて、まるで第二の心臓が生まれたようだった。脈動のたびに、背中から胸へ、温かい波が広がる。

「検証の儀を突破した事実を認め、枢密院は双翼の契約を暫定的に正当と認定する」

議長の宣言が、円形の間に響いた。老いた声だが、よく通る。「暫定的」。完全な承認ではない。けれど、わたしの翼を「偽物」と断じることは、もう誰にもできない。

レイヴン殿下は最上段で腕を組んだまま、表情を変えなかった。灰色の瞳に映っているのは、怒りではなかった。計算のやり直し。手を変えなければならないという、冷徹な判断。唇の端がわずかに引き締められただけだった。

「暫定、か」

エリオット様がわたしの隣で、低く呟いた。不満を滲ませている。翼の付け根から、苛立ちの温度が伝わってきた。

「充分です」

わたしは小さく答えた。

「完全な承認は、わたし自身で勝ち取ります。時間をかけて」

エリオット様がわたしを見た。それから、微かに口角を上げた。

「……君は、本当に」

「手強い、でしょう。三回目ですよ、それ」

わたしが笑うと、エリオット様も笑った。翼の付け根から、照れと喜びが混ざった温もりが伝わってきた。柔らかくて、甘い。この感情を、わたしは好きだった。

枢密院の議員の一人が咳払いをした。わたしたちのやり取りが聞こえていたらしい。老いた議員の頬が、微かに緩んでいた。

宮殿の回廊を歩くと、空気の変化が肌で分かった。

昨日までの回廊は冷たかった。すれ違う貴族たちの視線が壁のようで、歩くたびに無言の圧力を感じた。今日は違う。空気がわずかに柔らかい。

すれ違う貴族たちが、頭を下げるようになっていた。完全な敬礼ではない。けれど、目をそらさなくなった。無視しなくなった。中には、小さく「おめでとうございます」と声をかける者もいた。年配の侍従が、通りすがりに深い頷きをくれた。その目に、温かさがあった。

「翼のない妃」ではなくなった。

「雲海を潜った妃」。

その呼び名が、いつの間にか広まっていた。宮殿の使用人の間で、市場の商人たちの間で。噂は翼より速く飛ぶ。

中庭のテラスで、エリオット様と並んで座った。春の陽射しが暖かい。検証の儀から一晩経って、身体の疲れは残っていたが、心は軽かった。浮遊庭園の花が風に揺れ、空気が甘く香る。花の蜜と雲の水気が混じった、空の国特有の香り。テラスの石のベンチが日に温められていて、座ると腿の裏から心地よい熱が伝わってきた。昨日の冷たい雲海の記憶が、この温もりで少しずつ上書きされていく。

「セリア」

エリオット様の声が、いつもより柔らかかった。検証の儀の後、この人の声は変わった。以前は品のある壁が一枚挟まっていた。今は、壁が薄くなっている。わたしが雲海の底で死にかけたことが、この人の壁を融かしたのだ。銀色の翼が半開きになっていて、陽射しを受けて輝いている。

「もう二度と、一人で危険に飛び込まないでくれ」

「殿下」

「三日間、ずっと考えていた。君が雲海の底で翼を失ったとき、私にできることは何もなかった。降下台から飛び込もうとして、議員に止められた。私は——」

エリオット様の声が、かすかに震えた。手がベンチの縁を握りしめている。指の節が白くなっていた。

「無力だった」

わたしはエリオット様の手を取った。冷たかった。翼の付け根から、後悔と恐怖の残滓が伝わってくる。三日分の不安が、まだ溶け切っていない。

「殿下。わたしが帰って来られたのは、殿下がここで待っていてくれたからです。翼の付け根が、ずっと殿下を感じていました。暗闇の中で唯一温かかったのは、殿下の感情でした」

それは嘘ではなかった。翼が消えかけた暗闇の中で、最後まで残っていた温もりは、エリオット様の翼の付け根から届く、微かな脈動だった。

エリオット様の目が潤んだ。この人が泣くのを、初めて見た。ただし、涙は落ちなかった。唇を噛んで、堪えている。目の縁に光が溜まって、陽射しを受けてきらりと輝いた。

「それでも」

エリオット様は絞り出すように言った。

「次は、一人で行かせない。必ず隣にいる。——これは命令じゃない。約束だ」

「はい」

わたしは笑った。

「殿下こそ、一人で書庫に篭もらないでくださいね」

エリオット様が目を見開いた。それから、力が抜けたように笑った。今度は本物の笑顔だった。翼が大きく広がって、陽射しの中で銀色に輝いた。

「……ああ。約束する」

春の風が、二人の翼を同時に揺らした。浮遊庭園の花粉がきらきらと空に舞い上がり、二人の間を金色の光のように通り抜けていった。

夜、リーナが夕食の片付けをしていた。手際よく食器を盆に載せながら、けれど、いつもの明るさがない。銀の食器を並べる手が、少しだけ遅い。琥珀色の瞳がどこか遠くを見ている。

「リーナ。どうしたの」

リーナの手が食器の上で止まった。銀の皿を持ったまま、中空を見つめている。

「あ、いえ。何でも……」

リーナの手が止まった。琥珀色の瞳が、迷うように揺れている。唇を何度か動かしてから、ようやく声にした。

「あの、セリア様」

「何?」

「雲海の底で……変なもの、見ませんでしたか」

わたしの手が止まった。手に持っていた杯が、かすかに揺れた。中のお茶の表面に波紋が立って、消えた。

暗い影。雲の中で蠢いていた、あの黒い塊。あの冷たさ。翼の付け根を、一瞬で凍らせるような。あの触手がわたしの翼に触れかけた瞬間の感触が、今でも背中に残っている。爪の先で掻かれたような、ぞくりとする感覚。

「変なもの、というのは」

「暗い——黒い——何か。雲を食べているような……雲を飲み込んで、消してしまうような……」

リーナの声が小さくなっていった。目が怯えていた。小さな翼が背中でぴたりと畳まれている。恐怖のときの翼の形だった。

「リーナ。あなた、何か知っているの」

リーナは唇を噛んだ。わたしの顔を見上げて、また目をそらして、それから、小さく頷いた。指先が盆の縁を掴んでいて、指の腹が白くなっていた。

「おばあちゃんが——わたしのおばあちゃんが、昔、話してくれたことがあるんです。雲の底に住む、古い、古いものの話を。空を喰らう虚、って——」

「空を喰らう虚」

「おばあちゃんは、おとぎ話だって笑ってました。でも、最近、アルシエルの端の雲が、少しだけ薄くなっているのを見て——わたし、気になって……」

リーナの小さな翼が、不安で震えていた。羽根の先端が微かに逆立っている。

わたしは、あの暗い影のことを、まだ誰にも話していなかった。エリオット様にも。検証の儀の余韻の中で、話す機会を逸していた。

けれど、リーナの目の中にある恐怖は、本物だった。おとぎ話で片づけていいものかどうか、わたしには分からなかった。あの暗い影に翼を触れられかけたときの冷たさが、今でも背中に残っている。

「リーナ。そのおばあちゃんの話を、もっと詳しく聞かせてもらえる?」

リーナは頷いた。少し安堵したように、肩の力が抜けた。

その夜、わたしたちは遅くまで、燭台の光の下で話し込んだ。雲の底の古い話。空を喰らうもの。百年前の契約との、まだ見えない繋がり。リーナの声は時折震えたが、話し終わる頃には、目に少しだけ光が戻っていた。誰かに打ち明けられたことが、この子にとって救いだったのかもしれない。

窓の外では、春の月が雲海を照らしていた。月光が雲の粒子を銀色に染めて、雲海全体が絹の布のように輝いている。その雲海のどこかで、あの暗い影が、今もゆっくりと動いているのだろうか。

リーナが去った後も、わたしはしばらく窓辺に座っていた。リーナの祖母の話が、頭の中で渦を巻いていた。「空を喰らう虚」。おとぎ話だと笑っていたおばあちゃんの目が笑っていなかった、とリーナは言った。百年前の契約の残滓を持つ家系だからこそ、知っていたのだろう。笑い話にして封じ込めるしかなかったのだろう。

月が雲に隠れかけた。雲海の一角が、月光を失って暗くなった。ただの雲の影。そうだと思いたかった。

翼の付け根が、微かに、冷たくなった。

この話はいかがでしたか?

次の話を読む →

第10話「第10話「わたしの翼、わたしの場所」」

↓ スクロールで次の話へ

第9話「帰還と、小さな勝利」 - 翼なき妃と双翼の契約 | Novelis