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翼なき妃と双翼の契約

第8話 第8話「雲海の底で見たもの」

第8話

第8話「雲海の底で見たもの」

# 第8話「雲海の底で見たもの」

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降下台は、アルシエルの最外縁にあった。

宮殿から降下台までの道のりが、一番長く感じた。回廊を歩くわたしの足音が、いつもより大きく響いた。いや、回廊が静かだったのだ。すれ違う人がいない。普段は行き交う使用人たちが、今日はどこかに退いている。検証の儀のために、回廊が封鎖されたのだろう。無人の回廊に、わたしの靴底の音だけが反響した。

雲の切れ目に突き出した石の台座。手すりはない。その先は、白い虚空。足元から覗く雲海が、底なしの穴のように渦を巻いている。風が台座の縁を舐め、わたしの翼を乱暴に煽った。髪が顔に張り付き、目に入る。

台座の石は古く、苔が隙間に食い込んでいた。靴底に伝わる感触は冷たく、ざらついている。崖の岩場に似ていた。その一点だけが、わたしを少し落ち着かせた。

枢密院の議員たちが、後方の浮遊回廊に並んでいる。白い衣の列が、風を受けて揺れていた。レイヴン殿下は最前列で、腕を組んで立っていた。灰色の瞳が、わたしを見ている。感情のない、観察者の目。実験の結果を待つ学者のような、冷静な目。

エリオット様がわたしの隣にいた。この三日間、ほとんど眠らずに飛行訓練をつけてくれた。わたしの翼は、三日前よりずっと安定している。けれど、「完全」には、まだ遠い。エリオット様の目の下の隈は濃くなり、頬がわずかに痩せていた。

「セリア」

エリオット様の声は低く、かすれていた。三日間の疲労が滲んでいる。唇が乾いて、声を出すたびに小さく割れる音がした。目の下の隈は、もう化粧では隠せない深さになっていた。それでも、わたしを見つめる瞳は澄んでいた。

「私はここで待つ。翼の付け根が、君を感じ続けている限り、君は大丈夫だ」

「はい」

「必ず——」

「帰ります。約束します」

わたしは微笑んだ。エリオット様は微笑み返せなかった。その空色の瞳に、恐怖が滲んでいた。水面に落ちた墨のように、瞳の奥に広がっている。

わたしは前を向いた。背筋を伸ばして。降下台の先端まで歩いた。靴の爪先が、石の縁を踏む。眼下は白い深淵。風が吹き上がってきて、身体ごと持ち上げられそうになる。

翼を広げた。思い切り。風が翼を叩いた。銀色の羽根が激しくはためく。

跳んだ。足が石を離れた瞬間、胃の底が浮き上がった。落下の感覚。一瞬だけ、すべてが止まった。

雲の中は、白ではなかった。

最初の数秒は光があった。白い雲の粒子が顔を叩き、視界を奪い、けれど明るかった。翼で風を受け、降下速度を制御する。ここまでは訓練通り。雲の粒子は細かい水滴で、顔が濡れた。肌に張り付く冷たさが、感覚を鋭くしてくれた。

だが、深く降りるにつれて、光が減った。

白が灰色に変わり、灰色が暗灰色に変わる。空気が重くなった。息を吸うたびに、肺に冷たい湿気が入り込んでくる。水の中に沈んでいくような圧迫感。風の向きが読めない。上下左右の感覚が薄れていく。どちらが上なのか、身体が忘れ始めていた。

翼が、震え始めた。

不安だ。怖い。翼がその感情を拾い、縮もうとする。いけない。ここで翼を畳んだら、落ちる。

——翼は、意志で動かす。

エリオット様の言葉を思い出す。温かい気持ちのときに、翼は素直に動く。

温かい気持ち。温かい——

翼がびくりと痙攣した。消えかけている。銀色の光が薄れ、羽根の一枚一枚が半透明になっていく。指先で触れると、羽根が煙のように揺らいだ。

「——っ」

落ちた。

風が、下から叩きつけるのではなく、四方から押し寄せた。身体がきりもみに回転する。上も下も分からない。暗い雲の中で、わたしは自由落下していた。耳元で風が唸っている。服の裾が引きちぎれそうなほど激しく煽られる。

死ぬ。

その言葉が頭をよぎった瞬間——身体が、勝手に動いた。

両腕を広げ、体幹をひねり、落下の回転を止めた。崖で落ちかけたときの反射。父に叩き込まれた動き。翼ではなく、身体が覚えている動き。次に、風を読んだ。暗闇の中でも、肌が風向きを感じ取る。頬の左側がわずかに暖かい。左から上昇気流。かすかだが、確かにある。

翼はほとんど消えていた。けれど、わたしの身体は、翼がなくても風を知っている。

崖駆けの姿勢を取った。身体を丸め、風の流れに乗る。上昇気流に身を委ね、落下速度が緩んだ。完全には止まらない。けれど、制御できる範囲に戻った。手足の感覚が戻ってくる。指先が風を掴む感触が、故郷の崖の上と同じだった。

暗闇の底に、光が見えた。

蒼白い光。雲の最深部に、何かが光っている。上昇気流に乗ったまま、横に滑るように近づいた。

石碑だった。

雲の底の、空気すら澱んだ場所に、一枚の石碑が浮かんでいた。古い石材。表面が苔に覆われているが、刻まれた文字が自ら光を放っている。青白い光が暗闇を丸く照らし、石碑の周囲だけが別の世界のように見えた。空の国の古語だったが、不思議と読めた。翼の付け根が熱く疼き、文字の意味が頭に流れ込んでくる。

「翼は空に在らず、意志に在り」

わたしは声に出して読んだ。自分の声が、暗闇に吸い込まれ、そして跳ね返ってきた。

その瞬間、背中に熱が走った。消えかけていた翼が、ふわりと広がった。銀色の光が闇を裂いた。翼が、震えながらも、確かに開いている。背中の付け根に、強い脈動がある。心臓と同じリズムで、翼が鼓動していた。

意志。わたしの意志が、翼を呼び戻した。

恐怖ではない。エリオット様への想いでもない。わたし自身が「飛ぶ」と決めた、その意志。崖を駆ける娘が、初めて翼で飛ぶと決めた瞬間。身体の奥から湧き上がる、理屈ではない力。

翼が一度、大きく羽ばたいた。闇の中に銀色の光が広がった。空気を掴む感触。重力に逆らう力。身体が浮いた。上昇が始まった。

浮上は、降下よりも長く感じた。

暗闇から灰色へ、灰色から白へ。光が戻ってくるたびに、翼が力を取り戻した。風が読めるようになり、上昇気流を捕まえ、螺旋を描きながら上がっていく。肌に触れる雲の粒子が、少しずつ温かくなった。

雲の色が変わっていくのを目で追いながら、わたしは自分の手のひらを見た。指先がかじかんでいた。爪の下が紫色になっている。体温が下がっている。けれど、翼の付け根は温かかった。エリオット様の感情が、遠くから届いている。待っている人がいる。それだけで、翼が光を保てた。

途中で、見た。

雲の中に、暗い影が蠢いていた。

石碑の光とは違う、闇を凝縮したような黒い塊。雲を食い破るように動いている。生き物のような脈動がある。わたしが近づくと、一瞬、こちらに向かって伸びかけた。冷たい触手のようなものが、わたしの翼に触れかけた。翼の付け根がぞくりと冷えた。背中全体に悪寒が走った。

だが、次の瞬間には、上昇気流がわたしを押し上げ、暗い影は雲の下に沈んだ。

光が戻った。白い雲を突き抜け、夕陽の赤が目を刺した。眩しさに涙が出た。空気が急に薄くなって、肺が痛い。けれど、光だ。光が戻った。

アルシエルの銀色の塔が見えた。降下台に人影が並んでいる。

一つの影が、こちらに向かって飛んできた。銀色の翼を全開にした、エリオット様だった。

「セリア!」

その声が、雲海の風を切って届いた。翼の付け根に、エリオット様の感情が一気に流れ込んできた。恐怖。安堵。歓喜。涙。全部が混じった、名前のない感情。堤防が決壊したような奔流。温かくて、激しくて、身体が震えた。

わたしは笑った。泣きながら、笑った。顔がぐしゃぐしゃだった。雲の水滴と涙で、何も見えなかった。

「ただいま、殿下」

エリオット様がわたしの手を掴んだ。その手は震えていた。指先が白くなるほど強く握っている。二人の翼が並んで風を切り、降下台へと戻っていく。

夕陽が、二対の銀色の翼を赤く染めた。降下台の上で、議員たちのざわめきが聞こえた。

けれど、わたしの頭の中には、あの暗い影がこびりついていた。雲の底で蠢いていた、あの黒い塊。石碑が示した「意志」とは正反対の、何かを喰らうように動くもの。あの冷たさが、翼の付け根にまだ残っている。

あれは、何だったのか。

翼の付け根に残る冷たさが、指先まで伝わっているような気がした。手のひらを見ると、爪の先がかすかに青ざめていた。浮上の疲労なのか、あの影に触れられかけた後遺症なのか、判断がつかなかった。

その問いを呑み込んだまま、わたしはアルシエルの風に身を委ねた。降下台に降り立った瞬間、膝ががくりと折れそうになった。エリオット様の腕がすかさず支えてくれた。議員たちが何か言っている。褒めているのか、問い詰めているのか。声が遠い。耳が詰まったように、音が水の向こうから聞こえた。

エリオット様の手の温もりだけが、あの冷たさを少しずつ溶かしてくれていた。

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