第27話
第27話「双翼」
# 第27話「双翼」
---
エリオットが降りてきた。
傷ついた翼で。限界を超えて。約束を、守るために。
最初に見えたのは光だった。頭上の暗闇の中に、金色を含んだ銀色の光が、一筋の剣のように差し込んだ。小さな光。けれど、わたしの翼の付け根が、その光に反応して跳ねた。心臓が早鳴りした。この光を知っている。この温度を知っている。
わたしが名前を呼んだ瞬間、翼の付け根の繋がりを辿って、ここまで来た。あの重い空気の層を突き抜けて。気圧に翼を潰されそうになりながら。灰色に侵された翼で。
虹色と金銀色。二つの光が暗闇の中で交差して、闇を切り裂いた。闇が後退した。二つの光が合わさると、一つの光よりもはるかに強い。単純な足し算ではない。掛け算のように、光が増幅していた。
「命令を撤回する」
エリオットの声が闇に響いた。息が荒い。翼が明滅している。灰色が広がりかけていて、限界が近い。けれど、声には迷いがなかった。
「一緒に戦う」
「来ちゃ——」
「もう来た。遅い」
わたしは笑った。泣きながら。暴走する核の前で、場違いに。けれど、笑うしかなかった。この人は本当に、約束を守る人だった。翼が壊れかけていても。最深部の圧力に身体が潰されそうでも。約束を守るためだけに、ここまで降りてきた。
エリオットの顔を見た。蒼白だった。唇の色が薄くなっている。息が荒い。汗が額から顎を伝って落ちている。翼の灰色が、半分以上を覆っている。健全な部分は先端近くのわずかだけ。金色が、消えかけた炎のように揺れていた。
それでも、目だけは生きていた。空色の瞳に、わたしの虹色の翼が映っていた。
核の触手がエリオットに向かって伸びた。金混じりの翼の光を喰らおうとする。黒い触手が翼に巻きつきかけた瞬間、わたしが割って入り、虹色の翼で触手を弾いた。虹色と黒が接触して、激しい光が散った。
「セリア。一つ、分かったことがある」
「今ですか」
「今だ。——私の翼の色が変わった理由。金色が混じった理由。あれは、呪いが解けたからじゃない」
エリオットの手がわたしの手を掴んだ。冷たい手。暗闘の最中に、けれど確かに触れた。二人の翼が並ぶ。虹色と、金混じりの銀色。
「私も、自分の意志で飛び始めたからだ。君が教えてくれた。存在意義は契約じゃない。自分自身だと。あの言葉を聞いてから、翼が変わり始めた」
あの夜、洞窟の焚火のそばで言った言葉。「あなたの存在意義は、わたしとの契約じゃない」。あの言葉が、エリオットの翼を変えた。銀色から金混じりへ。皇族の色から、エリオット自身の色へ。
核が暴走の震動を増した。触手が二人を取り囲む。無数の黒い腕が、虹色と金銀色の光に向かって伸びる。最深部全体が揺れ、足元の闇が渦を巻いた。
「二人で、やる」
「はい」
わたしたちは翼を広げた。
虹色と金銀が重なった瞬間——翼が共鳴した。
振動が翼の付け根を通じて伝わった。わたしの翼がエリオットの翼と同じ周波数で鳴っている。二つの翼が、一つの音を奏でている。倍音のように重なり合い、増幅し合い、暗闇を震わせた。
双翼の契約の、本来の力。呪いの層を剥がした先にある、始祖が望んだ本当の力。空と地上を繋ぐ架け橋の光。虹色は地上から空を目指した色。金銀は空から地上に手を伸ばした色。二つが重なって、架け橋になる。
二人の翼から放たれた光が、最深部を照らした。暗闇が後退した。完全な闇がなくなり、広大な空間の輪郭が初めて見えた。核の触手が光に触れて蒸発していく。黒い腕が光に溶けて消えていく。
けれど、核そのものは消えなかった。光を浴びて、逆に、表面の顔がはっきりと浮かび上がった。怒りの顔。悲しみの顔。——そして、一番奥に、憧れの顔。空を見上げる、若い人の顔。
「聞こえますか」
わたしは核に語りかけた。翼の光に声を乗せて。虹色の光が言葉を包んで、核の表面に届けた。声が光に乗って、波紋のように広がった。核の表面の顔たちが、一斉にわたしの方を向いた。聞いている。千年間、誰にも語りかけられなかった存在が、初めて声を聞いている。
「地上と空は、もう敵じゃない。わたしがここにいる。地上の娘が、空の翼を持って、ここに立っている。それが、千年前の分断の答えです」
核が震えた。表面の顔が揺れた。
「空の国は不完全です。翼の格差がある。地上を切り捨てた歴史がある。それは全部、本当のこと。でも——変わろうとしている。変えようとしている。わたしも、エリオットも、リーナも」
エリオットが隣で頷いた。金混じりの翼が、わたしの虹色の翼と並んで揺れた。
「私は空の皇子だ。地上を切り捨てた国の、王族の一人だ。その罪は消えない。だが——この先を変えることはできる」
エリオットの声は静かだったが、揺るがなかった。皇子としてではなく、一人の人間として語っている。
核の脈動が、ゆっくりと穏やかになった。暴走が収まっていく。触手が縮み、表面の歪みが元に戻っていく。表面の顔から、怒りが薄れていった。残ったのは、悲しみと——
「……空を、飛びたかった」
核から、一つの声が漏れた。千年前の、名もない地上の人間の、最後の願い。何千もの声が重なっていた核の中から、たった一つの声が、裸で出てきた。子どものような声だった。
わたしの涙が零れた。暗闇の中で、涙が虹色の翼の光を受けて七色に光った。涙の粒が核の表面に落ちた。虹色の雫が、黒い表面を照らした。落ちた場所だけ、黒が薄くなった。
「ええ。わたしも、飛びたかった」
声が震えた。けれど、震えることが弱さではないと、わたしはもう知っていた。
虹色の翼を広げ、核に手を当てた。温かかった。怨念の塊のはずなのに、中心は温かかった。千年前の憧れが、まだ生きていた。恨みの殻の中で、ずっと。
光が核を包んだ。虹色と金銀の光が溶け合い、核の黒い表面を侵食していった。核は消滅しなかった。黒い塊が、ゆっくりと、白い雲に変わっていった。
怨念が、雲に還っていく。千年分の恨みが、空への憧れに溶けて、雲海の一部になっていく。黒が白に。闇が光に。核の表面を流れていた無数の顔が、一つずつ穏やかな表情に変わっていった。怒りが溶け、悲しみが薄れ、最後に残ったのは——微かな笑みだった。空を見上げる子どもの顔が、微笑んで消えた。
最深部が明るくなった。千年ぶりの光が、この場所を照らしていた。白い雲が下から湧き上がり、暗闇を押し上げていく。空気が軽くなった。風が生まれた。顔に当たる風が温かかった。最深部に風が吹いたのは、千年ぶりだったかもしれない。
「——終わった?」
エリオットが呟いた。疲労で声が掠れている。
「ええ。終わりました」
二人は手を繋いだまま、浮上を始めた。白い雲が二人を下から押し上げた。新しく生まれた雲が、二人を持ち上げるように。温かい上昇気流が、翼を使わなくても二人の身体を上へ運んだ。
上に行くにつれて光が戻り、灰色が白に、白が青に変わっていく。空気が軽くなった。肺が楽になった。重力が元に戻っていく感覚。最深部の圧迫から解放されるたびに、身体が少しずつ自分のものに戻った。指先の感覚が戻り、足の裏の感触が戻り、肌を撫でる風の温度が戻った。
エリオットの手が握られたまま、指が絡み合っている。手のひらが汗ばんでいた。二人とも。疲労と安堵と、まだ完全には信じられない驚きで。
雲海を突き抜けた瞬間、陽光が目を射した。眩しさに涙が出た。暗闇の後の光は、痛いほどに美しかった。青い空。白い雲。朝陽の金色。最深部にいた時間がどれほどだったのか分からない。一晩だったのか、数時間だったのか。けれど、空はわたしたちを待っていてくれた。
アルシエルが見えた。銀色の塔が、朝陽に輝いている。西端の黒い変色が——消えていた。白い雲が戻っていた。都市の輪郭が、元の美しい形を取り戻している。
そして、上空から、歓声が聞こえた。
アルシエルの人々が、塔のバルコニーや浮遊通路から、二人の帰還を見ている。歓声が雲海に響き渡った。何百もの声が重なって、空気を震わせた。
わたしは笑った。涙と汗と疲労でぐしゃぐしゃの顔で、笑った。声が出た。声を上げて笑った。最深部の無音の中では出せなかった声が、ここでは自由に響いた。空気が音を伝えてくれる。風がある。光がある。声が届く空がある。
隣でエリオットが、同じ顔で、笑っていた。泣きながら。頬に涙の筋が光っていた。金混じりの翼から灰色が消えていた。先端まで、金色を含んだ銀色が戻っている。怨念の核が消えたことで、残滓の影響も消えたのだろう。翼が完全に回復していた。
二対の翼——虹色と金銀——が、朝陽の中で輝いていた。始祖が望んだ本来の双翼の姿が、千年の時を超えて、ここにあった。