第26話
第26話「最深部の闇」
# 第26話「最深部の闇」
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雲海の最深部は、音がなかった。
完全な無音。風もない。自分の呼吸すら、耳に届くかどうか怪しい。音を出しても、闇が飲み込んでしまう。声を発すると、口元から数寸で消える。空気が音を伝えることを拒んでいるように感じた。
気圧が身体を押しつぶすように重い。息を吸うたびに、肺に鉛を詰めるような感覚がある。空気が冷たいのではなく、温度そのものが存在しない。熱いとも冷たいとも感じない。感覚の基準が消えている。指先の感触が薄れ、足の裏が地面を踏んでいるのかどうかも分からなくなる。自分の身体の輪郭が曖昧になっていくような不安。
視界は完全な暗闇。わたしの虹色の翼だけが光源で、七色の光が周囲の闇を丸く照らしている。光の届く範囲は五歩ほど。その外は、見たことのない濃い闇だった。闇が壁のように立ちはだかっている。
わたしは足を止めた——いや、足と呼べる感覚がまだあるのかも分からなかった。浮いているのか、立っているのか。上下の感覚が完全に消えている。虹色の翼の光だけが、わたしの存在を証明してくれている。
その光の中に、それが見えた。
雲食いの核。
黒い球体。直径は三歩ほど。表面がゆっくりと脈動している。心臓の鼓動のように、膨らんで、縮んで、膨らんで。その鼓動が足元から身体に伝わってきて、自分の心臓と重なりそうになった。表面には無数の顔が浮かんでは消えていた。人の顔。苦しみの表情。怒りの表情。悲しみの表情。千年分の感情が、球体の表面を流れている。
「かつて空から追放された地上の民の怨念の集合体」。
始祖の言葉が蘇った。この球体に凝縮されているのは、千年分の恨み。空の国に切り捨てられた人々の、行き場のない感情。空を目指し、空に上がり、そして追い出された人々の叫び。
核が、わたしに気づいた。
表面の顔が一斉にこちらを向いた。何千もの目が、虹色の光の中のわたしを見つめた。黒い触手のようなものが核から伸び、わたしの翼に巻きつこうとした。虹色の光が触手を弾いた。触れた瞬間、じゅっと音がして蒸気が上がった。けれど、圧力は強い。次の触手が来る。また次。
声が聞こえた。
核の声だった。一つの声ではなく、何千もの声が重なった、うねるような音。男の声、女の声、子どもの声、老人の声。全てが重なって、一つの意志になっている。
「お前も——捨てられた側だろう」
わたしの足が止まった。その言葉が、胸の奥に届いた。矢のように。盾を貫いて、直接、心臓に触れるような声だった。
「地上の娘。翼のない娘。空の国にやってきて、嘲られ、疎まれ、試され。お前は知っているはずだ。空の民が地上をどう見ているか。お前のような者をどう扱うか」
核の声は、わたしの記憶を読んでいた。宮廷の囁き。「翼のない妃」。冷たい視線。嘲笑。回廊で聞いた、あの高い笑い声。扇の向こうの、くすくすという音。
「お前もわたしたちと同じだ。捨てられた者。排除された者。空の傲慢に踏みにじられた者」
声が増幅された。何千もの声が重なって、わたしの全身を包み込むように響いた。骨が震えた。歯が鳴った。声の圧力で、虹色の翼の光が一瞬揺らいだ。
核の脈動が激しくなった。触手が再び伸びてきた。今度は三本同時に。虹色の翼で弾くが、腕が痺れるほどの衝撃があった。
「共に喰らおう。空を。翼を。傲慢を。全てを闇に沈めよう」
わたしの中に、一瞬、共感が走った。身体が反応した。胸の奥が熱くなり、翼の付け根が疼いた。共鳴しかけた。千年の恨みに。
嘘ではない。宮廷で受けた仕打ちは本物だった。回廊で聞いた笑い声。扇の向こうのくすくすという音。「翼のない妃」。あの言葉が残した傷は、今でも完全には消えていない。翼の格差社会は実在する。リーナが小さな翼で虐げられてきたことも。空の国が地上を切り捨てた歴史も。契約に呪いを上書きした権力者の傲慢も。壁画に描かれていた、あの城壁。交流の絵の上に上書きされた、分断の歴史。
核の言葉には、真実が混じっていた。だからこそ危険だった。真実を含む怒りほど、人を飲み込む力を持つものはない。
答えは慎重に選ばなければならなかった。嘘で誤魔化しても、核には通じない。千年分の恨みは、嘘を見抜く。わたしは深呼吸した。重い空気が肺を満たした。翼の付け根のエリオットからの温もりを感じた。遠くにいる。けれど、繋がっている。
「捨てられた」
わたしは声に出した。暗闇に声が吸い込まれ、核の表面で反響した。声が戻ってきたとき、自分の声が少し違って聞こえた。強がりの殻が剥がれた、裸の声。
「はい。わたしは、捨てられた側にいました」
認めることは、恥ではない。事実を事実として受け入れることは、弱さではない。父がそう教えてくれた。崖で足を滑らせたとき、「転んだことを恥じるな。起き上がらないことを恥じろ」と。
核の脈動が少し穏やかになった。わたしの言葉を聞いている。触手が止まった。
「翼がない娘と笑われました。異国の娘と疎まれました。それは事実です。否定しません」
わたしは一歩、核に近づいた。虹色の翼の光が、核の表面を照らした。無数の顔が、わたしを見つめている。怒りの顔。悲しみの顔。そして——その奥に、微かに、別の表情があった。憧れの顔。空を見上げる顔。
「でも——わたしは、ここにいることを、自分で選びました」
核が揺れた。表面の顔が歪んだ。
「捨てられた。でも、そこに留まることを、わたしは選ばなかった。空の国が不完全でも、翼の格差があっても、わたしはここに立つことを選んだ。あなたたちが恨みに沈んだのは、分かる。千年も放置されたら、誰でも怨念になる」
わたしは手を伸ばした。黒い触手が手首を掠めた。冷たさが走ったが、怯まなかった。虹色の翼の光が、手のひらに集まった。温かかった。始祖の泉で浴びた光と同じ温度。千年前の意志の温度。七色の光が掌の上で球体になり、脈動する核と同じリズムで揺れた。
「でも、あなたたちを追い出した空の民は、もうここにはいない。千年前の罪を、今の空にぶつけても、何も戻らない」
核の表面で、顔が歪んだ。苦しみと怒りが渦巻いている。触手が震えている。
「なら——どうすればいい。千年の恨みを、どこに——」
声が震えていた。千年間、誰にも聞いてもらえなかった声。この闇の底で、千年間、ただ恨んでいた声。
「溶かしてください」
わたしは言った。声が暗闇に吸い込まれ、けれど核の表面で反響した。何千もの顔がわたしの声を聞いている。
「雲海の中に。あなたたちは、もともと地上にいた人間の感情でしょう。空に上がりたかった人たちの想い。それは恨みだけじゃなかったはず。空への憧れも、あったはず。わたしは知っている。崖の上から空を見上げるときの、あの胸の痛み。手を伸ばしても届かない距離。それでも伸ばさずにはいられない、あの感覚」
核の脈動が不規則になった。暴走の前兆だ。表面が歪み、球体の形が崩れかけている。
「憧れ——?」
その声だけが、他の声と違っていた。怒りでも悲しみでもない。もっと古い、もっと深い場所から来る声。千年前に最初に空を見上げた人の声。
「わたしも、空に憧れていました。翼がない頃から、ずっと。あなたたちと、同じです」
核が膨張した。触手が四方八方に伸び、最深部全体が揺れた。上層から振動が伝わり、アルシエルも揺れているはずだった。
暴走が始まった。感情が制御を失っている。千年の恨みと、その奥にある憧れが、矛盾して核を引き裂こうとしている。恨みたい。けれど、憧れも捨てられない。その矛盾が、核を壊しかけている。
わたしは翼を全開にした。虹色の光が最深部を照らし、暗闇を後退させた。
「お願い。もう少しだけ、聞いて——」
けれど、核はもう聞いていなかった。暴走するエネルギーが、最深部を崩壊させようとしている。
この場所が崩壊すれば、アルシエルの雲基盤が全て崩れる。
「——エリオット」
名前を呼んだ。声が暗闇に吸い込まれた。けれど、翼の付け根が反応した。温もりが返ってきた。遠い。細い。けれど、確かに繋がっている。
わたしは上を見た。暗闇の中に、遠く、かすかな光が見えた。金混じりの銀色。
助けを呼んだのではない。名前を呼んだだけだ。それだけで、翼の付け根に温もりが伝わった。遠くにいるエリオットが、わたしを感じている。
わたしは翼を全開にした。虹色の光が最深部を照らした。七つの色が暗闇の中で踊り、核の表面を照らした。核の黒い表面に、虹色の光が映った。黒い球体に虹が走る。怨念の塊に、架け橋の光が触れた。
けれど、暴走は止まらなかった。核が膨張と収縮を繰り返し、最深部全体が震えている。足元が揺れて、立っていられなくなった。わたしは翼で浮き上がり——核に向かって飛んだ。