第25話
第25話「崖の娘」
# 第25話「崖の娘」
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降下の準備は、簡素だった。
朝の始祖の庭は、昨夜の戦闘の痕跡を残していた。草原の東半分は灰色に枯れ、白い木々の何本かは根元から折れて横たわっていた。けれど、泉だけは無傷で、銀色の光を静かに放っている。その光に照らされた空気は澄んでいて、深く吸い込むと、肺の底まで浄められるような感覚があった。
必要なものは少ない。わたしの翼と、わたしの意志。それだけだった。荷物は全て置いていく。重さは敵だ。故郷のブーツの紐を結び直した。革が足首を包む感触に、少しだけ安心した。母が繕ってくれた踵の継ぎ当てが、足の動きに合わせて微かに擦れる。この感触を覚えている。マルーラの花の名前も、母の目尻の皺も、父の崖駆けの教えも。全部取り戻した記憶が、身体の中にしっかりと根を下ろしている。
泉の水で顔を洗った。冷たくはなかった。温かい水が肌を撫でて、一晩分の疲労を洗い流してくれた。始祖の泉の水には不思議な力がある。飲めば喉が潤い、浴びれば身体が軽くなる。
問題は、エリオットの翼だった。傷は回復途上にある。金混じりの銀色は以前より安定しているが、灰色の痕が先端に残っている。最深部の圧力に耐えられるかは分からない。翼の付け根から伝わる感情には、決意の下に鈍い痛みが混じっていた。
「殿下。ここからはわたし一人で——」
言い終わる前に、エリオット様の表情を見た。言わせてもらえない顔だった。眉が寄り、唇が引き結ばれ、空色の瞳に譲れない光が灯っている。
「それは言うな。約束しただろう。次は一人で行かせないと」
「ですが——」
「セリア。もう一度言う。約束だ」
わたしは口を閉じた。この人の頑固さは、穏やかな外見の下に岩のように硬い。
けれど、翼の付け根を通じて、エリオット様の翼の状態が伝わってきた。限界に近い。回復が完全でないまま最深部に降りれば、翼は持たないだろう。感情を読むのと同時に、翼の力の残量のようなものが分かる。泉に浸かったわたしの翼と比べて、エリオット様の翼は明らかに消耗している。
リーナが二人の間に立った。小さな——いや、もう小さくない琥珀色の翼を広げて。その姿は、三日前までの怯えた侍女とは別人だった。
「わたしがここで装置を動かして、雲食いの末端を牽制します。エリオット殿下はセリア様と途中まで降りて——限界が来たら、引き返してください」
「リーナ——」
「わたしにも、できることがあるんです。おばあちゃんの分も。ガイウスの分も」
リーナの琥珀色の翼が、覚悟を帯びた光を放った。翼の色が深くなっている。透明感のある琥珀色が、蜂蜜のように濃く、温かくなっていた。三日前までの怯えた侍女はもういない。ここにいるのは、百年分の物語を背負って立つ、空と地上を繋ぐ血を持つ女だった。
わたしはリーナの肩に手を置いた。リーナがわたしの手を握った。冷たい手ではなかった。温かかった。
「リーナ。わたしは必ず戻るわ」
「はい。わたしは信じています」
リーナの声はもう震えなかった。琥珀色の翼が大きく広がり、装置の水晶が応えるように光った。
◇
始祖の庭の縁から、わたしとエリオットは雲海に飛び込んだ。
落下の瞬間、全身を風が叩いた。始祖の庭の温かい空気から、雲海の冷気に切り替わる一瞬。温度差で肌が粟立った。胃の底が浮き上がるような浮遊感。崖から飛び降りた時と同じ感覚。けれど、崖の底には地面がある。ここの底には、千年の闇がある。
虹色の翼が暗闇の中で光源になった。呪いのない翼は、暗闇の中でもしっかりと光を放った。以前の銀色の翼では、こんなに明るくはなかった。虹色の光は暗闇を嫌い、闇を押し戻す力を持っていた。七色の光が周囲の雲を照らし、暗い霧を退ける。虹色は雲食いの闇を嫌う。降下するにつれて、黒い霧がわたしの翼の光を避けるように後退していく。まるで道を開けるように。
途中まで、エリオット様は隣にいた。金混じりの銀色の翼が、わたしの虹色の隣で揺れている。二人の翼が異なる色で並ぶのは、初めてだった。銀色だった頃は同じ色だった。今は違う。けれど、並んで飛ぶリズムは同じだった。
途中、暗闇の中で手を繋いだ。二人の翼の光が合わさると、闇を退ける範囲が広がった。虹色と金銀色の光が混じり合って、暖かい白銀の光になった。その光の中を降りていくのは、不思議と怖くなかった。隣にいる人の手が温かかったから。
けれど、中層を越えたあたりで、エリオットの翼が軋んだ。金混じりの銀色が明滅し、揚力が落ちている。羽根の先端の灰色が広がりかけていた。冷たい空気が翼の傷口に触れて、痛みが翼の付け根からわたしに伝わってきた。
「殿下。ここまでです」
翼の付け根から伝わるエリオットの痛みが、わたしの背中にも響いた。鋭い痛み。翼が壊れかけている人の痛み。これ以上降りたら、翼は戻らないかもしれない。
「まだ——」
「エリオット様」
わたしは、初めて、「様」なしで呼んだ。
「エリオット」
その名前が口から出た瞬間、何かが変わった。空気が。わたし自身が。「様」をつけていた間は、どこかにまだ距離があった。敬意は変わらない。けれど、距離を閉じた。隣に立つ人間として。対等な人間として。
エリオット様の——いや、もう「様」はいらない。エリオットの目が見開かれた。暗闇の中で、虹色の光に照らされた空色の瞳が、大きく揺れた。翼の付け根から、衝撃に似た感情が伝わってきた。驚き。そして、その奥にある、痛いほどの喜び。
「ここから先は、わたしに任せてください。わたしは崖を駆けて育った谷間の娘です。落ちることを、恐れません」
エリオット様の翼の付け根から、感情が奔流のように流れ込んできた。恐怖。怒り。愛。信頼。全部が混じった、名前のない感情。堤防が決壊したように一気に押し寄せて、わたしの胸を満たした。
「戻ってこい」
エリオット様の声が震えた。暗闇の中で、涙を堪えた声だけが鮮明だった。
「それは命令だ」
わたしは笑った。暗闇の中で、声を上げて、涙と一緒に。
「命令は受けません。約束なら、します」
そして——ヴェントの女は涙を落とさない。
そう思った。家訓が頭をよぎった。崖の上で父に教わった言葉。強くあれ。泣くな。折れるな。その言葉に守られてきた。けれど、今は。
目の縁に涙が浮かんでいた。
「でも今は、落とします」
涙が一筋、頬を伝った。暗闇の中で、虹色の翼の光に照らされて、きらりと光った。涙の雫が七色に光って、暗闇に落ちていった。
「これはわたしの意志だから」
家訓を破ることが弱さではない。泣くと決めることも、意志だ。
エリオット様が手を放した。指先が離れるとき、指の腹同士が最後まで触れ合っていた。名残惜しさが指先に残った。
わたしは虹色の翼を畳んだ。崖駆けの姿勢を取った。そして雲海の底に向かって、落ちた。
ただの落下ではない。降下だった。意志を持った降下。崖を駆ける時と同じ。恐怖を受け入れて、その先に跳ぶ。身体を丸め、風を読み、暗闇の中で最適な軌道を選ぶ。
上を見た。エリオットの金混じりの翼の光が、遠ざかっていく。小さくなっていく。けれど、翼の付け根を通じて、あの人の感情は距離に関係なく伝わってくる。温かい。遠くても温かい。その温もりを背中に感じながら、わたしは降りた。
暗闇が深くなる。光が消える。わたしの虹色の翼だけが、闇の中で七色に光っている。虹色の光が暗闇を丸く照らし、その中だけが別の世界のようだった。光の届かない場所は完全な漆黒で、闇が壁のように硬い密度を持っていた。
空気が重くなった。肺が圧迫される。息を吸うたびに、鉛を飲むような感覚。検証の儀のときよりもはるかに深い。身体の重さが増していく。手足が重い。水の中を沈んでいくような抵抗感がある。
耳鳴りがした。高い金属音が頭の中で響いている。気圧の変化だ。唾を飲み込んで耳を抜く。崖の深い谷底に降りたときの対処法。身体が知っている。
下から、何かの脈動が伝わってきた。雲食いの核。千年分の怨念が凝縮した、巨大な心臓のような鼓動。ずん、ずん、と低い振動が腹の底に響く。内臓が揺さぶられるような不快感。わたしの心臓が核の鼓動に引きずられそうになる。意識して自分のリズムを保った。
近い。
もうすぐだった。黒い霧が濃くなり、虹色の翼の光を侵食しようとしている。光の届く範囲が狭まっていく。
虹色の翼を広げ直した。意志を込めて。光が闇を押し返す。最深部への最後の降下。
わたしは思い出した。幼い頃、崖の一番深い谷底に降りたことがある。父に手を引かれて。谷底は暗く、冷たく、日が当たらない場所だった。けれど父は言った。「底まで降りた者だけが、一番高く跳べる」。
崖の娘は、落ちることを恐れない。