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翼なき妃と双翼の契約

第24話 第24話「翼なき飛翔」

第24話

第24話「翼なき飛翔」

# 第24話「翼なき飛翔」

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泉に、もう一度、浸かった。

戦闘で消えた翼を取り戻すためではない。始祖の声を、もう一度聞くために。

朝の泉は昨日よりも静かだった。水面のさざ波が収まり、完全な鏡になっている。わたしの顔が映っていた。頬がこけて、目の下に隈がある。髪が乱れて肩に張り付いている。旅と戦闘で削られた顔。けれど、目だけは光っていた。緑がかった茶色の瞳が、泉の銀色の光を受けて、いつもより深い色をしていた。

泉の縁にしゃがんだ。白い石が膝に冷たい。周囲の草原は半分が雲食いに蝕まれて灰色に変わっていたが、泉の周りだけは緑が残っていた。朝露が草の先端に光り、風が吹くたびに銀色の木々が鈴の音を立てている。この場所は、まだ生きている。

薄い肌着のまま、泉に足を踏み入れた。水は温かかった。昨日と同じ温度。体温と同じくらいの、母の腕の中にいるような温もり。足首から膝、腰、胸。ゆっくりと水に身を沈めていく。肩まで浸かると、水圧が全身を優しく包んだ。疲労した筋肉が弛緩していく。腕の痺れが溶けていく。昨夜の戦闘で酷使した背中が、じんわりと温められて、痛みが遠ざかった。

始祖の声が、遠くから響いた。昨日より微かだった。残り火のような声。泉の底から湧き上がる泡のように、断続的に途切れながら。

「お前の翼は消えたのではない。身体が疲れて、意志の器が一時的に空になっただけだ」

「意志の器」

「翼は意志の結晶だと言った。お前の器は、今、空だ。満たし直せ」

わたしは目を閉じた。泉の温もりが全身を包み、水の中で浮遊するような感覚。重力が弱まったような軽さ。水面の下では、銀色の光が肌の上を流れていくのが見えた。血管の中を光が走るように。

何のために飛ぶのか。

エリオット様を守るため? アルシエルを救うため? リーナの未来のため?

全部、ある。それぞれが大切な理由。けれど、一番最初に来るのは——

わたしが、飛びたいから。

崖を駆けていた頃から、空に憧れていた。谷間の国の小さな家の前で、毎朝空を見上げた。鷹が旋回するのを、首が痛くなるまで見つめた。あの高さに手を伸ばしていた。届かないと分かっていても、伸ばさずにはいられなかった。

風が吹くたびに、身体が浮き上がりそうな感覚があった。崖の端から跳んだとき、一瞬だけ空中にいる。足の裏から地面が消えて、身体が風だけに支えられる瞬間。その一瞬が、いつも惜しかった。もっと長く。もっと高く。着地した瞬間に、もう次の跳躍を夢見ていた。

翼は後からやってきた。けれど、飛びたいという意志は、翼よりずっと前からあった。始祖と同じだ。あの土で汚れた手の男も、山の頂から空を見上げて、手を伸ばしていた。届かないと分かっていても。

「わたしは、飛ぶ」

声に出した。泉の水面が波打った。声が水に伝わって、波紋が広がった。

背中に熱が走った。翼が生えるのではない。翼が戻るのでもない。翼が、わたしの中から、湧き出てきた。意志が形を取る感覚。透明な水が凍って結晶になるように、わたしの「飛ぶ」という意志が背中で形を成した。

泉の水面が虹色に輝いた。わたしの背中から、虹色の翼が大きく広がった。以前よりも——銀色だった頃よりも——大きく、鮮明に。羽根の一枚一枚が光を持っていて、水面を照らし、泉の底まで虹色に染めた。

碑文の意味が、完全に理解できた。

「翼は空に在らず、意志に在り」

翼は空にあるのではない。翼は、空を目指す意志の中にある。誰かに与えられるものでも、契約で得るものでもない。自分が「飛ぶ」と決めた瞬間に、そこに在るもの。わたしの翼は、エリオット様の契約で生まれたのではなかった。契約は、わたしの中にあった意志に形を与えただけだった。

泉から上がった。水が身体を離れていく感覚。水滴が虹色の翼から滴り落ちて、泉の水面に波紋を描いた。朝の空気が肌に触れたが、もう冷たくない。身体の内側から熱が湧いている。翼の羽根の一枚一枚が水滴を弾いて、細かい虹の粒子を空中に散らした。

リーナが毛布を持って駆け寄ってきた。足元の草を踏む音が、朝の静けさの中でやけに大きく聞こえた。

「セリア様——翼が——すごい——」

リーナの琥珀色の瞳が見開かれている。口が半分開いたまま、言葉が追いつかない顔。小さな——いや、大きくなった琥珀色の翼が、驚きで広がっていた。

虹色の翼が朝陽を受けて、草原に七色の影を落としていた。影が草の上を泳ぐように動いている。翼を動かすたびに、影の色が変わった。赤から橙へ、橙から黄へ。まるで生きている絵画のようだった。

エリオット様がわたしの前に立った。空色の瞳に涙が浮かんでいる。けれど、笑っていた。泣き笑いの顔。唇が震えていて、泣くのと笑うのを同時にやろうとして、どちらも中途半端になっている顔。この人のこの顔を、わたしは何度でも見たいと思った。翼の付け根から伝わる感情は、驚きと喜びと、それから深い安堵が重なった、名前のない温度だった。

「知っていたか。始祖は、地上の人間だった」

「はい」

「翼は、意志から生まれる」

「はい」

「……つまり、翼は最初から君のもので、私のおかげでも、契約のおかげでもなかった」

「それは少し違います」

わたしは笑った。

「あなたが背中に手を当ててくれなかったら、わたしの意志には形がなかった。契約は、わたしの意志に形を与えてくれた。だから感謝しています。でも——」

虹色の翼を大きく広げた。朝の光を受けて、七色の光が始祖の庭全体に広がった。

「もう、誰のおかげでもなく、わたしの翼です」

エリオット様が、深く息を吐いて、頷いた。翼の付け根から、深い感動が伝わってきた。悲しみではない。喪失でもない。手放すことの美しさ。

泉の傍で、記憶を確かめた。

母の声。聞こえる。はっきりと。「セリア、背筋を伸ばしなさい」。朝の台所から。パンの焼ける匂いと一緒に。焼きたてのパンの、小麦が膨らんだ香ばしさ。母の手が粉で白くなっていて、わたしの頬に粉の跡がついた朝。

父の背中。見える。大きくて、日に焼けた首筋。崖の上で風を読んでいる姿。風が吹くと、父の革の上衣がばたばたと鳴って、その音が風の強さの目安になった。「この音が三回続いたら、走るな」と教えてくれた。

マルーラ。白い花弁五枚、黄色い花芯。谷間の川沿いに咲く、甘い匂いの花。花弁の裏に細い筋が入っていて、陽に透かすと血管のように見えた。春になると一面に咲いて、川面が白く見えた。母と一緒に摘んだ。花冠を作ってくれた。頭に乗せると、甘い匂いが一日中ついてきた。

崖の走り方。最初の三歩は低く、四歩目で跳ぶ。風が右から来たら左に重心を寄せる。着地は爪先から。膝を柔らかく。体重を前に逃がす。決して踵から着地するな。父の声が耳の奥で響く。

故郷の家の間取り。石段を三段上がって、右が居間、左が台所。居間の窓から崖が見えた。窓枠が木で、雨が降ると木の匂いがした。

全部、戻っていた。一つも欠けていない。色も音も匂いも触感も。全部がそこにあった。

涙がこぼれた。今度は止めなかった。ヴェントの女は涙を落とさない——でも、今は違う。これは悲しみの涙ではない。取り戻した記憶への、感謝の涙だ。失ったと思ったものが戻ってきた。それが、こんなにも嬉しいとは知らなかった。

「この翼なら——」

わたしは雲海の下を見た。始祖の庭の縁の先、黒い雲が渦を巻いている。雲食いの核がある場所。最深部。暗い渦が脈動していて、低い振動が足の裏に伝わってきた。

「雲海の最深部まで降りられます」

エリオット様がわたしを見た。空色の瞳に決意が宿っていた。金混じりの銀色の翼が、わたしの虹色の翼と並んで、朝の光の中で輝いている。二つの色が全く違うのに、並んでいると調和して見えた。

「行きましょう、殿下。雲食いを止めに」

エリオット様が頷いた。翼の付け根から、覚悟の温度が伝わってきた。恐怖もある。けれど、恐怖を飲み込んだ上での、静かな決意。

リーナが駆け寄ってきた。

「わたしはここで泉を守ります。装置があれば、雲食いの末端を抑えられます」

「リーナ。無理はしないで」

「セリア様こそ」

リーナが笑った。琥珀色の翼が、朝の光の中で美しく広がっていた。この子の翼は、もう小さくない。おばあちゃんが言った通り、空と地上を繋ぐ証。百年越しに花開いた翼。

虹色の翼が、風を受けて輝いた。七色の光が風に乗って散り、草原の上を流れていった。始祖の庭の残された緑が、虹色に染まった。

わたしは空を見上げた。青い空の向こうに、雲海が広がっている。その下の暗闇に、千年分の怨念が待っている。けれど、怖くはなかった。わたしの翼は、わたしの意志だ。意志がある限り、翼は消えない。

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