第22話
第22話「歪められた契約」
# 第22話「歪められた契約」
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翌朝、泉に浸かる前に、もう一つ確かめたいことがあった。
目覚めたとき、身体が軽かった。五日間の旅で積もった疲労が、一夜で半分以上消えている。始祖の庭の草の上で眠るだけで、回復が促されるらしい。泉の力が島全体に浸透しているのだろう。
朝の始祖の庭は、夜とはまた違う美しさだった。銀色の葉が朝露に濡れて、光を弾いている。朝陽が斜めに差し込んで、一枚一枚の葉が小さな鏡になっていた。草原に張られた蜘蛛の巣にも露が光り、楽園全体が宝石箱のようだった。朝の空気には昨夜の花の光の名残があって、吸い込むと胸の奥がきらきらするような錯覚があった。
「リーナ。泉の周りに碑文はない?」
「探してみます」
リーナが泉の縁を歩き回り、草に隠れた石板を見つけた。白い石の表面に苔が張り付いていて、リーナが丁寧に苔を剥がすと、古代文字が現れた。文字は泉と同じ銀色の光を帯びていて、朝の光の中でも自ら輝いていた。
「『契約の呪層は三重に編まれている。第一層:地上の記憶の封印。第二層:翼の色の拘束。第三層:翼と魂の依存。全てを解くには、泉で翼を洗い、己の意志で飛ぶと宣言せよ』」
三重の呪い。わたしは碑文の前に膝をつき、文字を指で辿った。指先に微かな振動が伝わる。文字そのものが生きている。
第一層が記憶の喪失。これはもう始まっている。花の名前を忘れ、母の目元がぼやけ、故郷の匂いが消えた。
第二層——翼の色の拘束。わたしの翼がエリオット様と同じ銀色なのは、わたし固有の色ではない。呪いによって、契約者の翼は皇族の翼の色に従属させられている。
「つまり、わたしの翼は本来、銀色じゃない?」
驚きよりも、腑に落ちる感覚が強かった。銀色の翼は美しかったが、どこか借り物の感覚があった。自分の色ではない、という直感。
「そういうことだ」
エリオット様が頷いた。彼の翼も変化している。傷を受けてから金色が混じった。これは呪いの拘束が緩んだためだろう。傷をきっかけに、呪いの鎖の一つが弛んだ。
「第三層は——『翼と魂の依存』。これは何?」
リーナが碑文を指で辿りながら読み解いた。額に皺を寄せ、古代文字の構造を分析している。膝をついて石板に顔を近づけ、唇が微かに動いている。古代文字の一画一画を丁寧に読んでいく。この子が古代文字を読むとき、祖母から受け継いだ百年分の知恵がその指先に宿る。
「契約者の翼を皇族の魔力に依存させる仕組みです。だから翼が不安定で、皇族の感情に左右される。本来、翼は各自の意志に属するもの。依存関係は人為的に作られた」
全てが呪いだった。翼の不安定さも。記憶の喪失も。色の従属も。始祖が望んだものは一つもない。空の民の権力者が、自分たちの特権を守るために、契約を歪めた。始祖が地上から空に上がれたように、誰でも空に上がれる可能性を、封じ込めた。翼を独占するために。
怒りが胸に湧いた。拳を握りしめると、爪が掌に食い込んだ。千年間、この呪いに苦しめられた人々がいた。ガイウスもその一人だった。アリアもまた、呪いの犠牲者だった。二人の悲劇は、権力者の設計によるものだった。
けれど、今は怒っている場合ではない。怒りは後で使う。今は、行動するときだ。
◇
わたしは泉の前に立った。
風が止んでいた。始祖の庭には常に微かな風が流れていたが、今この瞬間だけ、空気が完全に静止していた。泉がわたしを待っているのだと感じた。
朝の光が泉の水面を照らし、銀色の光が顔に跳ね返ってきた。水面に映るわたしの顔は、五日間の旅の疲れで痩せていた。頬がこけ、目の下に隈がある。けれど、目の光だけは消えていなかった。
服を脱ぎ、薄い肌着一枚になった。朝の空気が肌に触れて、鳥肌が立った。エリオット様が慌てて後ろを向いた。耳の先がわずかに赤い。リーナが大きな毛布を用意して待機している。
泉に足を踏み入れた。水は温かかった。体温と同じくらいの、穏やかな温度。泉の底は白い砂で、足を沈めると砂が指の間に入り込んだ。砂の粒子が細かくて、絹のような手触りだった。足首、膝、腰。水が身体を包んでいく。銀色の光が肌を舐め、温もりが毛穴の一つ一つに沁みていく感覚。
肩まで浸かった。
消えかけの翼が、水に触れた瞬間——痛みが走った。
呪いが、抵抗している。翼の付け根に冷たい針を刺されたような鋭い痛みが走り、わたしは歯を食いしばった。呪いの層が泉の水に触れて、溶かされまいと抵抗しているのだ。千年分の呪いが、最後の力で翼にしがみついている。
「セリア!」
「大丈夫——です——」
大丈夫ではなかった。痛みが全身に広がり、視界が白くなった。呪いが翼を通じてわたしの記憶を引き剥がそうとしている。母の声が遠ざかる。父の背中が消える。故郷の崖が霧に沈む——
消えていく。全部、消えていく。手の中の砂が流れ落ちるように。
「わたしは——」
声を絞り出した。呪いが喉を締めつけているような抵抗を感じた。
「わたしは、空と地上の——両方に立つ者だ」
泉が反応した。銀色の光が水底から噴き上がり、わたしの翼を包んだ。光の温度が一気に上がった。痛みが消えた。代わりに、温もりが流れ込んできた。深い、古い、始祖の温もり。千年の時間を超えて届く、地上から空を目指した人間の意志の温度。
翼が変わった。
消えかけていた半透明の翼が、色を取り戻していく。けれど、戻った色は銀色ではなかった。
虹色だった。
わたし自身の色。淡い虹のグラデーションが、羽根の一枚一枚に浮かんでいる。光の角度で色が変わる。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。全ての色が重なった、セリア・ヴェントだけの翼。銀色の泉の光を受けて、虹が水面に映り、楽園全体が七色に染まった。
「セリア……」
エリオット様の声が震えていた。わたしは泉から立ち上がった。水滴が虹色の翼から滴り、一滴一滴が小さな虹の光を散らした。背中の翼が大きく広がり、虹色の光が始祖の庭を照らした。
「これは——セリア自身の翼の色だ」
エリオット様が呟いた。空色の瞳が大きく見開かれ、涙が光っていた。
「銀色は呪いの色だった。本来のセリアの翼は——」
「虹色」
わたしは自分の翼を見た。美しかった。銀色よりも、ずっと。虹色の光が肌に反射して、自分の腕が七色に染まっている。これがわたしの色。空と地上の両方を持つ者の色。分断ではなく、繋がりの色。
同時に、記憶が戻り始めた。
波のように。一つ、また一つ。砂浜に打ち寄せる波が、流されたものを運んで戻すように。
マルーラ。
白い花弁が五枚。黄色い花芯。甘い匂い。花弁の裏に細い筋。谷間の川沿いに群生する、春の花。母の手が花を摘んで、わたしに差し出してくれた。「これは、マルーラよ」。母の声が、はっきりと聞こえた。壁越しではなく、すぐそばで。
「マルーラ」
声に出した。涙が零れた。止められなかった。名前が戻った。たった四文字の花の名前が、わたしの中の欠けた場所を埋めた。
母の目元が見えた。わたしと同じ茶色の瞳で、笑うと目尻に皺ができる。右の目尻の皺の方が深い。いつも右側からわたしを覗き込んでくれたから。父の声が聞こえた。「セリア、背筋を伸ばせ」。低くて太い声。朝靄の崖で、わたしの肩を掴んで立たせてくれた。手が大きくて、ごつごつしていて、温かかった。崖の家の間取り。石段を上がって右が居間、左が台所。居間の窓から崖が見えて、台所の窓からは谷底の川が見えた。台所の隅に、母の薬草の乾燥棚があった。全部、全部戻ってきた。
匂いも戻った。故郷の朝の匂い。土と草と、遠くの川の水の匂い。鼻の奥に広がる、あの重くて温かい空気。空の国のどこにもない、地上の匂い。
全部、戻ってきた。
リーナが泣いていた。声を上げて。エリオット様も泣いていた。唇を噛んで、堪えきれずに。わたしも泣いていた。始祖の庭で、三人が泣いていた。泉の銀色の光に照らされて、涙が虹色に光った。
けれど、その涙の向こうに、轟音が響いた。
低い、地鳴りのような音。足元から身体を揺さぶるような振動。泉の水面が細かく波打った。銀色の光が乱れ、水滴が弾け飛んだ。
島の外縁が揺れた。地面が震動し、白い木々が大きく傾いた。木の根が地面から浮き上がり、石が転がった。黒い雲が、始祖の庭に押し寄せてきている。先ほどまで鈴のように鳴っていた銀色の葉が、一斉に沈黙した。鳥が逃げるように。獣が身を竦めるように。
雲食いだ。
泉の浄化を感じ取ったのか、雲食いが始祖の庭に侵入してきていた。黒い霧が島の東端から流れ込み、草原を覆い始めている。草が触れられた瞬間に枯れていく。色が抜けるのではなく、存在ごと消えていく。灰色になった草が、煙のように薄れて消える。大地が剥き出しになり、黒い土が露わになった。