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翼なき妃と双翼の契約

第13話 第13話「記憶の欠片が落ちる音」

第13話

第13話「記憶の欠片が落ちる音」

# 第13話「記憶の欠片が落ちる音」

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あの花の名前が、出てこなかった。

地上庭園で、わたしが植えた花の芽を手入れしているときだった。土の匂いが鼻を包み、指先は湿った土に沈んでいた。リーナに「セリア様の故郷には、どんな花が咲くんですか」と訊かれて、白い花弁に黄色い花芯の花を思い浮かべて——名前が、喉のすぐ近くまで来ているのに、音にならなかった。

白い花。五枚の花弁。甘い匂い。母が教えてくれた。それは確かに覚えている。花弁の裏に細い筋が入っていたことも。陽に透かすと血管のように見えたことも。母の指に花粉の黄色がついていたことも。全部覚えている。花の姿は、目を閉じれば瞼の裏にくっきりと浮かぶ。

名前だけが、空白だった。ぽっかりと。砂に書いた文字が波にさらわれたように。記憶の棚に手を伸ばして、そこにあるはずの瓶を掴もうとしたら、指が空を切った。瓶はある。中身もある。ただ、貼ってあったラベルだけが剥がれている。

「セリア様?」

「……ごめんなさい。少し考えて」

わたしは笑って誤魔化した。けれど、手が小さく震えていた。土を掴む指先が冷たくなっていた。爪の間に入り込んだ土の感触が、急に他人の手のものように感じられた。

これが、始まりなのだ。

百年前のガイウスと同じ。些細な記憶から、一つずつ、こぼれ落ちていく。花の名前。次は何が消えるのだろう。道の名前か。季節の匂いか。母の笑い方か。

考え始めると、もう止まらなかった。頭の中で故郷の記憶を片端から確認し始めた。家の前の石段。三段。赤い粘土の。崖の一番高いところから見える、三つの峰。父の靴の革の匂い。母の手のひらのたこ。全部あるか。全部思い出せるか。

「ま——」

名前の最初の音が浮かんだ。ま。マ——

出てこない。舌の上で転がしても、歯の裏に当てても、その先の音が繋がらない。もどかしさが恐怖に変わった。

わたしは立ち上がった。膝の泥を払う余裕もなかった。リーナが心配そうな顔をしているのが分かったが、今は向き合えなかった。この顔を見せたくなかった。膝に泥がついたまま、裾を引きずって歩いた。地上庭園の出口の石段で、足がもつれかけた。

「少し一人になるわ」

声が震えなかったのは、振り返らなかったからだ。リーナの方を向いていたら、声は出なかったかもしれない。背中で扉の音を聞いた。リーナが追いかけてこないことに、感謝した。

部屋に戻り、扉を閉めて、壁に背を預けた。石壁の冷たさが寝衣越しに背中に沁みた。翼の付け根が壁に押し付けられて、鈍い痛みがあった。痛みが、考えることから少しだけ意識をそらしてくれた。目を閉じて、必死に思い出そうとした。

マ——マル——マルー——

駄目だ。音が繋がらない。頭の中に靄がかかったように、その先が見えない。手を伸ばせば届くはずの場所に、何もない。ガラスの壁が一枚挟まっているような、もどかしさ。

翼が、不安を拾って小さく縮んだ。背中にぴったりと張り付いて、羽根が微かに逆立っている。

エリオット様には言えない。言ったら、あの人はきっと自分を責める。代償を知っていて契約を発動させた罪悪感が、さらに深くなる。あの人の翼の付け根から流れてくる罪悪感は、もう今でも十分に重い。これ以上乗せたら、壊れてしまう。

言えない。けれど——隠し通せるとも思えなかった。翼の付け根は正直だ。わたしの恐怖がいつかエリオット様に伝わる。

壁にもたれたまま、床を見つめた。石畳の隙間に、小さな草が一本生えていた。青い茎が石の割れ目から這い出している。空の国の宮殿でも、石の隙間に草は生える。生命は、どんな場所でも、隙間を見つけて芽を出す。

わたしも、そうでなければ。

夕方、エリオット様が書庫から戻ってきた。手に古い地図を持っていた。顔に光が戻っている。ここ数日で初めて見る、前向きな表情だった。

「見つけた。始祖の庭に繋がると思われる浮遊島の位置が、この地図に記されている」

地図は羊皮紙に手描きされたもので、アルシエルを中心に、いくつかの浮遊島が点線で結ばれていた。インクの色が何段階にも褪せていて、何世代にもわたって書き足されたことが分かる。最も遠い位置に、「始祖の園」と記された島がある。その文字だけが古い金のインクで書かれていて、他とは明らかに違う時代のものだった。

「アルシエルから南西。雲海の外縁部を越えた先。飛行で五日——いや、途中の浮遊島に寄りながらだと、もっとかかるかもしれない」

エリオット様の目に、久しぶりに光が戻っていた。手がかりを見つけた高揚感。書庫で独り調べ物を続けていた夜が報われたのだ。翼の付け根から伝わる感情に、冷たい恐怖の層の上に、温かい希望の層が重なっているのが分かった。地中の氷の上に春の陽が差すような、ゆっくりとした溶け方。まだ恐怖は消えていない。けれど、その上に光が当たっている。

「行きましょう」

わたしも笑った。心の底から笑えた。希望がある。始祖の庭に行けば、代償を消す方法が見つかるかもしれない。

けれど、エリオット様が地図を広げて説明してくれている間も、わたしの頭の片隅では、あの花の名前を探し続けていた。白い花。五枚。黄色い芯。甘い匂い。母の声。指の上の花弁の手触り。風に揺れる白い群生。

名前だけが、どうしても、戻ってこなかった。エリオット様の声を聞きながら、別の部分の頭が必死に記憶の引き出しを漁っている。マ——まで出て、その先が霧に消える。何度やっても同じだった。

帰り際に、市場の通りを歩いた。いつもなら賑やかな通りだが、夕暮れ時の市場は閉店の支度を始めていた。商人たちが荷物を片付ける音。木箱を積む音。帆布を畳む音。日常の音が、わたしの耳に温かく響いた。この日常を、いつまで覚えていられるのだろう。ふと、そんなことを思った。

アルシエルの西端に近い通路を通ったとき、足を止めた。

雲が、薄い。

塔と塔の間に張り巡らされた浮遊通路の足元、雲の床がいつもより透けている。白い綿のような雲がまばらになり、下の暗い空間がちらりと見えた。足を踏み出すのが怖くなるほどに。通路の上を歩く人々は気にしていない様子だったが、わたしには分かった。この薄さは普通ではない。

前にもこんなことがあった。浮遊庭園で見た暗い雲。検証の儀のときに見た黒い影。

「エリオット様。この辺りの雲、前からこんなに薄かったですか」

「……いや。こんなに薄いのは初めてだ」

エリオット様の表情が曇った。翼が硬く畳まれた。

市場の商人たちの声が、いつもより小さい気がした。掛け声に覇気がない。賑わいが一段低い。雲が薄くなっていることに、住民たちも薄々気づき始めているのかもしれない。

その夜、リーナが夕食の後に、おずおずと口を開いた。食器を片付ける手を止めて、わたしの前に正座した。

「あの……セリア様。最近、夢を見ませんか」

「夢?」

「翼が——溶ける夢です。熱い水に浸かったみたいに、羽根が一枚ずつ溶けて、なくなっていく夢」

わたしの背中が冷えた。

見ていた。昨夜、まさにその夢を見た。銀色の翼が、蝋のように溶けて、指の間から流れ落ちていく夢。液状になった羽根が、手のひらから滴り落ちて、消えていく。目覚めたとき、背中の翼が本当にあるか、何度も確かめた。手を伸ばして、羽根に触れて、まだ固体であることを確認して、ようやく呼吸が戻った。

「リーナも、見るの?」

リーナが小さく頷いた。琥珀色の瞳が、怯えで揺れている。

「わたしの翼は小さいですけど、それでも、溶ける夢は……怖いです。翼がなくなるのは——わたしにとっても——」

声が詰まった。リーナにとって、翼は複雑なものだ。小さい翼はコンプレックスの源であると同時に、自分が空の国の人間である証でもある。それを失う夢が怖くないはずがない。

わたしはリーナの手を握った。冷たい手だった。指先が白くなっている。

二人で、しばらく、何も言わずに座っていた。窓の外では、夜の雲海が広がっていた。その雲海が、少しだけ、以前より暗く見える気がした。月光の反射が弱い。雲が薄くなって、光を通してしまっているのだ。

白い花。五枚の花弁。名前の分からない花。

あの白い花の名前を、わたしは明日にはもう探さないかもしれない。名前を忘れたことすら、忘れるかもしれない。忘れたことを忘れる——それが一番怖かった。記憶の穴に気づかなくなること。

翼が、微かに震えた。恐怖の翼だ。わたしの翼は感情に正直で、今は恐怖の形をしている。身体に密着し、羽根の先端が逆立ち、まるで何かから身を守ろうとするように丸くなっている。

けれど、翼が震えても、わたしの足は床を踏みしめていた。足だけは、いつも通り、地面を捉えている。ヴェントの娘の足は、最後まで地面を離さない。

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