第10話
第10話「わたしの翼、わたしの場所」
# 第10話「わたしの翼、わたしの場所」
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検証の儀から一週間。わたしの朝は、空から始まるようになった。
毎朝、夜明け前に起きる。リーナがまだ来ない暗い部屋で翼を広げ、窓を開け、冷たい朝の空気を吸い込む。空の国の夜明け前の空気は、刃物のように鋭い。鼻の奥が痺れ、肺の底まで澄み渡る。この冷たさが、眠りの残りを一瞬で吹き飛ばしてくれた。
そして、バルコニーから飛び立つ。
飛ぶことは、もう怖くなかった。怖さが消えたのではなく、怖さの質が変わった。雲海の底で感じた純粋な恐怖とは違う。今あるのは、高い場所に立つ爽快さと表裏一体の、心地よい緊張感。崖の上で風を受けるときに似ている。
翼は安定していた。消える気配もない。朝の風を読んで、アルシエルの塔の間を滑空する。銀色の翼が朝焼けを受けて淡いオレンジに染まる。この色が好きだった。自分の翼が、この国の空に溶ける瞬間。羽根の一枚一枚が朝陽を透かして、薄い金色の影を足元の雲に落とす。
塔の間を飛ぶと、朝の支度をしている市場の人々が見えた。荷物を運ぶ商人が、わたしを見上げて手を振ってくれることもあった。「雲海を潜った妃」の噂は、市場にまで広がっている。
三十分ほど飛んで、宮殿に戻る。リーナが温かいお茶を用意してくれている。花の蜜を溶かした湯気が、帰還したバルコニーに漂って、わたしを迎えてくれる。こうして、わたしの一日が始まる。
◇
「セリア様、また泥だらけですよ」
昼過ぎ、リーナがわたしの裾を見て呆れた声を上げた。
わたしは宮殿の地上庭園——浮遊庭園ではなく、塔の根元にある、地に足のついた庭——で、土をいじっていた。
空の国の人々は、地面の植物にあまり関心がない。浮遊庭園の花は美しく管理されているのに、地上庭園は放置されていた。雑草が伸び放題、花壇は崩れ、かつて植えられていたであろう植物の残骸がところどころに見える。石の縁取りは苔に覆われ、日当たりの悪い角には蜘蛛の巣が張っていた。
わたしはそれを引き受けた。
土の匂いが好きだった。手のひらで掬った土は、地上のものとは少し違う。雲の水分を含んで湿っていて、粒子が細かい。けれど、命を育む力は同じだった。爪の間に入り込む土の感触が、故郷を思い出させた。
庭園管理を申し出たとき、宮殿の管理官は面食らっていた。皇子妃が土いじり。前例がない。けれど、わたしの知識——谷間の国で学んだ地上の植物学——は、この国の誰も持っていなかった。
「セリア様は、翼があるのに、なぜ地面にいるんですか」
庭の手入れを手伝ってくれる若い使用人が、不思議そうに訊ねた。背中の翼を畳んだまま、腰を曲げて草を抜くわたしを、怪訝な顔で見ている。
「翼があるからって、空にしかいちゃいけない理由はないでしょう。わたしは地面も好きなの」
使用人は首を傾げたが、わたしが植えた花が一週間で芽を出したとき、目を丸くしていた。空の国では、地面に根を張る植物を育てる技術が失われていた。翼を持つ人々は、空の花ばかりを愛でて、足元の土を忘れていた。
小さな芽が土を割って出てきたとき、わたしは膝をついたまま、しばらく見つめていた。緑の先端が日の光を受けて透き通っている。芽の根元には、朝露が一粒残っていて、光を受けてきらりと光った。この芽は、わたしが故郷から持ってきた知識で育った。空の土と、地上の知恵と。故郷で覚えた植え方——種を蒔く深さ、水をやる量、日当たりの加減——が、空の国の土でも通用した。命を育む方法は、地上でも空でも、根本は同じだった。
「翼がないからできること」と「翼があるからできること」。その両方を持っているのは、この国でわたしだけだ。
谷間の国で育ち、地上の知恵を身につけ、崖を駆けて足腰を鍛えた。空の国に嫁いで、翼を得て、空を飛べるようになった。どちらの経験も欠けていたら、今のわたしはいない。翼がなかった過去は、弱さではなく、もう一つの強みだった。
それが、わたしの居場所の作り方だった。誰かに与えられた場所ではなく、自分の手で土を耕して作った場所。
◇
庭仕事の後、テラスで遅い昼食を取っていると、リーナがこちらの手を見て眉を寄せた。
「セリア様、指先が荒れてます。軟膏を塗りましょう」
「大丈夫よ。故郷ではもっとひどかったわ」
「でも、今夜は——」
リーナが言いかけて止めた。何かを考えている顔。
「今夜?」
「あ、いえ、何でもありません」
リーナの琥珀色の瞳がきらりと光った。何か隠している。けれど、悪い隠し事ではなさそうだった。この子の小さな翼が、少し嬉しそうに揺れているのが見えたから。
夕方になると、理由が分かった。
◇
夕暮れ時。エリオット様がわたしの部屋に現れた。
「飛ぼう」
一言だけ。わたしは頷いた。リーナが背後でにやにやしていたのは、見なかったことにした。
宮殿の最上階のバルコニー。わたしがエリオット様と初めて飛んだ、あのバルコニーだった。手すりの石は夕陽に温められて、触れると掌が温かくなる。
あの夜と同じように、雲海が桃色に染まっている。あの夜と同じ場所に、わたしたちは立っていた。けれど、全てが違っていた。
あの夜、わたしは翼が生えたばかりで、何もかもが初めてだった。エリオット様が手を引いてくれなければ、飛び立てなかった。
今日は、自分の足で手すりを蹴った。
風を読む。左から緩やかな上昇気流。右に横風。翼を開く角度を調整して、身体を預ける。足が石を離れた瞬間の、あの浮遊感。もう恐怖はない。自由の感覚だけがある。
エリオット様が隣に並んだ。二対の銀色の翼が、夕陽を受けて輝く。風が同じリズムで翼を押し上げた。
並んで飛んだ。どちらが前でも後ろでもなく、肩を並べて。ぎこちなさは、もうどこにもなかった。風が二人の翼を同時に鳴らして、低い和音のような音を立てた。
雲海の端が桃色から紫に変わり始めた。遠くに、地上の山脈の影が見えた。わたしの故郷がある方角。
「セリア」
風の中で、エリオット様が呼んだ。
「何ですか」
「あの日、ここで初めて飛んだとき、私は君が恐怖で身がすくむのではないかと心配していた」
「わたしは崖を駆けた娘ですよ。高いところは慣れています」
「そうだったな」
エリオット様が笑った。風に髪が流れて、空色の瞳が夕陽を受けて金色に光っていた。
「あの日から、私の世界は変わった。独りで飛ぶことが当たり前だった空が、君と飛ぶ空になった」
わたしの翼が、嬉しさで大きく広がった。エリオット様の感情が、翼の付け根から伝わってくる。柔らかく、深く、確かな温もり。夕陽の暖かさとは違う、もっと内側から来る熱。
「殿下」
「エリオットでいい。二人きりのときは」
その言葉に、翼の付け根が温かくなった。距離を縮めようとしている。この人なりの、精一杯の一歩。
「……エリオット様」
「『様』は取ってほしいんだが」
「もう少しだけ、待ってください。そのうち慣れますから」
エリオット様が肩を竦めて、笑った。翼がわずかに照れたように縮んで、すぐにまた広がった。
二人で螺旋を描いて降りた。バルコニーに降り立ち、翼を畳む。夕陽が沈みかけ、星が一つ、二つと現れていた。夕風が冷たくなり、肌に鳥肌が立った。けれど、身体の奥は温かかった。
エリオット様が、急に真剣な顔になった。笑みが消え、目に影が差した。翼の付け根から伝わる感情が、急に重くなった。
「セリア」
「はい」
「大切な話がある」
わたしは身構えた。エリオット様の翼の付け根から伝わる感情が、変わった。温もりの奥に、重い何かが沈んでいる。罪悪感に似た、苦い感情。沈殿物のように底に溜まった、隠し続けてきたもの。
「双翼の契約には、まだ君に話していないことがある」
風が止んだ。バルコニーの空気が、急に冷えた気がした。夕闇が濃くなり、エリオット様の横顔が影に沈んでいく。
「書庫で調べていたのは、翼を安定させる方法だけじゃなかったんだ。百年前の契約者が——翼と引き換えに——何を失ったのか。その記録を、私は読んでしまった」
エリオット様の空色の瞳が、夕闇の中で揺れていた。あの書庫で見せた弱さよりも、もっと深い場所にある感情が、滲んでいた。瞳の奥に、恐怖がある。わたしを見つめながら、わたしに見せることを恐れている。
「失ったもの……」
「明日、全て話す。今夜は——もう少しだけ、この空を覚えていてほしい」
その最後の一言が、妙にひっかかった。「覚えていてほしい」。なぜ、そんな言い方をするのだろう。覚えている、というのは、忘れる可能性がある、ということだ。
星が増えていく。雲海が紫から黒へと沈んでいく。わたしはエリオット様の横顔を見つめながら、胸の奥で、小さな嵐の予感を聞いていた。
翼の付け根に残るエリオット様の感情は、苦くて、冷たくて、けれど底の方にかすかな祈りのようなものがあった。