第11話
第11話「告白、そして代償」
# 第11話「告白、そして代償」
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エリオット様は、約束通り、翌朝来た。
わたしは夜明け前から起きていた。眠れなかったわけではない。眠りたくなかった。夢の中で、昨夜エリオット様が言いかけた言葉の続きを想像するのが怖かった。想像するより、本人の口から聞いた方がいい。怖いけれど、怖さを先送りにする方がもっと怖い。
部屋の椅子に座るのではなく、バルコニーに出て、手すりに背を預けた。朝の光が銀色の髪を白く照らし、空色の瞳は雲海を見つめている。翼は畳まれていたが、付け根のあたりが微かに震えていた。小刻みに、間断なく。眠れなかったのだろう。目の下の隈が昨日より濃くなっていた。
朝の空気はいつもと同じはずだった。鋭くて、薄くて、乾いていて、鼻の奥が痺れる空の国の朝。けれど今朝は、その冷たさが骨の芯まで沁みた。
わたしはエリオット様の向かいに立った。翼の付け根が伝える感情は、重く、冷たかった。覚悟の温度。何かを告げる前の、最後の息を溜めるような張りつめた感情。
「話してください」
わたしの声は静かだった。
エリオット様は目を閉じた。睫毛の影が頬に落ちた。それから、静かに話し始めた。
「双翼の契約が完全に成就すると——翼が完全に定着した後に——契約者は、地上の記憶を失う」
言葉の一つ一つが、石を落とすように、わたしの中に沈んでいった。重い。冷たい。底なしの水に沈む石の音がした。
「地上の……記憶」
「故郷の景色。家族の顔。自分が地上にいた頃の、全ての記憶。翼が定着するにつれて、少しずつ、薄れていく。最初は些細なこと。花の名前を忘れる。道の曲がり角が思い出せなくなる。それが進むと、人の顔が消え、声が消え、やがて——」
「——故郷にいた自分自身を、忘れる」
エリオット様が頷いた。その動きはゆっくりで、首が重りを下げているように見えた。
「百年前の契約者、騎士ガイウスは、翼が定着して三ヶ月で、自分の生まれた村の名前を忘れた。半年で、家族の顔が分からなくなった。一年後には、自分が地上の人間だったことすら覚えていなかった」
空気が、凍りついた気がした。朝の風がバルコニーを吹き抜けたが、肌が感じ取ったのは冷気ではなく、もっと深い場所にある恐怖だった。膝の力が一瞬抜けかけた。手すりを掴んだ。石の冷たさが掌に食い込んだ。
わたしの頭の中を、故郷の映像が駆け抜けた。谷間の国。赤い屋根の家。崖から見下ろす谷底の川。朝靄の中で鷹が旋回する空。母が編んでくれた草冠。草の匂いがした。指で茎を折ったときの、青くて苦い匂い。父が崖の走り方を教えてくれた、あの風の強い日。足の裏に感じた岩の感触。母の手の温もり。夕暮れの崖で食べたパンの味。硬い外皮を噛み割ると、中は柔らかくて、母が練り込んだ蜂蜜がほのかに香った。
一つ一つが、鮮やかに浮かんだ。失うことの恐怖が、逆に記憶を研ぎ澄ませていた。今この瞬間は全部覚えている。全部。けれど——
それが、消える。
「なぜ——今まで、黙っていたんですか」
声が震えた。怒りではない。もっと深い場所から湧く、名前のない感情。恐怖と悲しみと、裏切られた痛みが混じった、熱い塊。
「言えなかった」
エリオット様の声も震えていた。翼の付け根から、罪悪感の濁流が流れ込んできた。
「契約が発動した夜、君が泣きながら笑っていたのを見て——あの瞬間に、言えなかった。翼が消えたり現れたりして、君が必死で戦っていたときに——言えなかった。検証の儀で命がけで飛んだ君に——言えるわけがなかった」
エリオット様の手が握りしめられ、指の関節が白くなっていた。手の甲に青い血管が浮いている。爪が掌に食い込んでいるのが見えた。自分を罰するように。
「私は最初から知っていた。契約を発動させる前から。書庫で調べて、代償のことを知っていて——それでも、君の背中に手を当ててしまった。あの夕陽の中で、君の隣に立ちたかった。それが、どれほど身勝手なことか、分かっている」
わたしの翼が、無意識にぎゅっと身体に密着した。恐怖と悲しみを拾って、自分を守るように縮んでいる。羽根の先端が微かに震えている。
「殿下は——いえ」
わたしは深く息を吸った。空の国の冷たい空気が、肺の底まで染み渡った。その冷たさで、頭が少しだけ冴えた。
「あなたは、書庫に通っていたのは、代償を避ける方法を探すためだったんですね」
エリオット様が顔を上げた。目が赤くなっている。
「そうだ。契約を解除する方法か、代償を消す方法か。どちらかを見つけてから、君に話すつもりだった。けれど、どちらも——まだ、見つかっていない」
長い沈黙が落ちた。
朝風がバルコニーを吹き抜けた。雲海がゆっくりと流れている。あの雲海の甘い匂いが、微かに鼻に届いた。夕陽のときとは違う、朝の雲の匂い。露を含んだ、淡い甘さ。この匂いすら、いつか忘れるのだろうか。
「怒っていいですか」
わたしの声は、思ったよりも落ち着いていた。怒りが声を安定させていた。怒りには力がある。恐怖で崩れかけた足元を、怒りが支えてくれる。
「怒ってくれ」
「怒っています。黙っていたことに。知っていて契約を発動させたことに。わたしに選ぶ機会を与えなかったことに」
エリオット様が唇を噛んだ。唇に血が滲みそうなほど強く。
「けれど」
わたしはエリオット様の目を見た。
「あの夕陽の中で、あなたの手が背中に触れた瞬間のことを、わたしは忘れていません。あなたが震えていたことも。呪文を唱える声が途切れがちだったことも。あなたは、身勝手なだけの人ではない。怖かったはずです。わたし以上に」
エリオット様の目から、涙がこぼれた。頬を伝い、顎の先で光って落ちた。声もなく。
「……ああ。怖かった。今も、怖い」
わたしは手を伸ばして、エリオット様の涙を指先で拭った。頬が冷たかった。翼の付け根を通じて、エリオット様の感情がなだれ込んできた。後悔。罪悪感。そして、その奥底にある、わたしを失いたくないという、切実な願い。その感情の熱量に、わたしの目も熱くなった。
「方法を探しましょう。一緒に」
わたしの声は震えなかった。怒りが声を支えてくれていた。エリオット様への怒りではない。代償という理不尽な仕組みへの怒り。百年前のガイウスに同じ苦しみを味わわせた、この契約の構造への怒り。
「封印された部屋。百年前の記録。まだ調べていないものがあるはずです。わたしの記憶を守る方法を、二人で見つけます」
エリオット様が、ゆっくりと頷いた。涙の跡が朝陽に光っていた。頬を伝った涙が、顎の先で止まって、陽光を受けて小さな宝石のように輝いた。この人の涙を見るのは、これで二度目だった。一度目は書庫で。二度目が、今朝。
わたしはその涙の光を目に焼き付けた。忘れないために。もし代償が進んでも、この瞬間だけは忘れたくないと思った。
◇
その夜、わたしは部屋の灯りを消して、一人きりの暗い寝台に横になった。翼が背中に畳まれている。その重みが、いつもと違って感じた。愛しいはずの重みが、今は少しだけ、重荷に似ていた。
故郷を思い出そうとした。
母の顔。はっきりと浮かぶ。丸い輪郭に、わたしと同じ茶色の瞳。笑うと目尻に皺ができる。唇が薄くて、口角が少し上がっている。
父の声。低くて太い、崖の風にも負けない声。「セリア、背筋を伸ばせ。風に向かって走れ」。
谷底の川の音。さらさらという水の音。夕方になると、崖の影が川面に落ちて、水面が金と黒の縞模様になった。
幼い日に摘んだ、名前も知らない白い花。母が「それはマルーラよ」と教えてくれた。
マルーラ。白い花弁が五枚、黄色い花芯。甘い匂い。花弁の裏側に細い筋が入っていて、陽に透かすと血管のように見えた。
今はまだ、全部、覚えている。花弁の筋まで。川の音まで。母の目尻の皺まで。
けれど。
いつか、マルーラの名前が出てこなくなる。白い花だったことだけ覚えていて、名前が消える。そのうち花の形も消えて、最後には、花を摘んだこと自体を忘れる。
母の笑顔が、ぼやける日が来る。父の声が、聞こえなくなる日が来る。
わたしは暗闇の中で、自分の背中の翼に手を伸ばした。銀色の羽根が、指先に触れた。温かい。この翼を得た代わりに、故郷を失う。
「忘れたくない」
呟いた声が、暗い部屋の闇に吸い込まれた。
翼が、悲しみに応えるように、小さく震えた。羽根の一枚が、枕の上に落ちた。銀色の羽根が、月の光を受けてかすかに光っていた。前に翼が消えたとき、枕に残っていた一枚に似ていた。けれど今度は、翼は消えていない。消えていないのに、羽根が落ちる。意味が分からなかった。不安が、指先から全身に広がった。
その羽根を拾い上げた。温かい。まだ温かい。握りしめたまま、目を閉じた。