第3話
第3話
扉の内側は、思ったより静かだった。 いや、静かなのではない。音が、層になっている。羽根ペンを走らせる紙の擦過音、奥のテーブルで剣の鞘を磨く布の摩擦、暖炉で爆ぜる薪、誰かの欠伸、低い笑い声。それらが石壁に反響して、ひとつの厚みを持った沈黙を作っていた。 受付の女が、顔を上げた。 二十二、三歳。栗色の三つ編みを、左肩から胸の前に流している。耳の下に小さな黒子。爪は短く、薬指の先にインクの染みが二点。声を出す前に、まず目で挨拶を済ませる種類の人間だった。 「ようこそ、リードリア支部へ」 「登録を、頼みたい」 「お二人とも、初めてですか」 「俺だけ。彼女は、護衛だ」 女の視線が、リィンの剣に触れて、それから無表情に戻った。一拍、判断の時間。やがて頷き、革表紙の台帳を引き寄せる。インク壺の蓋を開ける指先が、わずかに震えていた。寒さでは、ない。 「お名前を、こちらに」 差し出された羽根ペンを、俺はすぐには受け取らなかった。視界の縁で、靄がもう厚みを増している。営業時代の癖で、相手の所作だけは追ってしまう。インクの染みの位置、台帳を捲る指の角度、首筋に浮いた細い血管。観測の前段階の観察が、勝手に走り出している。 ──【観測】、受付嬢。 心の中で、唱えた。 こめかみの奥が、鈍く疼いた。
灰色の靄が、女の輪郭を縁取って、それから内側へ流れ込む。 過去──ミーナ・カラスト。二十三歳。北部山岳の村に生まれ、十四で母を流行り病で失い、十六で街に出た。冒険者を志して登録し、三度の依頼で挫けて、受付に転向。台帳を捲る指が早いのは、その頃に身につけた癖だ。 現在──月給、銀貨七枚。弟への仕送りに四枚。残った三枚で、安宿と黒パンと、たまの蜂蜜。寝ている同僚が一人。本気ではない、と本人も承知している。 ──ここまでは、いい。 昨夜の宿の親父と、同じ温度の情報だった。視るに堪える。視たところで、心臓が動揺するような中身ではない。 問題は、その先だった。 未来──三年後の冬。 彼女は、同じカウンターの内側で、刺されている。 刃は短い。隠し持てる類いのナイフ。刺したのは、横で笑っている男ではない。寝ている男でもない。別の、まだ顔の見えない誰か。背中の中央から斜め上、肺の根元へ向けて一突き。手慣れた殺し方だった。刺し手は刃を抜かない。抜けば自分の袖口に飛沫が散る。柄頭だけを押し込むようにして、刃は彼女の背中に置き土産として残される。プロの判断だった。彼女は声を上げる前に膝を折って、台帳の上に右頬を伏せる。インクの染みが、薬指の先からカウンターの木目に沿って、細く滲んでいく──暖炉の薪が、視界の遠くで爆ぜる。誰も、まだ気づいていない。気づくのは、隣の同僚が彼女の沈黙を不審に思って肩を揺すった、その瞬間。窓の外では、雪が、無音で降り始めていた。三年分の積雪が、たった一瞬の沈黙の中に、降り積もろうとしている── 視界が、戻った。 羽根ペンを差し出したまま、ミーナはまだ俺の手元を待っている。たかが数秒。脳の中だけで、三年が圧縮されて流れた。 喉の奥が、乾いた。 昨日まで、俺は誤解していた。【観測者】の未来予測は、宿の親父の三日後のような、せいぜい数日先までの近接した出来事だけを視せるのだと。違った。三年でも、視える。たぶん十年でも、視える。 ──過去だけでなく、未来まで、こうも鮮明に。 そして、視た以上は、もう、知らない俺には戻れない。 「あの……ご気分が、優れませんか」 ミーナが、わずかに身を引いた。俺の沈黙が長すぎたらしい。 「いや。すまない。佐倉透。十六歳。職能は──そうだな、相談役と、書いてくれ」 「相談、役」 羽根ペンが、紙の上で一瞬迷う。彼女の眉が、ほんの少し寄った。 「珍しいですね。普通は、剣士か、魔導師か、斥候か」 「俺はどれでもない。その代わり、人を視るのが、少しだけ得意だ」 「視る、と仰いますと」 「他人の事情に、首を突っ込むのが仕事だ」 ミーナは、笑わなかった。冗談として処理しかけて、踏みとどまった顔だった。栗色の睫毛が一度伏せられて、それから台帳に文字が走る。佐倉、透、相談役。インクが乾く前に、彼女は薄い銀のプレートを台帳の脇から取り出した。 「F級の認識票です。なくさないでください」 差し出された金属を、指先で受け取る。冷たかった。三年後、この指が震えながら短刀を抜こうとして、間に合わない瞬間が、俺の頭の中にまだ残像として残っている。残像は、薄れない。むしろ、輪郭をはっきりさせて、こちらの記憶域に居座ろうとしている。 ──視たから、知っている。 知ったから、無関係では、もう、いられない。
受付を離れて、酒場側の奥に進んだ。 昼前から、すでに椅子は半分以上埋まっている。革鎧の男が三人、背中合わせのテーブルで、樽形のジョッキを傾けている。そのうち一人だけ、声が大きい。三十前。鼻梁の右側が、過去に何度も折られて曲がったまま固まっている。袖口から覗いた前腕に、安物の入墨。剣の柄頭は、握りすぎて革が剥げていた。 俺は、空いていた窓際の席に着いた。リィンが向かいに座る。彼女の銀髪が、午前の光を受けて、やけに白い。 「ご主人様。お顔の色が」 「視た」 「受付の方を、ですか」 「三年後、刺される」 短く言うと、リィンは視線を窓の外にやった。沈黙で、呑み込んでくれている。彼女の中の業務分担では、三年後の話は今日の項目には入らない。賢い、というより、優しい。 「もう一度、視させてくれ」 「対象を」 「あの、声の大きい男だ」 顎で示すと、リィンの瞳が一拍、男の輪郭を撫でた。剣の柄に置かれた指が、ほんの僅かに動いた。承知、の合図だった。 ──【観測】、声の大きい男。 こめかみの奥が、今日の三度目で、明確に痛んだ。針ではなく、すでに鈍器の感触に近い。それでも靄は、躊躇なく男の輪郭に流れ込んでいく。 過去──ボラン。二十九歳。傭兵崩れ。三年前にこの街に流れ着き、ギルドで小銭を稼いでいる。先月、裏の賭場で銀貨四十枚を借りた。返す当ては、ない。 現在──ジョッキの中身は、薄めた麦酒。懐の銅貨は、八枚。 未来──今夜。 深夜、宿に戻る道、四つ辻の手前で、三人組に囲まれる。賭場の取り立て。フード、布で覆った口元。ナイフが先に出る。ボランは剣を抜く時間を貰えない。一人目の刃が、左の脇腹を抉る。二人目が、首の右側を裂く。三人目は、もう必要ない。月のない夜。血が、石畳の溝に沿って細く流れていく──溝の先には、雨水を集める格子の蓋がある。血は格子の隙間を抜けて、地下水路に吸い込まれていく。朝、清掃の老婆が石畳の染みに気づいて、軽く首を振るだけで終わる。死体は夜のうちに、賭場の手の者が片付けている── 視えた。 昨日の宿の親父より、ずっと鮮明に。色まで視えた。男のジョッキの泡が、視界の手前で、じわりと崩れていく。 偶然ではなかった。 【観測者】は、本当に、未来を視せている。受付嬢の三年後と、ボランの今夜と、宿の親父の三日後。距離も、深度も、関係なく、同じ精度で。 俺は、ジョッキの男から、目を逸らした。逸らしてから、もう一度、視直した。視直しても、未来の輪郭は揺らがなかった。色も、温度も、音の重なりまで、寸分変わらなかった。介入しなければ、彼は今夜、死ぬ。 「ご主人様」 「分かってる」 声が、自分のものとは思えないくらい平坦に出た。 介入次第で、書き換えは可能。女神は、たしかにそう言った。介入しろ、ということだ。視るだけで終わらせるな、と。
俺は、立ち上がった。 椅子の脚が、石床を浅く擦った。店内の音の層が、わずかに薄くなった気がした。気のせい、かもしれない。リィンが、剣の柄から手を離さずに、俺と一緒に立つ。 ボランの席まで、五歩。 歩きながら、頭の中で台詞を組む。営業時代と、同じ手順だ。前職の俺なら、こういう時、まず相手の沈黙を一つ買う。値踏みされる前に、こちらから価値を提示する。情報の鮮度と、伝達の精度。それが、商品だった。今日は、商品が、命だ。最短で信用させる言葉、最短で警戒を抜く間合い、最短で相手の損得勘定を揺らす数字。十六歳の若造が、三十前の傭兵崩れに、今夜の死を伝える。普通なら、笑われて終わる商談だ。 四歩目で、ボランがこちらに気づいた。鼻梁の曲がった顔が、不機嫌に持ち上がる。 「なんだ、ガキ」 五歩目を、踏んだ。 ──視たから、知っている。 俺は、息をひとつ整えて、相談役としての最初の一言を、口の中で静かに温めた。