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観測者の俺と最強の護衛

第2話 第2話

第2話

第2話

「兄ちゃん、起きたか。朝飯、何にする」  磨いたグラスを拭くグレンの太い指は、関節が二箇所、外側に曲がっている。【観測】が視せた七年前の喧嘩の痕だ。木のカウンターに肘を載せて、人懐こく笑う。三日後にこの男は殺される。視ているのは、すでにそういう個体だ。 「黒パンと、卵があれば」 「あいよ。そっちの嬢ちゃんは」 「同じものを」  リィンは俺の隣の丸椅子に、剣を抱えたまま腰を下ろした。腰までの銀髪が、椅子の背を伝って床に届きそうになる。  ──さて、どうする。  観測した未来を、本人に伝えるか否か。営業時代の鉄則が頭をよぎった。相手の損になる情報は、確証を取ってから出す。今、確証はある。【観測者】は、確証そのものだ。 「親父さん」 「あ?」 「最近、街で揉めごとは」 「あー、まあな。三軒先の麦倉が、先月やられたよ。盗賊団ってほど立派でもねえ、食い詰めの三人組だ。衛兵は隣の領で揉めてて、こっちまで手が回らねえ」  肩を竦める仕草が、視えた未来と矛盾しない。 「親父さん。三日後の昼、店を閉めるか、衛兵を一人立てておいてくれ」  磨いていたグラスが、手の中で止まった。 「兄ちゃん、何の話だ」 「勘だ。外れたら、笑ってくれていい」  グレンの目が細くなる。十六、七の若造が言うには、たしかに重すぎる。だが俺は、目を逸らさなかった。営業先で値引きを切り出す時の顔──あれだけは、前世から手放せていない。 「……覚えとくよ」  短い沈黙が落ちて、それから親父はグラスを置いた。厨房の奥から、卵を割る音がひとつ、こん、と鳴る。薪の爆ぜる微かな音と、獣脂の焼ける匂いが、後を追うように厨房から漂ってきた。窓の隙間から差し込む朝の光が、カウンターの木目を斜めに横切って、磨かれたグラスの底で淡く屈折している。

 黒パンは、硬かった。  歯で千切るというより、噛み割る。表面はざらつき、内側は酸っぱい。前世のコンビニで売っていた全粒粉のライ麦より、はるかに原始的な味だ。卵は半熟で、塩が粗い。黄身は、箸の先ほどの厚みで皮が張っている。崩すと、とろりとした金色が皿に流れて、黒パンの硬い断面にじわりと染み込んでいった。塩の粒は不揃いで、噛むたびに、海というより岩を舐めたような塩気が舌の奥に広がる。リィンは小指の先で塩を掬って、丁寧に黒パンに振りかけている。白い指先が、まるで粒の数を数えるように動いていた。所作だけは、どこかの令嬢のようだった。 「ご主人様。本日のご予定は」 「街を見て回る。それから、冒険者ギルドの登録」 「承知いたしました」  立ち上がりかけて、俺はグレンの前の木の皿に視線を落とした。代金、と言葉が浮かんで気づく。財布がない。革鞄も、もちろん丸の内の横断歩道に置いてきた。  ──そもそも、この世界の通貨は。 「リィン」 「銅貨が二枚で、朝食一人分でございます。当面は、私の方で立て替えます」  彼女が革袋を差し出すと、中で硬貨が乾いた音を立てた。覗き込むと、銅貨、銀貨、それから一枚だけ金貨。意匠は素朴で、表に剣と杯、裏に読めない文字。 「これは、女神様の支度金か」 「いえ。私が前職で蓄えた分です」 「前職」 「お気になさらず」  淡々と返してきた。視ようとしても、リィンには【観測】が通らない。最強の護衛、の意味が、こういう所で牙を剥く。

 路地に出ると、朝の風が冷たかった。  石畳は濡れていた。昨夜の雨か、それとも井戸水を撒いたのか。荷馬車を引く爺さんが、緑色の塊を山積みにして通り過ぎていく。よく見れば、ただのキャベツだ。葉脈が太く、巻きが緩い。前世の農協で見たそれより、二回りほど大きい。荷車の木の車輪が石畳を踏むたび、ごとり、ごとり、と低く重い音が腹の底に響いた。  通りの両脇に並ぶ軒先には、絵の看板が掛かっている。蹄鉄、パン、剣と槍。識字率が低い世界では、絵がインフラだ。前世で広告屋をやっていた身として、シンボル設計の妙に、つい目が止まる。剣と槍の比率、影の角度、地色の選択──仕事を辞めても、目だけは仕事を覚えていた。 「ご主人様、こちらの果物屋でございます」  リィンが指したのは、木の台の上に赤い実を積んだ屋台だった。林檎に似ているが、皮の表面に細かい産毛がある。 「銅貨一枚で、二つ」  売り子の婆さんが、皺だらけの指を立てる。歯はもう半分以上抜けていて、笑うたびに上唇の裏が薄く見えた。リィンが銅貨を渡すと、婆さんは指の腹で何度も貨幣を撫でた。ああ、と俺は理解する。重さで贋金を見分けている。前世のレジが札の感触を確かめるのと、同じ動作だ。  果実を齧ると、甘味より先に青臭さが鼻に抜けた。けれど後味は悪くない。喉の奥で、汁がうっすら酸っぱい。歯に残る皮の産毛が、舌先でちりちりと擦れた。 「ご主人様。剣の握り方は、ご存知で?」  歩きながら、リィンが唐突に問うてきた。 「いや、まったく」 「弓は」 「弓道部の入部届を、書く前に辞めた」 「魔法は」 「呪文を、口に出すのが恥ずかしくて」  リィンが、ふっと小さく笑う。表情が変わるのは、初めて視た。 「では、ご主人様の戦闘力は」 「ゼロだ」 「結構でございます」  即答だった。むしろ、それを確認したくて並べてきた質問らしい。 「ゼロでいい、と」 「私が斬ります。ご主人様は、視るだけで」  言葉に迷いがない。プレゼンで言うところの、上司決裁済みの台詞。彼女の中ではすでに、業務分担が完了している。  ──分業。悪くない。前世の職場で、唯一機能していた概念だ。

 冒険者ギルドは、街の中央広場に面した、石造りの三階建てだった。  扉は両開きの樫の木に、鉄の鋲。脇には、過去にこの場で折れた剣を埋め込んだ記念碑が立つ、とリィンが歩きながら説明する。  広場の中央には、石の井戸。水汲みの順を待つ女たちが、四、五人。籠を肩に提げた男が、井戸の縁に手を掛けて、欠伸を一つ。  ──試しに。  通りかかった籠売りの男に、意識を向けた。  【観測】、籠売り。  灰色の靄が、視界の隅で淡く揺れる。  過去──三十二年、北の村で生まれ、旱魃で家を売って街に流れた。  現在──籠職人として、月に銅貨百二十枚の稼ぎ。  未来──二年後、同じ広場で孫を抱く。  穏やかな未来だった。介入の余地もない。視終えた瞬間、こめかみの奥に、薄い針で突かれたような疼きが走る。女神の言葉が頭をよぎる。一日に三、四回。乱用は頭蓋に負担がかかる。  ──負担、というのは、こういう触感か。  前世の体力配分と同じ要領で扱う、と心のメモに書き留める。 「ご主人様。あちらが、ギルドでございます」  リィンが視線で示した先、扉の前に短い行列。剣を腰に下げた男が二人、肩を組んで笑っている。袖口の摩耗は、革鎧を擦り続けた者の癖だ。後ろに並ぶ若い男は、握った拳が震えている。たぶん、登録初日。  俺は、列の最後尾に並んだ。

 順番が来た。  手のひらを、樫の扉に当てる──その瞬間。  こめかみの奥が、先ほどとは違う種類で、疼いた。  針ではなかった。鈍い、太い指で内側から押されるような圧。視界の縁が灰色に染まり、まだ何も視ていないのに、靄が勝手に厚みを増していく。鼓動が一拍、跳ねた。喉の奥が、わずかに乾く。指先に当てた扉の木目が、急に体温を持ったように、じわりと熱を返してきた。  ──視ろ、と促されている。  【観測者】が、扉の向こうに反応している。誰か、あるいは何か、視るべき対象が、そこにいる。 「ご主人様、お引きになりますか」  リィンの指が、剣の柄にそっと添えられた。彼女もまた、何かを察している。 「いや」  息を、ひとつ整える。営業時代、難物の商談に入る前のあの呼吸だ。鼻から細く吸い、腹の底で五つ数え、口から長く吐く。手のひらの汗を、太腿の生地で目立たないように拭った。 「視るために、来た」  ──腹を、決める。  視るために、視るために、ここまで連れて来られた。視ないで帰る選択肢は、最初から無い。三日後の親父の件は、ただの肩慣らしだ。本番は、たぶんこの扉の向こうから始まる。前世で何度も繰り返した、商談相手の部屋の前で背筋を伸ばすあの動作を、無意識に体が覚えていた。  リィンの指は、まだ柄から離れない。彼女の視線が、俺の横顔を一秒だけ撫でて、それから扉に戻る。 「お引きにならないなら、お引きにならない理由を、私は信じます」  短い、けれど揺らぎのない肯定だった。  扉を、押した。樫の重みが、思ったより素直に内側へ倒れる。蝶番が、低く軋んだ。革と金属と、人いきれの混ざった、独特の温度の空気が、内側から押し寄せてくる。光の角度が変わる。天井から吊られた燭台の蝋が、ひとつ、ぱちりと爆ぜた。受付の奥、長椅子の上で羽根ペンを走らせる女の輪郭が、灰色の靄越しに、ぼんやりと浮かび上がった。  その肩のあたりだけが、奇妙にゆらいでいる。靄ではない、別の何か。【観測者】が、まだ視ろと俺を急かしていた。こめかみの奥で、針でも指でもない、もうひとつ別の感触が、ゆっくりと芽を出していくのが分かった。

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