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観測者の俺と最強の護衛

第1話 第1話

第1話

第1話

横断歩道のアスファルトに、肺の中の空気が一瞬で吐き出された。  鉄とゴムの匂いがして、視界の端で信号機の青がやけに鮮明に光る。トラックのフロントグリルが、右肩から背骨を真上に圧し折る感触は、痛みというより「物理現象」だった。骨が砕ける音は、確かに自分の中から聞こえたのに、どこか遠い。膝が逆に折れ、革靴の踵がアスファルトを擦る。コンビニ袋の中で、温まった弁当の汁が漏れて、手の甲に熱かった。  ──ああ、終わった。  二十八年と六ヶ月の人生が、深夜二時十七分、丸の内三丁目の横断歩道で打ち切られる。最後に視たのは、運転席で船を漕いでいたスーツのオッサンの、こけた頬。  残業七十二時間。三日連続の徹夜明け。月末の納品書が、革鞄の中でぐしゃりと潰れていく。  佐倉透。広告代理店の営業職。プレゼン資料の角は誰よりも揃えていたし、コンビニ弁当の温め時間も、五百ワット五十秒で正確に管理していた。それだけが取り柄の男だった。

 ──気がつくと、白い空間に立っていた。  床も天井も、奥行きすらない。ただ、足の裏には何かが在る感覚だけがある。 「お久しぶりです、佐倉透さん」  振り向くと、銀の髪を腰まで垂らした女がいた。神々しい、と言うには、どこか事務的すぎる微笑みだ。 「久しぶり、と言うほど会った覚えは……」 「私はあなたを、二十八年と六ヶ月、ずっと拝見していましたから」  ──なるほど。これは、そういう類いの場所か。  痛みはなかった。先ほどまであった右肩の鈍さも、肺の灼熱も、全部きれいに消えている。代わりに、足元の白が冷たい。氷ではない。冷蔵倉庫に裸足で立たされた時の、芯まで届く類いの冷たさだ。 「女神様、と呼べば、よろしいので?」 「肩書きは何でも構いませんが、業務上はそう呼ばれることが多いですね」  ──業務、と言った。  やはり事務員だ。

「単刀直入に伺います。俺、これから、どうなりますか」 「結論から申し上げます。あなたは、死にました」  女神は手元から羊皮紙の束を取り出した。書類仕事に慣れすぎている動作だ。 「労働基準法違反の現場でしたが、所轄外なので関知しません」 「身も蓋もないな……」 「ですので、転生の権利が発生します。スキルを一つ、お選びください」  目の前にリストが浮かんだ。  【剣聖】【賢者】【聖者】【勇者】【魔王候補】──煌びやかな名前が、金の縁取りで並んでいる。  末尾の方に、灰色で半分潰れた文字があった。  【観測者】──対象の経歴・現在の才能・辿るはずの未来の流れを視る。戦闘力なし。 「これだけ、随分と地味だが」 「不人気枠です。直近百年で、選んだ方はゼロです」 「逆に気になる」  俺は前世で、データだけを信じてきた。プレゼンが通るかどうかは、相手のSNS、過去の決裁傾向、商談中の表情筋の動き──観測できる材料が多いほど勝率は上がる。【剣聖】を選んだところで、剣の握り方すら知らない男が一夜で達人になるとは到底思えない。それなら、自分の生き方の延長線上にある力の方が、まだ手懐けやすい。  それに、と内側で付け加える。  ──二十八年生きて、結局、誰の人生も覗けなかった。同期の本心も、得意先の腹の底も。  観測者、という名前は、どこか俺自身への、遅すぎる就職通知のようだった。 「これにする」 「……本当に、よろしいので?」  女神の事務的な微笑みが、ほんの一瞬だけ崩れた。 「戦闘力ゼロですよ。あなたが向かうのはヴァルディア大陸。剣と魔法と、盗賊団とスライムと、ついでに古竜の巣もある世界です。遠慮なく、あなたを殺しに来ます」 「補償は?」 「補償?」 「ゼロのスキルを選ばせるなら、何かあるだろう。前世の俺なら、こういう契約には必ず但し書きを付けた」  女神は数秒、羊皮紙を睨んだ。それから、ふっと小さく息を吐く。 「……いいでしょう。最強の護衛を、一名お付けします」 「最強の?」 「ええ。少なくともあの大陸の地表で、剣を抜いて勝てる者はおりません」  即決即断の取引だった。広告代理店の上司よりも、よほど話が早い。 「ひとつ、確認」 「はい」 「【観測者】は、どこまで視える」 「対象に意識を向け、心の中で唱えてください。経歴、現在の才能、そして──辿るはずの未来。ただし未来は確定ではなく『現状の流れの先』です。介入次第で、書き換えは可能です」  ──介入次第で、書き換え可能。  なるほど。地味どころか、これは、人の運命を弄れる類いの権能か。  静かに、口角が動いたのが分かった。営業時代、難物の決裁ラインが見えた瞬間に出る、あの表情だ。 「使用回数は」 「初級は一日に三、四回程度。乱用はお控えください。ご主人様の頭蓋に負担がかかります」 「了解」 「補足を一つ。ヴァルディア大陸では冒険者ギルド制度が機能しています。あなたの境遇では、そこに登録するのが最も穏当な生計の立て方かと」 「最強の護衛がいるのに?」 「最強の護衛は、ご主人様の生き方を強要しません。あなたが選んだ道に、ただ付き従います」  ──いいスキームだ。  上司が部下の進路に口を出さないというなら、俺はそれを信用する。 「では、行ってらっしゃいませ」  女神が、事務的に手を振る。  視界の端から白が剥がれて、木の天井が落ちてきた。

 鼻先に、藁の匂いがする。  古い藁と、消えた直後のろうそくの蝋。それから、誰かの呼吸。  ──呼吸?  俺はゆっくり、目だけを動かした。  木組みの天井。煤けた梁。窓の隙間から差し込む朝の光は、コンビニの蛍光灯より遥かに黄色い。掛けられた毛布はざらつき、首筋に何度も棘のような藁が当たる。寝返りを打とうとして、肩が思った以上に軽いことに気づく。  ──体が、若い。  布団から出した手の甲は皺一つない。指先には残業で潰したささくれの跡もない。十六、七歳といったところか。女神は、転生先の年齢までは言わなかった。  そして、すぐ右隣。  ベッドの端に腰掛けている、銀髪の少女。  腰まで届く長い髪は、女神のそれに似ている。けれど目元の鋭さは、神様のような事務員には到底できない種類のものだった。剣の柄に置かれた指。鞘の革は使い込まれていて、刃の重さに左肩が少しだけ下がっている。  ──実戦慣れ。一瞬で分かる、本物の剣士だ。  視線が合うと、彼女は微笑んだ。 「ご主人様、お目覚めですか」 「……ご主人様」 「リィンと申します。あなた様の護衛として遣わされました。以後、お側を離れません」  妙に落ち着いた声だった。歳は十六、七だろうか。だが、声の中に年齢では量れない何かが沈んでいる。  ──最強の護衛。  即発注、即納品。さすが、業務に慣れた女神だ。  試しに、と俺は意識の中で唱えた。  ──【観測】、リィン。  灰色の靄が、視界の縁に一瞬走った。  そして──消えた。 「あれ?」 「どうかなさいましたか」 「いや。何でもない」  視えなかった。経歴も、未来も、何ひとつ。【観測者】が初めて空振りした感覚に、背筋がうっすら冷える。  最強の護衛、というのは──そういう次元の存在らしい。  触れてはいけない領域だ、と直感的に判断した。少なくとも、今は。営業時代、見ない方がいい決裁書類は、見ない振りをするのが鉄則だった。 「ご主人様、お腹は空いていますか」 「……空いてる」 「では、街に降りましょう。ヴァルディア大陸、辺境の街リードリアにございます。冒険者ギルドの場所も、私が把握しております」 「冒険者ギルド」 「ご主人様の生業として、推奨されるかと」  リィンが立ち上がった。革鎧が静かに鳴る。  窓の外を見れば、石畳の路地。荷馬車を引いた爺さんが、緑色の何かを山積みにして通り過ぎていく。あれは野菜なのか、別の何かなのか、まだ判断がつかない。  ──最強の護衛と、地味な裏方スキル一つ。  サラリーマンとしては、悪くない人事配置だ。

 ボロ宿の階段を降りながら、俺は試しに宿の主人を【観測】した。  灰色の靄が、一瞬で色を変える。  過去──七年前、酒場の喧嘩で右脚を潰された元冒険者。  現在──宿の経営、概ね赤字。常連は三名。  そして、未来。  ──三日後の昼、強盗に殺される。  喉の奥が、瞬間で乾いた。  鼻歌交じりにグラスを磨くオッサンの、後頭部の輪郭が、急に妙に脆く見える。光の当たり方ひとつで、すでに死人の側面を持っているような、嫌な錯覚だ。  横でリィンが、小首を傾げる。 「ご主人様。何か、視えましたか」  ──視えた。  視てしまった、と言うべきか。  知らなければ、ただの宿の親父だった。知ってしまった瞬間に、俺は「彼の三日後」に対して、無関係ではいられなくなる。

  【観測者(LV.1)発動】   対象 / 宿主グレン   視認情報 三件   特記 ──死亡予定。残り七十二時間。

「ご主人様。階段、お足元」  リィンの声で、俺は手すりを掴み直した。一段、靴底が古びた木を踏む。  異世界初日。観測眼の俺の冒険は、宿の食堂の、磨き込まれたカウンターから動き始める。  親父が顔を上げて、にやりと笑った。 「兄ちゃん、起きたか。朝飯、何にする」  俺は、ひとつ息を整えてから、口を開いた。

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