第1話
第1話
鐘が三度鳴る前の暗がりで、火打ち石が二度、リィナの指の又で滑った。
竜骸山脈の麓、エルダリオン魔法学院。いにしえの精霊石が青く石畳を照らすこの古い学び舎で、少女は今朝も誰よりも早く炉の前へ立っていた。指の又にひびが走り、藁の刺さった小さな傷口がうっすら滲む。それでも鐘の音より先に火を熾(おこ)すのは、十二の歳からの務めだった。三度目で、ようやく火打ち石が咬み合う。
凍えた朝気が、首筋にまといつく。学院の北壁から吹き下ろす風には、まだ雪解けの鉄の匂いが混じっていた。リィナはふっと息を吐き、薪に唇を寄せる。
「燃えよ……灯(ともしび)よ……」
詠唱は遅い。同期の誰もが一拍で済ませる火の精霊招きに、リィナは三呼吸を要する。火花は樫の表皮を二度跳ね、三度目でようやく赤く咬みついた。橙色の舌が立ち上がり、煤の苦みと焼けた樫の甘さが石室に広がる。
——役に立てた。
そう思える朝だけが、彼女の魔法を支える灯火だった。
廊下の奥から、革靴の足音。低く、規則正しい。リィナは無意識に背筋を伸ばす。
「リィナ」
低音の名乗りに、心臓が一拍跳ねた。寡黙な師、ヴァルガ。黒いローブの裾がわずかに揺れ、香木の煙の残香が室内へ流れ込む。
「火、よく入ったな」
「師匠、おはようございます」
ヴァルガは無言のまま、大きな手をリィナの頭に乗せた。骨ばった親指が、結い損ねた前髪の根を撫でる。それだけで、頬が灯心のように熱を持った。
「朝餉(あさげ)は後で構わぬ。学院長がお呼びだ」
「……はい」
師の手が離れる。指の腹に残った石鹸の青草の匂いを、リィナは一度、深く吸い込んだ。これが、今日の魔力の源だった。
学院の朝食堂は、すでに同期たちの嘲笑で湿っていた。
「見ろよ、また煤だらけだ」「掃除係のお出ましだ」「火を熾すのに三呼吸かかる魔法使いって、火打ち石より使えないんじゃないか」
長卓の端、麦粥の椀を抱えるリィナの背に、声は次々と刺さった。第七階梯の卒業試験を控えた最終学年——同期の魔力量は平均で彼女の二倍。詠唱速度は三倍。出自の良い者は家紋を縫い取った肩布を翻し、リィナだけが擦り切れた灰色の麻布を羽織っている。
「ヴァルガ様の弟子枠なんて、もったいない」「あの方が頭を撫でてくれるのは、子犬を哀れんでるだけだろう」
椀の縁を握る指の甲が、白く強ばった。爪が掌に食い込む。麦粥の塩気が舌の付け根で苦く膨らみ、咽喉(のど)を通らない。
——師匠は、哀れんでいるのではない。
そう信じたかった。けれど、信じる根拠を、彼女は何ひとつ持たなかった。
午前の魔法理論は、精霊文字の解読。リィナは三十一の古字のうち、十九までしか正確に転写できない。隣席のリトラが羽根筆をくるくる回し、嘲るように覗き込んだ。
「第七番の古字と、第十番の古字。混ぜたら炎が逆流するんだぞ。よく覚えとけ、掃除係」
「……はい」
教官の視線がこちらへ流れる前に、リィナは古字を慌てて書き直した。羊皮紙の繊維に、汗で滲んだ青藍のインクが染む。鉄を含んだその匂いを嗅ぐと、彼女はいつも、母の不在を思い出した。母はリィナを学院の門前に置き去りにしたまま、八つの春に消えた。残されたのは、首にかけた半割れの銀貨ひとつ。それが今も麻布の下で、肌温よりわずかに冷たい温度を保っている。
正午の鐘が鳴る。
中庭に出ると、精霊石の青光は陽光に押されて薄まり、白樺(しらかば)の影が石畳に長く伸びていた。リィナは束の間そこに立ち止まり、北の竜骸山脈を仰ぐ。霞の向こう、いにしえに堕ちた竜の背骨だと伝えられる稜線が、今日も白く凍てついている。
「リィナ」
背後から、再び低い声。
ヴァルガが石柱の影に立っていた。黒のローブ、銀色に縁取られた襟。三十をいくつか越えた年に見える師の双眸は、しかし時折、彼女がまだ生まれる前の風景を見ているように、遠くなる。
「学院長から命が下った」
「……命、ですか」
「地下——封印書庫の塵払いだ」
リィナの肩が、わずかに跳ねた。
封印書庫。それは学院創設の以前から地下に在ったとされ、第七階梯以上の魔導士でなければ立ち入りを許されぬ場所だった。
「私が、ですか」
「お前以外、誰が行く」
ヴァルガはわずかに目を細めた。それは笑みのようでも、苦みのようでもあった。師の細い指が、リィナの頬骨を一度、軽く弾く。
「案ずるな。古い書物が湿気るからと、年に一度の塵払いがある。普段は学院長自身が降りる役目だが——今年は、お前を指名された」
「どうして……私を」
「俺は、知らぬ」
師は短く言い、ローブの内ポケットから、銀の鎖のついた小さな護符を取り出した。掌に置かれたそれは、彼女の指の体温よりわずかに冷たい。表面には、リィナが見たこともない古字が、髪の毛ほどの細さで彫り込まれている。指先で撫でると、文字の溝に微かな脈動——心臓の鼓動より、ひと呼吸だけ遅い律動が、確かに在った。
「これを首に。万一、青い光に出くわしたら、声を上げず、その場を動かず、俺を呼べ」
「青い光……?」
「ただの言い伝えだ」
そう言いながら、ヴァルガの瞳の奥には、何か——三百年もの長さを持つ用心が、確かに沈んでいた。師の喉仏が、言葉を呑み込むように一度、上下した。リィナはその沈黙の重さを肌で測り、護符の鎖を首にかけた。半割れの銀貨と銀の護符が、麻布の下でかすかに触れ合い、ちりん、と鳥の骨を弾くような音を立てた。
地下への階段は、いにしえの精霊石を削り出した一枚岩で、三百十二段あるとされる。学院の生徒たちが「死者の喉」と呼ぶ、螺旋(らせん)階段だ。下るにつれ、空気の温度が指の皮膚に薄く張り付くように冷えていく。リィナの手の中の燭台が揺らぎ、橙の灯心が壁に長い影を伸ばした。壁面の精霊石はもはや青くは光らない。代わりに、苔が銀色に微かな燐(りん)を放っている。
——師匠は、何を恐れているのだろう。
足裏に伝わる石の冷たさと、護符の銀の冷たさが、二点で彼女の体温を奪っていく。鼻腔の奥を、古紙の埃と、鉄錆と、もうひとつ——名付けられぬ甘い匂いがくすぐった。香木でも、花でもない。三百年閉じ込められた何かが、ようやく息を吐き出すような、そんな匂いだった。
一段、また一段、踵が石を擦るたび、足音は螺旋の壁に幾重にも反響して、自分のものではない誰かの足音と重なって聞こえた。先を行く者がいるのか、後を追う者がいるのか——リィナは何度も振り返りかけ、そのたび、護符の鎖を握りしめて踏み止まった。耳の奥で、母が置き去りにした朝の風が、もう一度吹いた気がした。
百段。二百段。三百段。
リィナは、最後の一段を踏み外しかけ、肩で扉を支えた。
封印書庫の鋼鉄扉。表面に刻まれた古字は、彼女の知る三十一文字を超え、四十、五十、彼女が一生かかっても読み解けぬ文字が、螺旋を描いて鋼の上を走っていた。鋼の冷たさが頬に触れ、その冷たさの底に、人肌に似た微熱が、確かに脈打っていた。生きている、と彼女は思った。扉が、生きている。
ふ、と扉が、内側から押し開くように、ひとりでに軋んだ。
冷えた風が、地下から吹き上げる。
その風は、確かに——青かった。
リィナは護符の銀を握りしめ、燭台を前に翳(かざ)した。書架の影が幾重にも折り重なり、いにしえの羊皮紙と革表紙の地層が、どこまでも奥へ続いている。塵が、橙の光の中をゆっくりと舞った。塵の一粒一粒が、灯に近づくたび、ほんの刹那だけ青く瞬いて、また橙へと染め直されていく。
「師匠を、呼ばなければ……」
口に出した瞬間、自分の声があまりに小さく、震えていることに気づく。彼女は深く息を吸い、書架の列に一歩、足を踏み入れた。
塵払いの務めは、塵払いだ。たとえ恐ろしくとも。たとえ、奥の闇で、何かが——息をしているように、感じられたとしても。
二歩、三歩。歩を進めるごとに、足裏の石が、わずかに温かくなっていく気がした。誰かが、ついさっきまでそこに立っていたかのように。けれど書架の隙間に目を凝らしても、人影はない。あるのは、銀の燐光を放つ苔と、橙の灯と、そして、青い気配だけだった。
七番目の書架の角を曲がろうとしたとき、リィナの指先が、立てかけられた一振りの剣の柄に、触れた。
冷たい。だが、それは護符の冷たさとは違う——脈打つような、目覚めかけた何かの冷たさだった。