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最弱の弟子は聖剣に選ばれた

第2話 第2話

第2話

第2話

ep2の本文を執筆します。

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指先に触れた柄は、握り革ではなく、剥き出しの鋼(はがね)だった。

リィナは咄嗟に手を引こうとした。けれど、指の腹が鋼に貼りついて離れない。引き剥がそうとするほどに、脈がそこへ吸い寄せられる。腕の血管がひと筋、肘の内側まで青く透けて浮き上がるのが、橙の灯心の中で見えた。手首の細い骨の輪郭が、いつもの自分のものではない、誰か別のひとの腕のように、青白く浮いて見える。指先から肩までを、つう、と一本の冷たい糸が貫いていく感触があり、その糸の先は、おそらく、彼女の胸の奥のどこかに括りつけられていた。

「……師匠……」

声は喉の奥で潰れた。燭台が手から滑り、石床へ落ちる。橙の灯心は鋼の側面を一度撫でて、ふっと消えた。書庫は瞬時に、銀の苔燐(こけりん)だけの薄闇に沈む。

——逃げ、なければ。

頭ではそう叫んでいた。だが、足裏の石はもはや温かいなどという生やさしい温度ではなく、踵から脛へ、脛から膝へ、温(ぬる)い水が這い昇るような感触で彼女を縛っていた。鼻腔を満たしていた古紙の埃と鉄錆の匂いが、いつの間にか、夜露を含んだ青草のような、母の指の石鹸に似た匂いへと、入れ替わっていた。喉の奥が、ふいに、しょっぱくなった。それは涙でもなければ、血の味でもなかった。記憶のもっと底——彼女が物心つくよりずっと前、揺り籠の中で嗅いだはずのない海の風の、塩の味だった。

剣は、書架の七番目の角に立てかけられていた。鞘は朽ちかけた革で、銀の留め金がただ一つ、辛うじて鞘の口を塞いでいる。柄頭には小さな星形の意匠——七つの突起をもつ古い刻印が、銀の苔燐を浴びて、ひとつ、またひとつと、点(とも)りはじめた。

——アステリオン。

唇が、聞いたこともない名を、勝手に紡ぐ。

その瞬間、留め金が、ちりん、と音を立てて自ら外れた。

鞘の口から、青白い光が、一筋。

吐息ほどの細さで漏れた光は、書庫の天井——三百段下に在りながら、見上げれば確かに天井が在った——その梁の継ぎ目を伝い、ぐるりと書架を一周してから、ゆっくりとリィナの胸に戻ってきた。半割れの銀貨と、師から渡された護符と、その下の鎖骨の窪みに、青い光は触れる前に、ひとひら、頭を垂れた。

頭を垂れた——そう、彼女には見えた。光は意志を持つ生き物のように、彼女の胸の前で身を屈め、息をひそめ、許しを乞うていた。十二歳の薪運びの娘に対して、何百年も前から在る何者かが、礼を尽くしていた。その不釣り合いさが、かえってリィナの背筋を凍らせた。

声にならぬ声を漏らした刹那、鞘ごと、青白い光が爆ぜた。

爆ぜた、と書くより、ほどけた、と言うべきだろう。糸を一本、上から引かれた絹が、織目を解いて広がるように、光は書庫の薄闇を四方に押し開いた。書架の革表紙が一斉に身を反らせ、羊皮紙の頁が、目に見えぬ風に煽られて、白い鳥の羽のように立ち上がる。塵は橙ではなく、青く瞬きながら宙に浮き、リィナの睫毛に止まった一粒は、雪片のように冷たく、一拍の後で、跡形もなく溶けた。冷たさの残り香だけが、目尻の下に、ひと筋、線を引いた。

剣身が、鞘から、一寸ずつ、せり上がる。

抜いたのは、リィナではなかった。剣が、自ら、抜けたのだ。

刃は黒い鋼ではない。月光を凍らせて延ばしたような、青みを帯びた銀。刃元から切先まで、髪の毛ほどの細さで古字が走り、その文字の一つひとつが、いま、内側から青く灯りはじめていた。リィナの首にかかった師の護符が、共鳴するように、つん、と一度跳ねた。半割れの銀貨も、麻布の下で、わずかに浮いた。三つの青が、互いの位置を確かめ合うように、彼女の胸の上で、別々の拍を刻んだ。心臓は、そのどれとも違う、四つ目の拍を打っていた。

——主(あるじ)よ。

声は、耳ではなく、彼女の胸の中央——心臓のひと筋下、肺の付け根のあたりから、聞こえた。男とも女とも、若者とも翁(おきな)ともつかぬ、けれど確かに、ひとつの意志だった。

——三百と十二の春、お前を待った。

「……まって、わたしは……」

掌に剣の柄が、ぴたりと馴染む。剣は重い。十二の歳から薪を運び続けた腕でも、刃の重さで肩が下がる。けれど、不思議と、振り落とされそうな重さではない。重いのに、自分の腕の延長として、そこに在る。指先のひびが、握り革の代わりの鋼に擦れ、痛むはずなのに痛まない。血の代わりに、青い光が、ひびの底からひとしずく、にじんで消えた。

——お前の名を、呼ばせよ。

「リィナ……リィナ・エルフェイン……」

口にした瞬間、刃の古字が、根元から切先へ、ひとつなぎの光となって流れた。書庫の鋼鉄扉が、上で、低く鳴った。書架の革が呼吸を止め、塵が、宙で、止まった。

——主と認む。

剣身が、ふ、と軽くなった。

軽くなったのではない。彼女の魔力が、初めて、剣に応えたのだ。指の又のひびに、藁の刺さった小さな傷口に、青い光が滲み、痛みが嘘のように引いていく。彼女が三呼吸かけて熾した火打ち石の橙よりも、ずっと静かで、ずっと深い灯が、いま、彼女の胸に灯っていた。

地上で、鐘が——時を告げぬ、緊急の鐘が——三度、鳴った。

書庫の鋼鉄扉の向こう、螺旋の階段を、革靴の足音が一段ずつ、しかし常の規則正しさを失った速度で、駆け下りてくる。三百十二段を、一気に。リィナはその足音の主を、足音の歩幅だけで知った。

「リィナ!」

扉が、内側から押し開かれた以上の力で、外側から叩き開かれた。

ヴァルガが、書架の通路に躍り込んできた。黒のローブの裾は乱れ、銀色の襟が片側だけ捲れ上がっている。寡黙な師が、息を切らしている。三呼吸を要して詠唱を組み立てる弟子の前で、いつも一拍の呼吸も乱さなかった師が、いま、肩で息をしていた。

その双眸が、青い光を抱くリィナを捉えた瞬間。

ヴァルガの表情から、——表情というものが、剥がれた。

無表情を崩した、という生やさしい言葉では足りない。三十年余りの歳月をかけて磨き上げた仮面が、青い光に照らされて、ぱきりと縦に割れ、その奥から、もっと若い、もっと脆(もろ)い、三百年前の何者かの顔が、覗いた。眉の上の細い古傷が、青い光の中で初めて見えた。それは弟子が三年仕えても一度も気づかなかった傷で、おそらくは、師自身も、もう長らく鏡の前で見ていなかった傷だった。

「……お前、だったか」

言葉は、息より細かった。

師は二歩で間合いを詰め、リィナの肩を掴んだ。掴んだ、という力ではない。引き寄せた、というより、縋(すが)った、という方が近かった。アステリオンの柄を握ったままの彼女の頬骨が、師の鎖骨にぶつかり、香木の煙の残香と、汗と、もうひとつ——海風によく似た、けれどこの内陸の学院では決して嗅ぐはずのない、塩の匂いが、ローブの襟元から立ち昇った。さきほど彼女の喉の奥に滲んだのと、同じ塩の味だった。離れた場所にいたはずの師と弟子が、同じひとつの遠い海を、いま、肌のごく近くで分け合っていた。

「師匠……」

「何も、言うな」

師の腕が、彼女の背に回された。骨ばった親指は、もう前髪を撫でない。代わりに、麻布越しの肩甲骨の窪みを、ひと筋、ひと筋、確かめるように辿った。指の腹が、骨と骨の間で、いちど止まり、それからまた、息を継ぐようにして動いた。何かを数えているのだ、とリィナはぼんやり思った。背骨のひとつひとつを、星座の星を辿るように、師は数えていた。リィナの背中で、護符と銀貨と、そして、剣の柄頭の星形の刻印が、三つ並んで、青く脈を打っていた。

「俺は、待っていた。三百と、十二の春」

「……三百……?」

師の喉仏が、彼女の額の上で、震えるように上下した。

「お前を、待っていた」

その「お前」は、十二の歳から炉の前に立つ、最下位の弟子リィナを指してはいなかった。もっと長い、もっと深い、彼女自身も知らぬ、彼女の何かを、指していた。

リィナの指の又のひびが、いつの間にか、塞がっていた。掌に握ったアステリオンは、もう重くなかった。重さは、師の腕の中に、預けてあった。

肩で息をしながら、ヴァルガはようやく、ひと息、長い息を吐いた。それは、三百と十二の春、ずっと吐けずにいた息のようだった。

「上で、鐘が鳴っています」

師の腕の中で、リィナは小さく告げた。

「ああ。学院長が、もう感じ取った。じきに、ここへ降りてくる」

ヴァルガはゆっくりと、彼女を腕の中から離した。離したというより、青い光の届かぬ書架の影へ、半歩、彼女を匿(かくま)うように下げた。

師の双眸の奥に、再び、三百年の用心が沈みはじめている。けれどその底に、もう、寡黙の冷たさはなかった。

「これより、お前は、世界の中心になる。望むと、望まざるとに、関わらず」

螺旋の階段の上から、今度は革靴ではない、複数の足音が、降りてくる気配があった。学院長の杖の石突きが、一段ごとに、固く石を打つ音。その後ろに、もう一人、もう二人——リィナの知らぬ足音が、確かに、続いていた。

ヴァルガは、リィナの手の上から、自らの大きな手を重ね、アステリオンの柄を、二人で握り直した。師の掌は、十二の歳から薪を運んだ弟子の掌より、ずっと冷たかった。けれどその冷たさの内側に、隠しきれない震えが、ひとすじ、走っていた。

「俺の手を、離すな」

師の声に、初めて、震えがあった。

足音は、三百段を、確実に、降りてくる。

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