第3話
第3話
足音は、三段、二段、と降りてきて、書架の通路の角で、ぴたりと止まった。
学院長の杖の石突きが、いちど、石床を強く打った。その音は、リィナの胸の底で、青く脈打つ何かを、おそるおそる確かめるような響きだった。背の高い銀髪の老人——エルダリオン魔法学院長セルウィン・アスティアが、フードを下ろし、書架の影に立っている。後ろに従うのは、第七階梯の長老二人。橙の燭台の灯と、銀の苔燐(こけりん)と、剣身の青と、三つの色がそれぞれの輪郭を割って、四人の顔の上に、奇妙な層を作っていた。
「……ヴァルガよ」
学院長の声は、いつもの講堂で響くそれよりも、ひとまわり細かった。
「儂(わし)が、お前にこの娘を寄越した理由を——お前は、知っておったのか」
師は、リィナの肩に置いた手を、離さなかった。代わりに、ゆっくりと、半歩だけ、弟子を背の後ろへ匿(かくま)った。アステリオンの青い光が、ヴァルガの黒のローブの裾を、底から舐めるように這い昇る。
「学院長」
師の声は、平らだった。けれどその平らさの底には、三百と十二の春、抑えに抑えてきた水位が、いま、まさに堰の縁を越えようとしている、その緊張があった。
「お答えする義理は、もはや、ござらぬ」
長老の一人が、息を呑む音がした。書架の隙間で、宙に止まったままだった塵が、ほんのわずか、震えた。
セルウィン学院長は、杖を一度、石床に立て直した。深く、長い息を、白い髭の奥から吐く。
「義理は、ない、か」
老人の双眸は、ヴァルガではなく、その背に匿われたリィナの胸元——青く脈打つ柄頭の、七つの星形の刻印を、見ていた。
「儂は、八年前、お前がこの娘を学院に引き取りたいと申し出た日のことを、覚えておる。あの時お前は、こう言うた。『この娘は、薪を運ぶ役目で構わぬ。ただ、学院の壁の内側に置いてやってくれ』と」
「……」
「魔力量は最下位。詠唱は三呼吸。普通ならば、入門の階梯にも届かぬ娘を——お前は、ご丁寧に、この学院の最も深い場所のすぐ上に、八年、置き続けた」
リィナは、師の背中越しに、自分の指先を見つめた。指の又のひびは、もう、ない。代わりに、半割れの銀貨の冷たさが、胸の上で、いつもより少しだけ、軽くなっていた。
——八年。
母が学院の門前に置き去りにしたのは、彼女が八つの春。あれから八年。学院に来る前から、すでに、師は、彼女を待っていたのか。
ヴァルガはローブの内側で、静かに片膝をついた。リィナの正面に、師の双眸が、同じ高さに来た。三呼吸を要する弟子の前で、寡黙な師は、生涯ではじめて、自らの言葉を選ぶことに、三呼吸以上を要した。
「リィナ」
「……はい」
「俺の名は、ヴァルガ・カインライト。……いや、それも、半分だ」
師の指が、自身の左の襟を、はだけた。鎖骨の窪みに、小さな烙印——リィナがアステリオンの柄頭で見たのと同じ、七つの突起をもつ星形の意匠が、皮膚の下に、薄く青く、滲(にじ)んで在った。
「正しくは、ヴァルガ・アステリ・カインライト。三百年前、聖剣《アステリオン》の最後の主に仕え、その死を看取り、剣を地下に封じた——守人(まもりびと)、最後の一人」
長老の一人が、思わず、後ずさった。
「守人……? 守人ならば、《アステリオン縁起》に記された名は……」
「死した、ことになっておろう。三百年前、北の竜骸山脈の麓で、最後の守人ヴァルガは、竜の業火に焼かれて果てた——そう、伝えられておる。だが」
師は、自身の鎖骨の烙印に指を当て、ふっと、悲しい笑みを刻んだ。
「焼かれて、なお、果てなかった。いや、果てることを、許されなかった。次の主が、生まれ落ちるまで」
リィナの咽喉(のど)の奥が、ふいに、また塩の味で満ちた。
「次の、主……」
「お前だ、リィナ」
師の手が、弟子の頬を、両側から、包んだ。冷たいはずの掌が、いま、ほのかに温かい。三百年の冷えが、ようやく、誰かの体温に触れて、緩みはじめていた。
「俺は、お前を、待っていた。八年前、この門前の麻布の下、半割れの銀貨を握って眠るお前を見つけた朝、俺は、ようやく息を継いだ。お前の母が誰か、俺は知らぬ。だが、お前の血の中に、確かに、いにしえの星の祝いが、流れておる」
リィナは、声を出すことが、できなかった。
代わりに、彼女の目尻から、一粒、青く滲んだ涙が、こぼれた。それは橙でも、銀でもなく、剣身の古字と同じ、青い光だった。
セルウィン学院長は、長く、深く、目を閉じた。
そして、ふたたび開いた時、その双眸の中には、もう、寡黙な師に対する詰問の色は、なかった。代わりに、エルダリオン魔法学院長としての、別の重さが、宿っていた。
「ヴァルガよ、いや、——アステリの守人、ヴァルガ卿」
老人は、杖の石突きを、ふたたび石床に立てた。乾いた音が、書架の天井を打つ。
「儂は、これより、王宮へ走らねばならぬ」
「学院長」
「黙れ。儂とて、《アステリオン縁起》を諳(そら)んじておる身。聖剣が選ばれし主を得た夜、その報せが王宮に届かぬまま夜が明ければ、明日、エルダリオン学院は、——いや、この国は、三国に喰われる」
ヴァルガは、立ち上がった。リィナの肩に手を戻し、半歩、再び、弟子を匿う位置に立つ。
「学院長。せめて、夜明けまで、お控えいただきたい」
「夜明けまで、で済むと思うてか、ヴァルガ卿。聖剣の覚醒の波は、すでに、北の竜骸を越え、東は帝都の大塔を、西は神聖国の鐘楼を、いま、まさに揺らしておる。儂が走らずとも、明朝には、三国の使者が、この門前に並ぶ。儂が走らねば、——それが、武装した三軍に、変わるだけのこと」
長老二人が、深く、頭を垂れた。
リィナは、師のローブの裾を、無意識に、握りしめていた。
「師匠……三国、とは……」
「西のシャルディオン王国。東のイスタリア帝国。北の——神聖クォルダリア国」
ヴァルガは、低く、ひとつずつ、その名を口にした。それは、十二の歳から薪を運んできた少女には、地理の教本の中だけにあった、遠すぎる名であった。
「いずれも、三百年前、最後の主の死を看取った場で、——聖剣の所有を、自国の正統と主張した国々だ」
学院長は、長老二人に、短く、目配せをした。
「儂は、これより、出る。長老よ、お前たちは、正門と裏門の結界を、二重に。本日より、この学院は、戒厳に入る」
「は……」
「ヴァルガ卿。この娘——リィナを、本日只今より、第七階梯の特別生と認める。形式上の手続きは、儂が王宮から戻り次第、整える。それまでに、お主は、この娘を、生かして、儂の前に届けよ」
師は、深く、頭を下げた。
「承った」
学院長の杖の石突きが、ふたたび螺旋の石を打ちはじめる。三百段を、こんどは登っていく。リィナの胸の上で、半割れの銀貨と、銀の護符と、聖剣《アステリオン》の柄頭が、三つ揃って、青く、夜を、静かに、刻みはじめた。
その夜、エルダリオン魔法学院は、燭台の灯を半分に絞り、戒厳の鐘を、鳴らさぬまま、息をひそめた。
ヴァルガは、リィナを自身の塔の一室に匿い、自らはローブも脱がず、扉の内側に立ち続けた。リィナは寝台の縁で、アステリオンを膝に乗せ、刃身に走る古字の光が、夜の奥でゆっくりと脈打つのを、まばたきも忘れて、見つめていた。
東の窓が、藍から、薄い青へ、青から、白へと、染まっていく。
夜明け前の、最も冷えた一刻。
正門の石畳の上を、馬蹄の音が、ひとつ、ふたつ——いや、三つの異なる律動で、近づいてくるのを、リィナは聞いた。塔の窓辺に立ったヴァルガが、静かに、外を見下ろし、振り返らぬまま、低く告げた。
「来たか」
霧の薄れはじめた門前に、三つの旗が並んでいた。金の獅子、紫の双頭鷲、銀の七光星——西の王国、東の帝国、北の神聖国。三つの大国の使者は、互いに視線を交わさず、ただ、エルダリオンの正門を、見据えていた。
リィナの指の又に、もはや、ひびはなかった。代わりに、握り直したアステリオンの柄頭で、七つの星が、ひとつ、新しい朝を、刻もうとしていた。