第2話
第2話
塔の窓が震える。乾いた割れる音が、続けざまに三度。視界の縁から細い線が流れ込み、白い枠が内側から押し広げられた瞬間、後頭部の奥で小さな閃光が弾けた。眼球の裏側を内側から触られたような、奇妙な圧。指先は、まだ半透明のアイコンの中央に置いたままだ。
「……っ」
息を吐こうとして、喉の途中で詰まる。唾をのみ込み、もう一度、ゆっくり吐く。寝台の麻布が、左の手のひらの下で皺を寄せていた。指の感触だけは、いつもの自分のものだ。
板の上半分に、新しい行が次々と並んでいく。読めない文字、読める文字、表層と同じ単語、見たこともない記号。流れる速さに目が追いつかない。俺は瞬きを一度だけ我慢して、最初に形を成した一行を読んだ。
──真ステータス。
その下、二行目。
──職業: 召喚勇者(本来枠)。
「……本来、枠」
口の中で繰り返したら、奥歯がかちりと鳴った。塔の壁の冷たさが、もう背中まで届いていない。寝台に座っているはずなのに、足の裏が地面から少し浮いている錯覚があった。耳の奥で、自分の脈の音が、やけに大きく響く。心拍ひとつごとに、こめかみの皮膚が内側から押されるのがわかる。
板の中央には、表層と同じ並びの数値が、桁を増して再表示されている。
──HP: 38 / 真値: 11,860 ──攻撃: 12 / 真値: 4,032 ──魔力: 9 / 真値: 6,711 ──敏捷: 14 / 真値: 5,290 ──運: 3 / 真値: 998
(……運、九百九十八)
声に出さなかったのは、出した瞬間に何かが壊れる気がしたからだ。表層と真値の比は、ざっと三百倍前後。攻撃は三百三十六倍、魔力に至っては七百四十五倍。電卓を叩く前の概算が、勝手に頭の中で走った。前職で見積書を直していた癖が、こんな場面でだけ機能する。指先で空中の数列をなぞり、もう一度暗算する。倍率の振れ幅は均等じゃない。運だけが、桁の伸び方が違う。三百倍の世界に、ひとつだけ三百三十二倍の数字が紛れている。誤差じゃない。設計だ。
板の下半分、空白だった領域に、淡い光が下から灯っていく。点々と、星のような輝点が並び、輝点の脇に短い文字列が浮かんだ。スキル欄、らしい。だが、俺の知っている表層スキルの並びとは違う。
──≪封滅≫(封印中・第一階梯) ──≪虚読≫(封印中・第三階梯) ──≪刻歪≫(封印中・第五階梯) ──≪贖光≫(封印中・第七階梯)
数えるのをやめて、俺は息を整えた。十二、十三、十四。スキル名の脇には全部に「封印中」の小さな文字。階梯の数字は、上から下へひとつずつ大きくなっていく。
「階梯。──ランクみたいなものか」
表層スキル欄に俺の名前で開けるのは≪初級剣術≫だけだった。同期のレオンですら第二階梯まで。第七階梯は、宮廷魔術師長の二つ名にも使われていない、伝説扱いの数字だったはずだ。喉の奥で空気がひっかかり、笑いに変わりかけて、止まる。笑うには板の文字が、あまりにも整いすぎていた。
板の右上、これまで気づかなかった小さな注釈が、ゆっくりと文字を結んでいく。
──注: 表層パラメータは観測者保護のための仮値。真値の直接運用は、神格三柱の合議審判を要する。封印解除は使用者の責任において行うこと。
(……合議審判)
そんな単語、王宮の歴史書にも見た覚えがない。神格三柱の名すら、この国の正教は六柱体系だ。教会で配られる祈祷書の表紙にも、六柱の紋章が等間隔で並んでいた。三柱、という数えかた自体が、この世界の表側には存在していない。
「待て」
俺は声を出した。
「──神様ですら、扱いを誤った、ってことか。これは」
注釈の最終行に、もう一行が浮かんだ。
──過去三千年における第七階梯解放の試行は二例。両者とも世界の境界に裂痕を残し、解放者の自我は記録より消去された。
「……マジかよ」
笑いが、喉のずっと奥のほうから、湿った音で漏れた。冗談じゃない。冗談だったら、ステータス画面はもう少し気の利いた書き方をしてくれてもいい。「記録より消去」の五文字を、目で二度なぞった。死んだ、とは書かれていない。記録から消えた、と書かれている。死より一段階、たちが悪い。
俺は両手の甲を膝の上に置き、目を閉じた。
額に汗が滲んでいる。蝋燭の炎は変わらず机の角を撫でているのに、部屋の温度だけが二度ぶん下がった気がする。皿を弾かれた食堂のあいつらの笑い声と、神格三柱の合議審判という言葉が、頭の中で隣同士に並んでいるのが、どうにも釣り合わない。
(整理しよう)
呼吸を、四つ数えて吐く。フリーランスのライターを名乗っていた頃、徹夜明けに案件の優先順位を決めるときの癖だ。机に向かう前に、頭の中の机を片付ける。あの頃と同じ手順で、いま、神々の議題を仕分ける羽目になっている。場違いさに、頬の裏側が引きつった。
第一に、表層ステータスは仮値だ。同期の最低値で笑われていた俺の数字は、観測者保護のためのカモフラージュらしい。本当の俺は、おそらく王宮にいる誰よりも強い。
第二に、真ステータスを開けたのは俺だけだ。同期の十一人にも、近衛にも、宰相にも、たぶん、この板は見えていない。だから、表で大きな声を出してはいけない。明日、食堂でレオンに皿を弾かれても、「外れ枠ですいません」と頭を下げて、パンを拾い直す。それが正しい運用だ。
第三に──スキル欄、十四個、すべて封印中。第七階梯までの解放は、世界に裂痕を残す。安易に開けると、俺の自我ごと消える。封印を外すかどうかは、俺の責任。誰も助けてくれないし、誰も止めてくれない。
「……ふざけた仕様だな」
苦笑が漏れる。だが、頭のどこかは、ひどく冷えていた。
明日、合同演習に俺は不参加扱いだ。怪我をされても後がない、と侍女は言った。今日までその配慮が情けなかった。だが、観測者保護の仮値が剥がれていない以上、俺はまだ表層では十二位だ。明日も、外れ枠の役を続けたほうがいい。王宮の人間が俺の真値に気づかないうちは。
(──父さん。真凛)
口の中で、二つの名前を呼んでみた。喉が、ほんの少し詰まる。最後に父の声を聞いたのは、駅前のコンビニから電話で「もう少し頑張る」と告げた、あの夜だ。妹の声は、もっと前。誕生日の前日、留守電に残っていた短い「兄ちゃん」の三文字。返さないままだった。返す前に、俺はこの世界の塔の三階に座っている。
家族に菓子の一粒も返さないまま潰れた俺が、いま、神格三柱の名前と並ぶ板の前に座っている。釣り合わない。釣り合わないが、これが俺の手元にある。指の腹で、寝台の麻布の縫い目を一度だけ撫でた。冷たさは、もう抜けていた。麻の繊維のささくれが、爪の下で小さく跳ねた。生きている指の感触だ、と確かめる。
板の隅で、何かがもう一度、瞬いた。
スキル欄のさらに下、まだ展開しきっていない領域。淡い灰色のままの一行に、薄く文字が滲んでいる。固有名詞の形をした、二つの単語。
俺は息を止めた。
文字が結ぶ寸前で、塔の外から鐘が鳴った。明朝の予鈴。二度、三度と続いて、四度目が長く伸びる。合同演習の集合まで、あと二刻。
予鈴の余韻と一緒に、滲みかけた二つの単語は、灰色の背景に吸い戻された。
「……戻すなよ、おい」
声に、苛立ちが混ざる。指先が、無意識に板の縁を引っかこうとして、空を切った。半透明の表面はやはり熱も冷たさもなく、ただ俺の指の影だけを通り抜けさせる。
板の上端、真ステータスの文字の脇に、新しい注釈が一行だけ流れた。
──未解放領域。封印スキル一片の試運用後、再表示。
(……一片、運用しろってか)
頬の内側を、軽く噛んだ。神格三柱の合議審判が、第一階梯まで降りてくるとは思えない。試すなら、≪封滅≫の第一階梯。明日の演習で、外れ枠のまま、誰にも気づかれない範囲で。リスクと引き換えに、灰色の二つの単語を引き出す。等価交換にしては、こちらの分が悪い気もする。だが、選択肢は他にない。
板を閉じる。視界が、塔の三階の薄暗さに戻る。机の銀のコップが、また輪郭を取り戻していた。寝台から立ち上がって、扉の鍵を内側から二重にかける。鉄の閂が、低く軋んで噛み合った。
(滲んでたあの二つの名前──頭文字は、たしか「真」と、「神」)
塔の窓の外、合同演習の予鈴が、もう一度長く伸びた。鐘の音に重ねて、自分の鼓動を確かめる。心臓は、思ったよりずっと、静かだった。
俺は剣士装束の上着を肩に羽織り、扉に背中を預けて、夜明けまでの時間を数えはじめた。