第1話
第1話
汁物の塩気が舌の上で割れた瞬間、横から伸びてきた指が俺の皿の端を弾いた。陶器が床へ落ちる前に、笑い声のほうが先に降ってくる。床に弾けた汁の飛沫が、俺の靴先と裾を濡らす。生姜の匂いが、一拍遅れて鼻先まで上ってきた。
「悪い悪い。外れ枠の前は気をつけねえとな。手が滑っちまった」
第三騎士団預かりのレオンだ。同期の召喚勇者の中で、攻撃魔法ステータスがいちばん高い男。俺──神城ハルトのステータスは、各項目すべて同期の最低値を踏み続けている。レベル一の時点で平均の四割。三週間経っても、その差は縮まらなかった。向かいの席で、レオンが酒杯の縁を指で弾く。乾いた金属音が、俺の喉の奥でも一度跳ねた。
「拾わなくていいぜ。お前のぶんは、また厨房に頼めばいい。なんせ俺たちと違って、聖剣の鞘運びにも回されない身だ。暇だろ?」
食堂のあちこちで、笑いの粒が弾ける。十二人の同期のうち、こちらを見ない奴が三人。露骨に笑った奴が七人。残りの二人は、見て見ぬふりだ。誰の視線も、俺の目までは届かない。俺の顔の手前で空中で止まり、笑い声だけが向こう側を通り過ぎていく。
俺は床に転がったパンを拾い、塵を払って口に放り込んだ。噛むほどに、ざらついた粉が舌に残る。喉まで運ぶには、汁を一口足したかった。だが、それはもう床の上にある。
(……硬いな。でも、このパンは事故で死ぬ前の一週間、ずっと食ってた菓子パンより、よほど腹に溜まる)
転生ではない。召喚だ。三週間前、見上げた青空が突然黒く渦を巻き、気づけば俺はこの王宮の召喚陣の上に立っていた。同じ日に同じ高校から呼ばれた十二人。全員、ステータス測定で順位がついた。俺は十二位。最下位は、ただ一人だ。
「神城様」
レオンの隣の椅子から、第二王女付きの侍女が立ち上がった。
「陛下より伝言です。本日の合同演習、神城様は不参加でよろしいとのこと。怪我をされても、後がございませんので」
「……なるほど」
口の端で笑ったつもりが、頬がうまく動かない。会釈だけを返して、俺は皿を片づけずに食堂を出た。
廊下の床は石畳で、靴音だけがやけにはっきり響く。すれ違いざまに目線を逸らした衛兵の頬が、俺には見えていた。哀れみとも嘲りともつかない、その中間あたりの表情だ。窓ガラスに、自分の輪郭が映る。剣士装束のはずなのに、肩幅は中肉中背の高校生のままだ。空は灰色がかった青で、どこにも見覚えがない。星の並びすら、こちらの世界では微妙にずれているらしい。
死ぬ直前、俺は妹と父に会いに行く途中だった。
二十二歳。二年勤めた包装資材の営業会社をやめて、フリーランスのwebライターを名乗りはじめた頃。家を出て四年、父とはほとんど口を利いていなかった。妹の真凛が中三になったと、母から短いLINEで聞いた。「お兄ちゃん、誕生日くらい、顔見せたら」と。返事は、忙しさを言い訳にして三日延ばし、四日延ばし、結局誕生日当日まで延びた。
その当日、駅前の交差点で、俺は信号無視のトラックに撥ねられた。最後に見たのは、妹宛に買ったマカロンの箱が、車道の上で転がる絵だ。ピンクと薄緑が、アスファルトの上で潰れていく。甘い砂糖と、車道に染みた排気の匂いが、最後の呼吸の中で混ざる。タイヤが擦れる音と、自分の身体が地面を擦る音は、なぜか同じ高さで聞こえた。視界の隅で、マカロンの箱の蓋が裏返しに転がっていた。買ったときに店員が結んでくれたリボンが、ほどけかけてアスファルトを撫でている。それを見届ける前に、肺の空気が一気に押し出されて──黒。
(……それでも俺は、こんなところに来る予定じゃなかったんだ)
割り当てられた個室に戻り、扉を閉める。窓のない、塔の三階。机の上には、王宮支給の銀のコップ。レオンや上位組には、銀の酒杯と陶器の水差しが並ぶらしい。差は、こんなところにも刻まれていた。扉を閉めた瞬間、塔の壁の冷たさが背中越しに伝わってくる。窓のない部屋には、外の鐘の音も同期の笑い声も入ってこない。蝋燭の小さな炎だけが、机の角をゆっくり撫でている。寝台の麻布は洗濯から戻ったばかりらしく、肌に当たる感触がぱきりと冷たい。同期の部屋には毛布が二枚配られていると、こないだの清掃係が話していた。俺の部屋には一枚だけだ。
俺は壁にもたれて、左手の甲を空に向けた。
「ステータス」
短い音節と共に、視界の真ん中に半透明の板が浮かび上がる。
──神城ハルト ──職業: 召喚勇者(候補) ──レベル: 1 ──HP: 38 / 攻撃: 12 / 魔力: 9 / 敏捷: 14 / 運: 3
板の下端には、同期の平均が小さく並ぶ。HP百二十、攻撃六十、魔力七十。比較されて落ち込めと言わんばかりの仕様だ。
(運、三。これだけは桁が違うな。生きて帰れる気がしない)
舌打ちすら出ない。倒れ込むように寝台に座り、俺はステータス画面をぼんやり眺めた。
──ここに、俺はいつまでいるんだろう。
母から最後に届いたLINEに、俺はまだ返事を打っていなかった。「お兄ちゃん、誕生日くらい、顔見せたら」。短い一文の後ろに、母が書きあぐねた言葉が、何文字か並んでいた気がする。
二十二年生きて、家族に何ひとつ返してこなかった。父に「お疲れさん」の一言も、妹に菓子のひと粒も。手土産のマカロンは、結局あいつの手に渡らないまま、車道で潰れた。
(……戻れたって、もう、あいつらと食う飯はないんだよな)
ステータス画面の右下、レベル表記のさらに下。普段は灰色の背景しかないはずの場所に、何かがちらりと滲んだ。
俺は身を起こした。
最初は埃か、目の疲れだと思った。だが、もう一度視線を凝らすと、確かにそこにある。半透明の、四角に近いアイコン。表示文字はない。輪郭だけが、わずかに歪んで瞬いている。アイコンの揺れは、心臓の鼓動より少し遅い間隔だ。明らかに、ほかの数値表示とはちがう動きをしている。
(……なんだ、これ)
指先を伸ばす。空中の板を触る感覚は、もう慣れた。アイコンは指の影を吸い込むように、わずかに沈んだ。
(押せる。──押せるのか、これ)
俺は息を止めた。
押した瞬間に何かが起きるなら、警告も出るはずだ。だが歪んだアイコンは、押し返してくる感触もなく、ただ静かに揺れている。誰かが、こっそり俺だけに残していった切れ端のように。
試しに背後を振り返り、扉の前まで歩いて、もう一度寝台に戻る。位置を変えても、アイコンは俺の視界の同じ場所に居座ったままだ。これは空間の何かではなく、俺の側に貼りついている。
(誰が)
これを仕込んだのが王宮の魔術師なら、俺は明日には実験室送りだ。神様が誤って残した余白なら、押した瞬間に画面ごと消えるかもしれない。同期に知られれば、また食堂のパンが床に転がる。
俺はもう一度、ステータスの数字を読んだ。HP三十八。運、三。同期の半分にも満たない値。明日の食堂で、俺はまたパンを拾うのだ。父に何も返さないまま死んだのと、同じ顔のまま。
(──だったら、押すしかないだろう)
息を吐く。喉の奥で唾を一度のみ込む。窓の外で、夜風が塔のどこかの旗を鳴らした。それすら、自分の判断を急かすように聞こえる。三週間、何ひとつ手応えのなかったこの世界で、はじめて俺だけに向けて開いた切れ端だ。誰も助けに来ない以上、俺の指で確かめるしかない。指先を、半透明のアイコンの中央へ落とす。
その瞬間、視界の縁が、ぱきっ、と乾いた音で割れた。
ステータス画面の白い枠が、内側から押し広げられる。背後の机も、寝台も、塔の壁も、薄い被膜越しのように遠ざかった。視界の隅で、机の銀のコップが、被膜越しに小さく輪郭を失っていく。代わりに、新しい光が俺の正面に集まってくる。乾いた割れる音は二度、三度と続き、画面の隅から細い線のような文字が、列をなして流れ込んできた。読めない言語の混ざった、長い羅列だ。
新しい板が、俺の前に組み上がっていく。表層の数値が下に追いやられ、上半分にまだ読めない文字列が並ぶ。一行目だけ、ようやく形になった。
──真ステータス。
俺の頬が、ようやく笑う形を思い出した。
「……なるほど。これは──外れ枠じゃ、ないらしいな」
塔の窓の外、合同演習の鐘が、明朝の予鈴を鳴らしはじめていた。