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空読みの追放者、世界の理を読み解く

第1話 第1話

第1話

第1話

水晶球に掌を当てた瞬間、汗が冷たい玉の表面に滲んだ。

第七神殿、神託の儀。床のラピスラズリは三百年磨かれた光沢を保ち、香炉から立ち昇る乳香の煙が、天井の星座図のあたりでゆっくりと揺れている。老いた神官の指が水晶を一度撫でた。鈍い音とともに、玉の中央に文字が浮かぶ。

「――《空読み》」

神官の眉根が寄った。儀式の場が、一拍だけ静まる。

「《空読み》、です。固有スキル……ですが、効果不明。歴代の記録にも前例がございません」

俺、レイドの背後で、勇者候補ガイルが鼻先で空気を切るように笑った。三年間、同じ訓練場で剣を交え、同じ食堂で麦粥を啜った男の声が、いまは知らない言葉のように耳の奥で響く。

「効果不明? それ、ハズレってことだろ、神官殿」

「ガイル様、しかし……」

「いいさ、判定はわかった。レイド」

ガイルが俺の肩を叩いた。叩いたつもりだろうが、力が乗っている。骨が軋む音がして、俺は一歩よろめく。

「お前は今日でパーティから抜けろ。お荷物を抱えて魔王城まで歩く余裕はない」

「――待って!」

声が割って入った。聖女リズ。空色の祭服の裾を握ったまま、青ざめた頬で俺とガイルを見比べている。

「《空読み》は、用途が判定されていないだけよ。魔王軍にも未解析のスキルはあるって、教典にも――」

「リズ」

ガイルが一言、彼女の名前を切るように呼んだ。それで終わりだった。

リズの唇が薄く震え、握った祭服の布に皺が増える。彼女は俺を見なかった。見なかったというより、見られなかった、という顔だった。視線を伏せたまま、彼女の喉が一度、嚥下するように動いた。何かを言いかけて、飲み込んで、それでもまだ何かを言いかけて、結局、唇は閉じられた。香炉の煙の向こうで、彼女の祭服の刺繍が、わずかに揺れる。それを最後に、俺の視界からリズの姿は神官の背に隠された。

王都の北門を出てから二刻、護送の馬車は街道を外れた。

帆布の幌の隙間から、松脂の匂いと湿った苔の匂いが交互に流れ込んでくる。御者は無口な傭兵で、俺の名前を一度も呼ばなかった。番号で呼ばれた囚人が、こんな気分なのかもしれない。車輪が小石を踏むたびに腰の骨が浮き、荷の縄目が肋骨の同じ位置を擦った。日光は幌の縫い目から細い線になって落ち、その筋の中で埃が静かに回転している。

「ここで降りろ」

辺境の森――地図には「灰の森」とだけ書かれる、Aランク魔物の生息域。馬車が止まったのはその縁、街道の終端だった。傭兵が顎で外を示す。

俺は鋼鉄の篭手を外し、勇者候補証の銀章を返した。腰の長剣を鞘ごと預け、革鎧の留め金をひとつずつ外していく。指先がかじかんで、最後の留め具を解くのに数秒かかった。

「下着以外は持って行け、と勇者様の御達しだ。路銀はなし」

「……短剣は」

俺は荷の底に転がった刃を指差した。刃こぼれした、訓練用の予備。傭兵は鼻を鳴らして、鞘ごと足元に放った。

「持っていけ。どうせすぐ折れる」

馬車の梶棒が回り、車輪が泥を撒いて遠ざかる。残ったのは俺と、鞘の革紐がほつれた短剣一本。

それから、首にかけたままの細い銀鎖。

リズが八歳のとき、神殿祭で当てた景品だった。チャチな出店の銀鎖だ。彼女が「お守りに」と俺に押しつけてきた日、俺は十一で、まだ剣の重さを片腕で持てなかった。鎖を首に下げて、俺は冒険者になると約束した。彼女は聖女になって、俺と魔王城まで行くと言った。

三年間。勇者候補の訓練を共に受け、互いの腕の傷の数を数え合った三年間。最後の一刻、リズの目は俺を見なかった。

灰の森の入り口で、俺は短剣を腰に差す。

風が変わった。湿気を孕んだ西風が森の奥から吹き降りてきて、雲の腹をひと撫でする。雨が来る。長い雨だ。空の縁が灰色に滲み、遠雷の気配が腹の底でかすかに震える。鳥の声がない。気づいたときには、森の縁は咆哮ひとつ分だけ静かになっていた。

俺は森に踏み込んだ。

最初の魔物――角兎の群れが下生えで跳ねた。短剣で薙ぎ払うと、一匹は逃げ、一匹は刃が骨に弾かれて返した。手応えが軽い。三年間磨いた長剣の重さが掌に残ったまま、目の前の鈍い刃を裏切る。掌の中で柄が浮く。重心が指三本ぶん、こちらに寄りすぎている。長剣なら、振り抜いた先で重さが俺を引いてくれた。短剣は、俺自身が刃の重さにならなければ、何も斬れない。

「……ハズレ、か」

ガイルの声が脳裏で笑う。お荷物。効果不明。

進む先に道はない。木々の根が張り出した斜面を、俺は何度も足を取られながら下りた。革のブーツに泥が染み、爪先が冷えていく。膝の古傷――勇者候補の最終試験で負った裂傷――が、湿気で疼き始めた。痛みは古い友人のように律儀で、雨が降るたびに同じ場所で同じ強さで顔を出す。あの試験の日、隣で剣を構えていたのはガイルだった。背中合わせで魔像を斬ったあの瞬間の、互いの呼吸の合い方を、俺はまだ覚えている。覚えていることが、いま、いちばん重い。

雨は夕刻前に来た。

最初は梢を叩く点描だった。やがて葉の間隙を抜けて落ちる線になり、最後は前後の輪郭を消す壁になった。土砂降り。雨脚が革鎧を持たない肩を直接打ち、肌が一瞬で冷える。呼気が白くなり、視界の中で雨粒が一斉に同じ角度で落ちる。睫毛に水滴が溜まり、瞬きのたびに視界が割れる。シャツが肌に張りつき、銀鎖の金具が胸骨の上で小さく跳ねた。

森の奥から、低い咆哮が聞こえた。

魔物だ。それも、角兎やゴブリンの域ではない。風に乗って届く声の重さで、体格と肺活量がわかる。Bランク以上――最悪、Aランク。三年間の訓練で叩き込まれた識別が、こんな場面で役に立つ皮肉に、俺は唇を歪めた。

走る。走るしかなかった。

下生えの棘が脛を裂き、革ブーツの中で泥がぐちゅりと潰れる。短剣の柄を握りしめた指は、すでに感覚が薄い。古傷の膝が二度目で抜けて、俺は岩の根に倒れ込んだ。額が苔の塊にめり込み、鉄錆と腐葉土の味が口に広がる。

立ち上がる。また転ぶ。三度目には、立ち上がる動作の途中で膝が笑った。四度目には、地面と空の区別が一拍だけ曖昧になった。雨が顔の上を流れ、目尻から耳へ、耳から襟首へと滑っていく。冷えは末端から中心へ、確実に染み込んでくる。

幾度目かの転倒で、俺は立ち上がるのを諦めた。

膝が、苔の上で泥水を吸う。短剣を地面に突き立て、その柄に額を預ける。雨が後頭部を叩き、髪の先から滴が顎へ伝う。胸の中央で、銀鎖の小さな金具が冷えていた。

──死ぬのか、俺。

声に出したつもりだったが、雨音に攫われて自分の耳にすら届かない。三年間、俺は何のために剣を握ったのか。十一で約束した相手は、最後に俺の名を呼ばなかった。十四で勇者候補に選ばれた日、神殿の階段で泣いたリズは、十七のいま、俺を見送ることすらできなかった。

呪いたかった。ガイルを、神官を、神を、無能スキルを。

だが、呪うには、息が足りなかった。

吸っても吸っても、肺の底まで空気が届かない。胸郭の奥で、何かが重く沈んでいく。指先まで血が通わず、握った短剣の柄の感触が、革ではなく濡れた木の枝のように遠い。瞼が重い。閉じてしまえば、たぶん、楽になる。

雨粒が一つ、目の前の苔の上で跳ねた。

なんとなく、俺は指を伸ばした。理由はない。倒れた獣が手近の小石を引っ掻くような、そういう動きだった。指先が、落ちてくる雨粒の軌跡に触れる。

その瞬間。

世界の見え方が、ほんの一拍、ずれた。

雨粒の落下角度、空気の抵抗、上空の風層――そういうものが、文字の連なりのように、頭の隅を撫でて、消えた。次の雨粒の落下点が、触れる前から、わかった。風が梢を揺らす前に、葉の傾きの順番が、わかった。森全体の空気の流れが、目に見えない地図のように、額の裏側にひととき展開して、霧散した。

錯覚、だろう。

俺は雨に打たれたまま、もう一度、指を雨粒の軌跡へ重ねようとした。

森の奥から、二度目の咆哮が地を揺らす。

今度のは、明らかに、こちらを目指していた。

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