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空読みの追放者、世界の理を読み解く

第2話 第2話

第2話

第2話

二度目の咆哮が、肋骨の内側を直接揺らした。

俺は短剣の柄に額を預けたまま、まだ伸ばしたままの右手の指先を見ていた。雨粒の軌跡に触れた指。あれは錯覚だ。低体温で混濁した脳が見た幻と片付けるのが正しい。三年間の訓練で、極限状態の人間がどれだけ都合のいい幻覚を見るかは、嫌というほど叩き込まれている。

それでも、指は動いた。

死ぬ前にもう一度同じ幻を見て笑いたかったのかもしれない。雨粒が、また一つ、目の前の苔の上に落ちた。俺は指先を、落ちてくる次の一粒の軌道へ重ねる。

──雨粒、質量〇.〇四グラム。落下速度毎秒七メートル。上空二百歩地点で南西の風に〇.三度押された。

文字ではなかった。声でもなかった。ただ、それが「わかった」。指が触れる前の雨粒の落下点が、額の裏側に光の点として置かれ、消えた。

「……」

俺は息を止めた。

短剣の柄を握り直す。雨に濡れた指は感覚が薄い。だが、薄いまま、研ぎ澄まされていく。閉じかけた瞳孔が、奇妙に開いていく感じがする。肺の底に張り付いていた疲労の膜が、一枚ずつ薄く剥がれていく。寒さは寒さのままなのに、その輪郭が指で触れられるほど明瞭で、まるで別物になっていた。死にかけている自覚があるのに、これまでの人生で一番、自分の体の隅まで、その在処を把握している気がした。

もう一度、指を伸ばした。今度は雨粒ではなく、その隙間を縫う風に。

──西風、湿度九割、温度十一度。二町先で梢に当たって乱流。その先で渦になり、北東へ抜ける。

──土壌、苔三層。下に腐葉、下に石灰岩。歩行音が最も響かない経路、左斜め前、岩の根を二歩。

──魔素、森全体に薄く滞留。濃い澱み、北東四百歩、地表から二十歩高い岩棚。咆哮の発生源と一致。

霧が引く感覚がした。

これは、ハズレなんかじゃない。

俺は膝に力を入れた。古傷が悲鳴を上げたが、その悲鳴すら「読めた」。関節の屈曲角度、体重の偏り、立ち上がる順序――情報が並び、最適解が動きに先回りする。

立った。

雨が後頭部から襟へ流れ込み、銀鎖の金具を冷やす。指先で胸の鎖を一度握り、放した。

「効果不明、ねえ」

声に出してみた。今度は雨音に攫われなかった。自分の声が、ひどく明瞭に耳の中で響く。

──息、毎分十六。脈、毎分九十二。呼気と外気の温度差、三度。

自分の身体まで《空読み》が拾った。鼻の奥に鉄錆の味が戻ってくる。さっき苔に額をめり込ませたときに、舌の先を切ったらしい。痛みより先に、傷の浅さと出血量が頭に浮かんだ。三日で塞がる。

(……視るスキル、じゃないのか)

腑に落ちた。

神官の眉根が寄った理由が、わかる。前例がない、と彼は言った。当然だ。これは透視でも未来視でもない。空気の動き、雨の軌道、土の硬さ、魔素の濃淡、自分自身の鼓動――この場に並んだ情報の全てを、紙に書かれた文字のように、ただ「読む」スキル。

判定不能なのは、効果が低いからじゃない。基準が違うからだ。基準を作る側に、誰一人としてこのスキルを置いたことがなかった、それだけのことだ。歴代の鑑定士は「攻撃」「防御」「補助」の枠で水晶球を読む。俺のスキルは、その枠の外側に座っていた。枠を持たないものを枠の中に押し込めようとすれば、当然、刻まれる文字は「不明」以外にあり得ない。

ガイルの嘲りが、急に遠い。

俺は試しに、視線を森の奥へ向けた。雨と闇の壁。三年前なら、そこに何があるかを知るには、剣を抜いて踏み込むしかなかった。

──雨粒の落下軌道、四十歩先で乱れあり。体温が空気を温め、上昇気流が雨脚を撓ませている。体格、人ではない。 ──二十歩離れた位置にもう一体。重さが軽い。脚四本。小型獣。 ──さらに八十歩奥、地の振動。三体。集団。

闇の中の生命の配置が、地図の上に駒を置くように、見える。

息が、震えそうになった。怖くて、ではない。

(……楽しみで、震えそうだ)

頭の中の冷めた俺が呆れる。膝が泥水を吸い、唇が紫に変わりかけている男が、何を笑っているのか。

そのときだった。

風向きが変わった。

──北東、岩棚方向。風下に立たれた。

肌の毛穴が一斉に立つ。「敵意」が、空気の中の他の情報と一緒に流れ込んできた。これは比喩じゃない。生物の発する殺気が、皮膚に届く前に、空気の振動として読まれる。

距離、三百八十歩。質量、推定四百貫。歩幅、人の三倍。爪先が地を蹴る間隔から、四足歩行。呼気に毒素――硫黄系。

毒竜だ。

ヴェノムドレイク。Aランク魔物。三年前、王都北の山岳地帯で第三騎士団を半壊させた個体と同種。教本の挿絵で見た咆哮の周波数と、いま腹に響いた波形が、頭の中で重なる。

逃げる、という選択肢が一瞬かすめ、即座に消えた。

──風下、足元は泥、背後は崖。逃走経路、北西の獣道のみ。獣道の先、二百歩で開けた湿地。湿地は走れない。距離六十歩で尾撃の射程に入る。

逃げ切れない、と《空読み》が告げる。

ふつうなら絶望が来るはずの結論だった。だが、頭の芯が凍るような冷静さで、その一行を受け取っている自分がいる。情報が並んでいるだけで、心は不思議と凪いでいた。

なら、と俺は短剣を抜いた。

刃の鈍い銀が、雨を弾いて光る。訓練用の予備、刃こぼれあり。三年間握ってきた長剣に比べれば、紙細工のおもちゃだ。

それでも、握る。

──毒竜の鱗、首と腹に薄い継ぎ目。喉の真下、第三鱗と第四鱗の間に、吸気のたびに開く隙間。深さ、指二本分。短剣の刃渡りで届く。

届く。

俺は息を吐いた。長く、ゆっくり。

膝の古傷が、これまでで一番深く疼いた。疼きの場所を、《空読み》が組織の継ぎ目の薄い順に並べてくる。踏み抜いてもいい靱帯と、温存すべき腱が、別の色で頭の裏に並ぶ。痛みは消えないが、痛みの「使い方」が、初めて見えた。剣を構えた瞬間、勇者候補の最終試験で背中合わせに立った男の重みが、ふと、左肩のあたりに戻ってくる。あの日、ガイルの背は熱かった。汗で湿って、互いの呼吸が同じ拍子で揃っていた。

その背を、今日、俺は失った。

「……ガイル」

口の中で、その名前を一度だけ転がした。呪詛でも、感傷でもない。リハーサルだった。これから立ち上げる新しい歩幅に、過去の重さがどこまでぶら下がるかの確認。

重さは、思ったより軽かった。三年間ずっと胸を圧していたはずの記憶が、いまは肩のあたりで一度止まり、それより先へは降りてこなかった。

三年は長いが、無限じゃない。

俺は短剣を逆手に持ち替えた。柄頭で苔を一度叩き、雨で滑る指の摩擦を確かめる。

──毒竜、移動開始。第一段階、岩棚から滑降、所要十二秒。第二段階、森縁での加速、所要七秒。第三段階、視認後の突進、所要四秒。

合計、二十三秒。

二十三秒で、俺の「効果不明のスキル」が、最初の獲物に試される。

雨脚がふっと弱まった。毒竜の通り道に当たる梢が、上から押される。風圧で揺れる葉の角度を、《空読み》が連続写真のように脳裏に並べる。岩棚を蹴った。森縁の灌木が割れた。第二段階、加速中。

俺は岩の根を二歩、左斜め前へ移動した。さっき読んだ、歩行音が最も響かない経路。足裏で踏む苔の沈み込みが、ほぼ無音に収まる。短剣を逆手のまま、右肩の後ろに引きつける。雨が刃の腹を伝い、柄の革紐に染みていく。

匂いが先に来た。

硫黄と、腐肉。鼻腔の奥が灼ける。胃の底がせり上がる吐き気を、奥歯で噛んで押し戻す。

下生えの向こうで、緑の影が膨れた。葉の一枚一枚に毒の匂いが染みつき、雨粒すら弾かれるように軌道を歪める。森全体が、その存在を中心に呼吸を一拍だけ止めた。

毒竜は、思ったより低い姿勢で来た。腹を地面に擦る突進。Aランクが小物相手に取る、最も効率のいい狩りの形。鱗の一枚一枚から雨が弾け、口の端から黄緑の毒液が糸を引く。

目が合った。

縦に裂けた瞳孔が、俺の喉笛を狙って絞られる。

その瞳孔の収縮速度から、突進の踏み込み足が左前であることまで、《空読み》が読んだ。

俺は微笑んだ。たぶん、自分でも知らなかった笑い方だった。

「──効果不明のスキル、試させてもらう」

声は雨音に紛れた。だが、毒竜の耳には届いたらしい。喉の奥で、低い振動が起きる。咆哮の前兆、肺の膨張。第三鱗と第四鱗の間に、指二本ぶんの隙間が、開く。

そこに、刃を入れる。

俺は地を蹴った。古傷の膝が、悲鳴ではなく号砲のように鳴った。短剣の切っ先が、雨を切り裂きながら、毒竜の喉笛と空気を共有する高さへ持ち上がる。

二十三秒の最後の四秒が、いま、始まった。

灰の森で、誰にも看取られずに死ぬはずだった男が、Aランク魔物の喉笛へ、最初の一刺しを刻みに踏み込んでいく。

雨は、まだ降っていた。

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