第3話
第3話
刃の切っ先が、毒竜の喉笛へ向けて雨を裂いた。
その瞬間、《空読み》が手首の中に割り込んだ。
──第一鱗の縁、外向きに〇.三寸の突起。直撃で刃が折れる。
頭で考える前に、指が動いた。手首だけで角度を変え、短剣の腹を突起へ滑らせる。火花が雨の中で青白く散り、鈍い金属音が湿った空気に飲まれた。鉄の焦げる匂いが鼻先をかすめ、舌の奥に錆の味が広がる。手のひらに伝わってきたのは、刃が折れるすれすれの、あの薄氷を踏む手ごたえだった。
刃は喉笛をわずかに逸れ、頸の側面を浅く裂いただけで終わる。黒い血が一滴、刃の根元から雨に溶けて流れた。
致命傷ではない。
だが、毒竜は初めて俺を「敵」として認識した。
縦に裂けた瞳孔が拡張する。喉の奥で、咆哮の前のあの低い振動が再び湧き、鱗の一枚一枚が逆立った。鱗と鱗が擦れる音は、研ぎ石を引きずるような、骨の奥まで届く乾いた響きだった。
──毒霧、噴出予備動作。所要〇.八秒。射程、扇形に十二歩。風下、こちら側。
俺はもう動いていた。
苔を蹴る。古傷の膝が泥に潰れ、肩の革袋が岩角で裂ける。革紐がほつれる音と、頭上を黄緑の霧が薙ぐ音が、ほぼ同時に鳴った。葉が触れた瞬間に縮み、苔が筋になって溶ける。鼻腔の奥が焼け、奥歯がぎりと噛み合う。息を止めたまま、俺は岩陰でうずくまった。岩肌の冷たさが背中の革を通して肩甲骨に染み、汗と雨の混ざった水滴が顎の先からぽとりと落ちる。心臓の音が、耳のすぐ内側で太鼓のように鳴っていた。
──毒霧、滞留時間七秒。北東風で蒸散、残三秒。
数える。
血の味が舌に戻る。古傷が膝の皿の縁で熱を持ち、その熱が脛を伝って爪先まで降りていく。ガイルが見たら、まず嗤っただろうな、と思った。お荷物が、毒霧から逃げて岩陰で震えている、と。あの男の高笑いが、岩の向こうから聞こえてくるような気さえする。指の腹で柄を握り直す。革紐が雨で膨らんで、いつもより太く感じた。
三、二、一。
岩陰から踏み出した瞬間、《空読み》が連続写真のように景色を並べた。
──毒竜、左前脚を引きながら半身を捻る。次の動作は、尾撃。 ──尾の運動、初動〇.四秒で大気を割る。射程、岩陰を含めて二十一歩。 ──回避経路、毒竜の懐へ二歩、その内側。
懐へ?
頭で疑問が浮かぶ前に、足が動いた。古傷の悲鳴を踏み越え、俺は毒竜の腹の真下へ滑り込む。
二歩。
頭上を、緑の鞭が薙いだ。
風圧が髪を撥ね、雨粒が一瞬だけ水平に流れる。背後の岩が、尾撃で半ばから砕け、苔と土と石灰岩の破片が降り注いだ。俺がさっきまでいた場所には、深い溝が一筋、掘られている。砕けた石灰岩の白い粉が、雨に溶けて泥へと吸い込まれていく。背筋を伝う冷たい汗の筋が、自分のものか雨のものか、もう判別できなかった。
毒竜の腹の下。鱗が薄く、皺が走り、湿った肉の匂いがする。短剣の柄を握り直す。ここで上に突き刺せれば、心臓に届く――そう、教本には書いてある。
──腹部第二鱗、厚さ三寸。心臓まで距離六寸。短剣の刃渡り、四寸。届かない。
教本は、あてにならない。
俺は逆方向へ転がり出た。毒竜の前脚の踵が地を踏みしめ、その爪が泥にめり込む音が、すぐ右で鳴る。立ち上がりざまに振り返ると、毒竜は俺の動きにぎこちなく反応し、首を捻って視線を追っていた。Aランク魔物の動きが、ぎこちない。
──毒竜の脳の処理速度、想定より遅い。視覚情報の更新、〇.三秒の遅延。
それは、《空読み》が淡々と告げた事実だった。同時に、俺は気づく。こいつは、俺の動きを「読めて」いない。岩陰から踏み出した俺が、尾撃の射程内に入ると判断したまま、尾を振り抜いた。だが俺は、尾撃の予備動作を〇.四秒前に読んでいた。動作が起こる前に、もう懐に入っていた。
差分は〇.七秒。
人間の反射神経でいえば、致命的な差。
「……なるほど」
声が出た。雨の中で、自分の声が、初めて温かい。喉の奥に詰まっていた何かが、ほどけて、薄く笑いに変わる。三年間、ガイルの背中を追って息を切らしていた男の喉から、こんな静かな笑いが出るとは、自分でも思わなかった。
毒竜が再び咆哮する。今度は怒りだった。喉の奥の振動が、肺の膜を直接揺すってくる。耳が痺れ、平衡感覚が一瞬ぶれた。視界の端で雨粒の軌道が二重にぶれ、足裏の感覚が泥の中に溶けかける。
──咆哮、衝撃波あり。半径八歩で平衡感覚に干渉。 ──次の動作、突進、所要二.一秒。
俺は短剣を逆手から順手へ持ち替えた。雨が柄に染み、革紐が指に張りつく。胸の銀鎖が一度跳ね、肌に冷たく当たる。
リズの顔が、一拍だけ脳裏をかすめた。
香炉の煙の向こうで、彼女の唇は閉じられた。あれは、彼女が俺の名を呼ばなかった顔だ。覚えているうちは、たぶん、俺の中にまだ未練がある。未練は重い。重いものを背負って、毒竜の喉笛には届かない。
俺は胸の鎖を一度、握り直した。握り直して、放す。指先に残った金属の冷たさが、雨でゆっくりと洗われていく。
意識は、いま、毒竜の鱗の継ぎ目だけにある。
毒竜が地を蹴った。
突進、二.一秒。
その二.一秒のうちに、《空読み》は四十八枚の写真を並べた。
──第一段階、加速〇.六秒。前脚二歩、後脚一蹴。 ──第二段階、加速度頂点〇.五秒。鱗の摩擦音、最大。視界、毒霧の残滓で〇.二秒だけ遮蔽。 ──第三段階、衝突直前〇.八秒。喉の鱗、第三と第四の継ぎ目、最大開口時間〇.一二秒。 ──第四段階、衝突〇.二秒前、首の伸び、頂点。
俺は順手の短剣を、もう一度、逆手に戻した。
逆手の方が、上から下へ突き降ろす力が乗る。雨に濡れた指の感覚が薄くても、肘の重みで刃を導ける。
足裏で泥を読んだ。岩棚から流れた雨水が一筋、俺の靴の右側へ流れている。三歩踏み出して左足を前にすれば、滑らない。さらに膝を一度沈めれば、毒竜の突進の最後の〇.二秒で、ちょうど喉の継ぎ目の高さに刃の切っ先が来る。
来る。
毒竜の前脚が地面を抉った。雨が一瞬だけ地から逆立つ。鱗の摩擦音が雷鳴のように雨を裂き、視界の中で巨体が膨らんだ。腐肉と硫黄の入り混じった息が、雨を割って先に届く。鼻の奥がひりつき、目の縁に涙がにじんだ。
俺は踏み込んだ。
一歩、二歩、三歩。
左足が泥水の筋を避けて、苔の固い箇所に着地する。膝が沈み、古傷が音もなく脱臼しかけて、また戻った。痛みは情報になり、情報は動作になり、動作は刃の角度になる。痛みを呪うのではなく、痛みを使う。三年かけても出来なかったことが、いま、息ひとつぶんの間に起きていた。
毒竜の首が伸びた。喉の鱗が、開く。
第三と第四の継ぎ目。指二本ぶんの隙間。
そこに、俺の短剣の切っ先が、いま、向いている。
距離、〇.四歩。
刃と継ぎ目の中心が、雨の一粒の軌道よりも正確に重なった瞬間、俺は息を止めた。
肺の中の空気が動かなくなる。心臓の鼓動が、《空読み》の中で〇.九拍ぶんだけ遅れた。
──いまだ。
短剣を、突き降ろす。
刃こぼれだらけの、訓練用の予備。三年間握ってきた長剣ではなく、御者に「すぐ折れる」と鼻で笑われた、錆びた短剣。
その切っ先が、Aランク魔物の喉の鱗の隙間へ、一直線に落ちていく。
毒竜の縦の瞳孔が、初めて、揺れた。
雨が、止まった気がした。
実際には、雨はまだ降っている。降っているのに、世界の音だけが、刃が継ぎ目に触れた瞬間、静寂で塗られた。
刃先が、第三鱗の縁に当たる。
──貫通、確率九十二パーセント。
九十二。残り八。
その八の中に、俺の刃が折れる未来も、毒竜の喉が逸れる未来も、毒霧の二度目の噴出が間に合う未来も、含まれている。
知ったことか。
俺は、短剣の柄頭に全体重を乗せた。古傷の膝が、最後の一押しを引き受ける。胸の銀鎖が肌の上で一度跳ね、リズの八歳の声が、雨音の向こうで、なぜか聞こえた気がした。
「お守りに」
刃が、鱗の継ぎ目へ、沈み始める。
灰の森で、誰にも看取られずに死ぬはずだった男が、Aランク毒竜の喉笛へ、最初の致命の一刺しを刻もうとしていた。
──そして、その刹那。
視界の隅で、《空読み》という文字が、雨に滲むように、揺らいだ。