第1話
第1話
水晶玉に額を当てた瞬間、こめかみの血管が、ぴし、と鳴った。 継承儀の広間。床石は冷えていて、靴底ごしにも膝まで上がってくる。鑑定石は俺の手のひらの下で青白く震えるが、いつも通り、何も読み取れない。 司祭が、ゆっくりと読み上げる。 「ノア・フォン・ヴァルムント。鑑定値、武勇——」 間。 「——1」 ざわめき。 「魔力——1。指揮——1。資質——1」 四つ並んだ。義母の扇が、ぱちん、と閉じる音が、長兄の咳より先に届いた。 「あらまあ。今年も“1”の壁は越えられないのね、ノア」 俺は水晶から手を離し、指先の冷たさを掌で握り潰す。十六歳。三男。今日のために十年、剣も書も、誰にも見せずに磨いてきた。だが、ここで「1」しか出ない以上、磨いた分だけ俺の中で錆びていく。 長兄が肩を揺らして笑った。次兄は咳き込むふりをして俺を見ない。父——辺境伯ヴァルムントは、玉座のような椅子に背を埋めたまま、扇のひと振りで沈黙だけを下した。 「ノアよ」 父の声は、低く、よく響いた。 「我が家門に、鑑定値オールワンの男児を、置く名分はない」 名分、と父は言った。愛情、ではない。 息を吸うと、広間の空気は、鑑定石の燐光と、義母の香水で、舌の奥が痺れた。床石の継ぎ目の埃が、俺のつま先のすぐ前で、誰かの靴跡に踏まれている。きっと、俺が呼ばれる前に、見届け人が、退場の動線を確かめに歩いた跡だ。 ——なるほど。 俺の追放は、もう、三日も前から決まっていたわけだ。
「——以後、ヴァルムントの名を名乗ることを禁ずる。形見ひとつを持って、本日中に屋敷を発て」 義母が、唇の端だけで微笑んだ。 「あらまあ、ご温情ね、あなた。普通なら鎖か牢のところを」 長兄が囁く。「鑑定石を割らなかっただけ、まだ家への忠誠は買ってもらえる」 次兄は、扇の陰で、肩を竦めた。「兄上、彼の身体のほうが先に割れますよ。あの細さでは」 俺は、視線を落とした。両膝の上に置いた手の甲が、骨っぽい。継承儀の正装の袖口から、痩せた手首がのぞいて、自分でも、これは武人の手ではないな、と思う。十六で、身長は同年の半人前、肩幅は二回り狭い。鏡を覗くたびに、母にだけ似ている、と乳母が泣いた、その顔。 俺は、ゆっくり、立ち上がった。膝が、軋む。腿の裏に、冷えた床石の感触が、まだ残っていた。 「父上」 声は、自分で思っていたより、低く出た。 「形見、ひとつだけ。母上の遺品から、頂戴いたします」 父が、わずかに眉を動かした。義母の扇が、ぴたり、と止まる。 「——好きにせよ」 父はそれだけ言って、目を閉じた。退場の合図だった。
母の私室に、十年ぶりに踏み入った。 扉を押すと、蝶番が、苦しそうに鳴った。埃の匂いの底に、まだ、母の使っていた香油の——乳母が「冬桜」と呼んでいた、甘い気配が残っていた。鼻の奥で、何か熱いものが押し上がってきたが、頬の内側を噛んで呑み下す。今、泣いたら、二度と歩けなくなる。 カーテンは、十年前のまま、半分閉じられていた。窓辺の机の角に、母が最後に置いたのだろう、白磁の小さな水差しが、干上がって、底に薄い茶色の輪を残していた。寝台の天蓋の絹が、埃の重みでわずかに垂れ、その下の布団は、誰かが几帳面に整え直したばかりのように、しわひとつなく伸ばされていた。——きっと、乳母が、毎月、ひとりで来ていたのだ。十年、ずっと。そう思った瞬間、また喉の奥が、ひりひりと、痛んだ。 化粧台の鏡には、白い布が掛けられていた。母が亡くなったあの夜、誰かが——たぶん、また、乳母が——掛けてくれたのだろう。布の端が、長い年月で、わずかに黄ばんでいる。俺は、布を、外さなかった。今、母の顔に似た自分の顔と、向き合う勇気は、ない。 化粧台の、二段目の、引き出しの奥。乳母が「お母さまが、ノア坊ちゃまにと」と何度も囁いてくれた、銀の指輪。掌に乗せると、指輪は、思っていたより、ずっと重かった。表に細い古代文字の線が一筋、刻まれている。意味は、まだ、分からない。 銀の表面は、薄く曇っていた。指の腹で拭うと、古代文字の溝の中だけ、墨を流し込んだような濃い影が、はっきりと浮かび上がる。文字は、一筋に見えて、よく見れば、三つの記号が、ほどけかけた糸のように繋がっていた。読めない。けれど、見つめていると、その線の歪みが、母の細い指先の癖を、なぜか、思い出させた。 「——お持ちします、母上」 俺は囁いて、指輪を、左の小指に通した。指の冷たい肉に、銀が、噛みつくように冷えた。それから、ゆっくり、指の体温を吸って、馴染んだ。 廊下に出ると、乳母が、柱の陰で待っていた。顔は、涙で歪み切って、ほとんど崩れていた。 「坊ちゃま——これだけは。どうか、後ほど、ひとりのときにお開きください」 押し付けられたのは、革表紙の、薄い手記。母の字、だ。一目で分かる。 「乳母」 「ノア坊ちゃま、お母さまは——」 「言わなくていい」 俺は、手記を懐に押し込んだ。「いつか、ひとりのときに、聞きます。今、聞いたら、俺は、屋敷を出る前に泣いてしまう」 乳母は、口元を両手で覆った。
屋敷の門は、俺が出るまで開けられ、出たあとはすぐに閉ざされた。錠の落ちる音が、背中で、こん、と低く鳴った。 振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、もう、足が動かなくなる。 領都の門までの石畳は、長かった。すれ違う領民が、俺の正装の襟章を見て、目を逸らす。「ヴァルムント家の三男坊だ」「あの“1”の」——囁き声が、後ろから追ってくる。 慣れている、と自分に言い聞かせた。 でも、靴の中で、足の指の付け根が、もう、痛んでいた。 領都を抜けると、街道は、すぐに北の森へ吸い込まれていく。空が、低く、灰色のうえに灰色を重ねた。北からの風が、まだ秋の終わりのはずなのに、冬の歯を含んでいた。継承儀の薄絹の上着では、林の中に入った瞬間、寒さが背骨を駆け上がってきた。 雨が落ち始めたのは、街道が獣道に変わってからだ。 最初の一粒が、額の真ん中に当たった。 その瞬間——視界の端で、古代文字に似た細い線が、ちらり、と揺れた気がした。瞬きで消える。 「……気のせい、か」 俺は呟いた。 左の小指の、母の指輪が、指の体温より、少しだけ熱い。
森は、深かった。 苔の匂い、濡れた落ち葉の匂い、雨が枝にぶつかるたびに散る、薄い金属のような水の匂い。靴底の革が、二歩ごとに、ぐじゅ、と泥を吐いた。 懐の手記が、雨で濡れないよう、上着の前を抱きしめる。胸の前で、指輪の銀と、革の手記が、二つの心臓みたいに重なっていた。 乳母の最後の声が、耳の奥で、ぐるぐる回っていた。 ——お母さまは、坊ちゃまを、本当は—— その続きを、俺は聞かないと決めて、屋敷を出た。 決めたのに、足が、勝手に、聞きたがっていた。
雨脚が、急に、強くなった。 獣道の右手は、いつの間にか、急な下り斜面になっていた。視界の半分を、白い雨が遮る。それでも、俺は、止まらなかった。止まったら、振り返りたくなる。振り返ったら、もう、歩けない。 ふと——左の小指の、銀の指輪が、ぐっ、と熱くなった。 「あ——」 古代文字の線が、今度ははっきり、視界の右上に、滲んだ。 線は、ひとつ、ふたつ、みっつ——次々に増えていく。文字は、雨粒のあいだを、燐光のように、青白く、繋がりあって、何かの形を、描き始めていた。 俺の踏み込んだ足元で、苔の塊が、ずるり、と外れた。 体が、後ろへ、引き抜かれる。 手記。指輪。母の声。継承儀の灰色の天井。義母の扇の、閉じる音。——その全部が、頭の中で、瞬きの間に重なって、それから、四方の景色が、回転した。 崖の縁の岩が、頬をかすめていく。 雨が、上から、横から、下から殴ってくる。 枝が、肩を打った。次の瞬間、また別の枝が、背中を裂いた。木の葉と泥と、自分の血の鉄の匂いが、口の中で、混ざって、舌の上で、奇妙に、しょっぱかった。視界の隅で、灰色の空が、回転を続けている。上下が、もう、分からない。 左の小指の指輪が、皮膚を焦がすほど、熱い。胸の前の手記が、抱きしめた腕の中で、ぐらりと、内側から押し返してきた気がした。 俺は、落ちていた。 落ちながら——視界の中央に、誰かが書いた古代文字が、ゆっくりと、灯り始めるのを、見た。