第2話
第2話
舌の上で、泥が、ざらりと割れた。 次に、肺が、咳で、内側から殴られた。 三度目の咳で、口の端から、糸のような血が、雨と一緒に、こめかみの方へ流れた。鉄の味と、土の味と、腐りかけた葉の味が、舌の付け根で、混ざり合う。 雨は、まだ降っていた。雨粒は、横向きに、頬と耳を打っている。横向き——いや、違う。俺が、横たわっているのだ。背中の下に、湿った苔と、尖った木の根。右の腕は、肘の少し上で、自分のものでないみたいに、外側へ折れている。 苔の冷たさが、上着の薄い布地を抜けて、肩甲骨の隙間まで、染み込んでいた。木の根は、腰のすぐ脇で、何かを抱きしめるみたいに、こちらへ突き出している。指先を、ためしに、開いて、閉じてみる。動く。動くのに、自分の手という気が、しなかった。 崖下、か。 視線だけを、ゆっくり、上に這わせる。雨で滲んだ灰色の空の手前に、黒々とした岩肌が、垂直に立ち上がっていた。中ほどに、一本だけ折れた若木が、こちらに向かって、墜落の途中で固まったみたいに、突き出ている。あれに、たぶん、一度、引っ掛かった。それから、ここまで、転がり落ちてきた。距離は——測れない。十丈、二十丈。生きている方が、おかしい。 起き上がろうとした拍子に、肋の二本目が、軋んだ。骨は、たぶん、ひびくらいで止まっている。本当に折れたら、こうして声は出ない。喉から漏れた呻きが、自分の声ではない、どこか他人の動物のそれに聞こえた。 「……死ななかったのか、俺」 言葉のあとに、もう一度、肋の内側で、何かが軋んだ。痛みは、雨に冷やされて、輪郭の鈍い、重たい棒のようになっている。鋭く刺すのではなく、ただ、深く、押し付けてくる。 呟いた瞬間、目の奥が、ちかり、と光った。 雨粒の隙間に、青白い線が、ひとつ、ふたつ、みっつ——縦に、横に、結ばれていく。継承儀のあの瞬間、視界の端で揺れたあの線と、同じ。だが、今は、もう瞬きでは消えない。線は、雨を貫いて、俺の鼻先三十センチほどの空間に、ひとつの「窓」を編み上げていた。 雨粒は、その線に触れると、避けるように、左右へ、軌道を曲げている。窓の輪郭の周りだけ、空気が、ほんの一段、冷たい。風が止まり、雨音が遠のき、世界の中で、そこだけが、息を詰めていた。 古代文字の、ステータス窓。 文字の連なりは、最初は、薄い水紋のように、揺れていた。一画ずつ、誰かが、見えない指先で、空中に書いていく。形を覚えた瞬間に、線が、わずかに固まる。読めない、はずの文字なのに、目で追うだけで、意味が、骨の奥に、滑り込んでくる。 左の小指の、母の指輪が、皮膚を焦がす一歩手前まで、熱を帯びている。指の腹で押さえると、銀の表面の溝に刻まれた古代文字の、最後の一筋が、ぱきり、と内側から割れた。 雨の中で、確かに、音がした。
「——封、解除」 頭の真ん中で、誰でもない声が、そう告げた。男でも女でもない、もっと低くて、もっと遠い声だった。 一度だけ、声は、耳ではなく、頭蓋の内側を、なでていった。聴いた、というより、刻まれた、に近い。 次の瞬間、視界の「窓」は、それまで朧げに揺れていた古代文字を、一斉に、固く、書き直していく。文字は、もう、震えていない。冷えた鋼に刻んだような線で、まっすぐ、俺の方を向いていた。
ノア・フォン・ヴァルムント。 階位——神階。 武勇——計測不能。 魔力——計測不能。 指揮——計測不能。 資質——計測不能。
「……なるほど」 声に出してみたが、自分の喉は、笑っていなかった。 喉の奥が、薄く、塩からい。たぶん、血と、雨水と、何か別のもの。「計測不能」という四文字を、四回、目で、なぞる。なぞるたびに、心臓が、肋骨の内側で、ひとつずつ、別の場所を叩かれた気がした。 冷静に、と内側で言い聞かせる。継承儀で四回続けて「1」と読み上げられた、あの広間の床石の冷たさを、俺はまだ、靴底の裏で覚えている。義母の扇の、ぱちん、という音も、長兄の咳も、父の沈黙も。あれは、嘘だった、ということになる。 「1」「1」「1」「1」と、書記官が、感情のない声で、読み上げていった瞬間の、義母の口角が、ほんのわずか、上向いた角度。あれを、俺は、見ていた。見ていたのに、その日の夜、自分の部屋の窓を開けて、雪の積もった中庭を、ただ、長いこと、見下ろしていただけだった。 いや。 嘘、では、ない。 嘘なのは、儀式ではなく、儀式に出された側の、俺自身の表面だ。俺自身が、十六年、自分に向かって、嘘をついていた。 窓の下半分に、新しい行が、追加されていく。
保有スキル《偽装》——解除。 保有スキル《鑑定》——封、解除。 保有スキル《読解・古代神文》——封、解除。 保有スキル(————)——?
最後の一行は、文字の代わりに、空白だった。表示するための余白だけが切り取られていて、そこに、一瞬、冷たいものが通り抜けた。読まなくていい、まだ読むな、と、誰かに、肋骨の内側から、押し戻された。 「《偽装》……隠してたのか、俺自身を」 唇の血を舐めると、鉄の味の奥に、薄く、母の冬桜の香油の気配が——気のせい、と打ち消す。気のせい、で、いい。 母は、十年前の冬、寝台の脇に、その小瓶を置いたまま、目を閉じた。香油は、母の手首と、俺のこめかみと、指輪の銀の内側に、たしかに、残った。気のせい、で、いい——そう自分に言いながら、舌は、もう一度、唇の端を探していた。 右肘の折れた腕に、左手をそっと当てる。 《鑑定》が、勝手に、自分の身体を読み始めた。
肋骨、三本にひび。右上腕、複雑骨折。出血、許容内。生命残量——九五%。
「九五」 全身を木の根と岩で殴られて、九五。 継承儀の「1」が嘘なら、今のこの数字は、本当だ。 嘘の数字と、本当の数字。十六年間、毎晩、寝る前に頭の中で並べてきた「自分の値」が、いま、横一列に、書き換えられていく。算盤の珠が、冷たく弾かれる音が、雨の向こうで、確かに、鳴った気がした。 俺は、ゆっくり、左の手のひらを開いた。十六年、自分でも信じきれずにいた、痩せた、骨っぽい手。雨に濡れて、生白く光っている。だが、その下に、たしかに——皮膚の内側で、青白い線が、脈打っているのが、見えた。
その光を、見つめた瞬間。 頭の後ろで、何かが、ぐらり、と、ずれた。 雨音が、急に、遠ざかる。 代わりに、別の音が、耳の奥に、戻ってきた。 白い天井。蛍光灯。消毒液の匂い。 点滴の管が、自分の手の甲に、テープで止められている。テープの端が、めくれている。 ——その光景を、俺は、知っていた。 高校の制服のまま、病院に運ばれた、あの夜だった。雪の交差点。トラックのヘッドライトが、横から、まっすぐ、こちらを射抜いてきた瞬間の、運転席の男の、口の半開きの顔。アスファルトの上で、自分のローファーの片方が、二メートル先に、転がっていた。 あ。 あれは、俺だ。 思い出した、というより、一気に、流し込まれた。十七年分の記憶が、たった三秒で、肋骨の内側に、押し戻されていく。喉に、つかえる。誰の喉に、と訊くべき喉が、もう、ひとつになっていた。 肋骨の下を、別の人格の記憶が、押し上げてくる。 名前は、もう、思い出せない。けれど、十七で死んだ。妹が、ひとりいた。母は、長いあいだ病院にいた。父は、葬式のあいだ、一度も顔を上げなかった。 好きだった本。古い文庫の、背表紙が剥がれかけた、世界神話事典。子供の頃、母の病室の窓辺で、何時間でも、めくっていた。あの本の、巻末の付録に、読めない古代文字の対照表が、四ページ、載っていた。 ——その文字を、俺は、いま、読めている。 「は……ははっ」 乾いた笑いが、勝手に、唇からこぼれた。雨水が口の端から流れて、笑いと混ざる。 俺は、二度、生まれていた。 一度目は、雪の交差点で、潰されて、終わった。 二度目は、ヴァルムント家の、三男坊として、十六年、「1」のまま、終わるはずだった。 それなのに、いま、二つの記憶が、肋骨の内側で、ひとつの場所に、収まっていく。雪の朝の、肺の冷たさと、いまの、雨の冷たさが、二枚、ぴったりと、重なる。 冷静に、と俺は、もう一度、自分に言い聞かせた。 二つの記憶のうち、どちらに泣くのか、決められない以上、今は、どちらにも泣かない。 左の小指の、母の指輪を、雨で濡れた頬に、押し当てた。 銀は、まだ、熱を持っていた。
その熱の中から。 ふいに、声が、聞こえた。 『——ノア。お聴きなさい』 俺は、息を、止めた。 雨の音も、自分の心臓も、一緒に止まる。 指先が、勝手に、銀の指輪の縁を、なぞっていた。 声は、耳ではなく、指輪が触れた頬の骨を伝って、頭の真ん中まで、登ってきた。十年前、最後にこの声を聴いたのは、母の寝台の天蓋の下だった。 細く咳をしたあとの、うすい笑い声。「ノア、こちらに」の、あの語尾の上がり方。十年、自分の中で、何度も再生して、そのたびに少しずつ、輪郭が薄れていったはずの声が、いま、はっきりと、輪郭ごと、戻ってきている。 『あなたが、これから先、何度、自分の数字を疑うことになっても』 『どうか、これだけは、忘れないで』 雨が、俺の睫毛で、割れる。 一粒、二粒、雨が、目の縁を、内側へ伝って、こめかみの古い傷の上を、滑っていく。涙か、雨か、もう、見分けるつもりもなかった。 声は、最後の一行を、ゆっくり、念を押すように、刻んだ。 『——これは、盾です』 ステータス窓の中で、空白だった一行が、その瞬間、ほんの少しだけ、震えた。 俺は、震える窓の奥を、まだ、読まなかった。 左の小指の銀が、雨を吸って、冷えていく。 遠くで、低く、雷鳴が、転がった。