第3話
第3話
雨の音が、戻ってきた。 母の声が頭蓋の内側で薄れていくのと、入れ替わるように、雨粒が、ふたたび、まぶたの上を叩き始める。 『——これは、盾です』 その一行を、唇の中で、もう一度、なぞった。 舌の奥に、まだ、母の冬桜の気配が、残っている。気のせい、と打ち消そうとして、今度は、打ち消さなかった。 盾、と母は言った。剣ではなく。 「……盾」 声は、低く、震えていた。 左の小指の銀の指輪が、頬の骨から離れる。指輪は、もう、皮膚を焦がすほどの熱を、帯びていない。雨の冷たさに、ゆっくり、馴染んでいく。代わりに、俺の中の、別の場所が、熱を、引き受け始めていた。 継承儀の床石の冷たさ。 義母の扇の、ぱちん、と閉じる音。 長兄の咳。次兄の薄笑い。父の、沈黙。 あの一日、四回、書記官が「1」と読み上げるたび、俺の中で、何かが、刻まれていた。──「お前は、ここにいてはいけない」と。十年、夜の窓辺で、雪の中庭を、ただ見下ろしていた。あの十年が、いま、肋骨の内側で、ゆっくり、ほどけていく。 数字は、低かったのではない。 低く、見えていた、だけだ。 「……母上」 雨の中で、呼んだ。 返事は、なかった。 返事が来ないことは、わかっていた。先ほどの声は、十年分、母が、銀の指輪に織り込んで遺した、最後の一筋だ。たった一行、伝えるためだけに、母は、十年、銀の中で、待っていた。 俺は、雨の中、仰向けのまま、目の縁から、何かが、こめかみへ、また流れた。雨か涙か、もう、選別する気もない。
《鑑定》が、勝手に、母の指輪を、読み始めた。 視界の右下に、新しい窓が、追加される。
銀環《ヴァルムントの環》。 付与結界——固有隠蔽。 起動者——ヘレナ・フォン・ヴァルムント。 残存出力——〇%。 備考——術者の生命を起点に十年継続。完了時、術者は還らず。
最後の一行で、雨の音が、また、遠くなった。 「……術者は、還らず」 唇が、勝手に、文字を、なぞった。 頭の中で、十年前の冬の、母の寝台の脇の光景が、戻ってくる。咳の合間に、母は、ずっと、何かを唱えていた。乳母は、それを「お薬の、おまじない」と説明した。違った。あれは、結界を、編んでいた声だ。 肋骨の内側を、何かが、強く、押した。 怒りでも、悲しみでもない。もっと、低くて、深いところで、俺の中の、何かが、十年ぶりに、向きを変えた。 母は、病で、死んだのではない。 いや。病で死んだ、というのは、表向きの理由としては、たしかに、正しい。けれど、その病を、母が、引き受けたのは——その一点が、今、雨の中で、俺の前に、まっすぐ、立ち上がってきていた。 「兵器に、したがる、者たち、か」 懐の手記が、上着の前で、わずかに、温かい。 乳母が、最後の最後、廊下で押し付けてきた、革表紙の薄い手記。雨で濡れないよう、上着の前で抱きしめて、ここまで、持ってきた。指の腹で、革の表面を、確かめる。雨は、まだ、染み込んでいない。 俺は、ゆっくり、片肘を、地面についた。 右上腕の複雑骨折が、内側で、軋む。だが、視界の中の《鑑定》が、もう、痛みの幅を計ってくれている。九五が、九三に、減った。減っただけで、止まる。 手記を、開いた。 雨が、紙の上に、二粒、落ちる。落ちたそばから、紙の繊維が、雨を、吸わずに、弾いた。母の張った、もうひとつの結界が、紙の表面に、薄く、走っている。 ページの大半は、空白だった。 乳母の言葉どおり——いや、たぶん、これも、母の意図だ。 俺は、左の人差し指の腹を、唇の端の血で、軽く、湿らせた。 ためらわずに、紙の上に、置いた。 紙の繊維の奥から、青白い文字が、にじみ、浮き上がってくる。
ノアへ。 あなたが、これを読むときは、私は、もう、傍にいません。 あなたの数字を、私は、十年、隠しました。 数字は、低くされました。けれど、あなた自身は、低くありません。 あなたの中の階位は、神階です。 その意味を、十六の春までに、自分で、見つけてください。
文字は、そこで、途切れた。 血が、足りないのか、結界の出力が、もう、限界なのか。たぶん、両方だ。俺は、唇の端を、もう一度、舌の先で、軽く、開いた。鉄の味が、また、舌の付け根に滲む。指の腹を、もう少し、強く、紙に、当てた。 次の一行が、にじむ。
ごめんなさい。 あなたを、十六まで、隠した母を。 ですが、あなたを、隠したのは、世界からでは、ありません。 あなたを、
そこで、また、文字が、途切れた。 続きは、たぶん、もう、知っている気がした。けれど、ここでは、まだ、にじまない。にじまないのは、その続きを、いま、雨の中で読むのは、早い、という意味だ。母は、十年先まで、息子の歩幅を、計算していた。 「……ずいぶん、用意のいい、母上だ」 声が、少しだけ、笑った。 笑ったあとで、こめかみを、雨が、また、伝った。
俺は、手記を、上着の前に、戻した。 雨は、まだ、降っている。 膝を、立てた。 右の腕は、使わない。左の手のひらを、苔と石の上に、置く。指のあいだに、苔の冷たい感触が、入り込んでくる。掌の下の小石は、思っていたより、丸くて、滑らかだった。雨で磨かれて、十年も、二十年も、ここで転がっていた小石、なのだろう。 その丸さを、左の掌で、握り込んだ。 握れた。 当たり前のことが、いま、当たり前ではなかった。 継承儀のあと、屋敷を歩いた、あの長い廊下のあいだ——いや、もっと前、十六年、ずっと、俺の手は、誰かに借りた手だった気がする。鑑定値「1」の、痩せた、骨っぽい、武人ではない、文人でもない、誰の手でもない手。鏡を覗くたびに、母にだけ似ている、と乳母が泣いた、その手。 その手を、いま、俺は、握った。 雨に濡れた小石を、握って、それから、ゆっくり、開いた。掌の真ん中に、苔の屑が、ひと欠片、残っていた。 「……ああ」 息が、漏れた。 これは、俺の、手だ。 借りものでは、なかった。 母が、十年前、自分の命を、削って、ここまで、運んできた、俺の、手だ。 肋骨の内側が、また、押された。今度は、低くも、深くもなく、すぐ表面まで、上がってきていた。雨の中で、俺は、片膝をついたまま、左の手のひらを、強く、握り直した。骨の凹凸が、皮膚の下で、ひとつずつ、自分のものとして、返事を返してきた。 立ち上がった。 右の腕は、まだ、外側に折れたままだ。だが、《鑑定》が、骨の継ぎ目を、勝手に、なぞっている。視界の右下に、また、小さな窓が、追加された。
保有スキル《自然治癒・促進》——封、解除。 骨接ぎ、起動可。
「……便利、すぎる」 乾いた笑いが、雨の中で、漏れた。笑ったあと、左の手で、右の上腕を、まっすぐに、引いた。骨の軋む音。視界の隅で、生命残量が、九三から、九一に、落ちて、ゆっくり、九二に、戻った。 息を、ひとつ、深く、吸った。 肺の奥まで、雨と、苔と、鉄の匂いが、入ってくる。継承儀の広間の、義母の香水ではない。屋敷の廊下の、磨き上げた床蝋の甘い匂いでもない。森の、生きている匂いだった。 「ノア・フォン・ヴァルムント、は、もう、いない」 声に出して、確かめた。 言ったあとで、自分の喉が、震えていなかったことに、少し、驚いた。 「……ノア、だけは、いる」 左の小指の銀の指輪を、右の親指の腹で、軽く、撫でた。古代文字の溝の、最後の一筋が、ぱきりと割れた跡が、指の腹に、残っている。母の、最後の仕事の跡だ。 俺は、その指輪の上に、ひとことだけ、誓いを、置いた。 誓いというほど、固い言葉ではない。母の声を聴いた直後の、あの肋骨の内側の重さを、これから、どこに置いていくか——その置き場所を、ひとつ、決めただけだ。 兵器には、ならない。 神階の力を、誰かを潰すために、使わない。 使うときは、誰かを、隠すために、使う。 母が、十年、俺を隠したように。 「……盾、か」 もう一度、呟く。 今度は、舌の上に、ぴたり、と意味が、乗った。
その瞬間。 森の北側——崖の上、街道のあるはずの方角から、女の声が、雨を、裂いた。 「いやッ——!」 二度目の悲鳴は、途中で、潰された。 《鑑定》が、勝手に、音の方向と、距離を、視界の左に、表示する。
音源——北北東、約二百歩。 人間、女、十代後半。心拍——急。 他、人間、男、三。武装——刃物。
「……三人、か」 俺は、左の足を、一歩、前に出した。 苔の上で、靴底が、ぐっと、嚙んだ。骨接ぎ直後の右腕が、内側で、軽く軋む。痛みは、もう、棒のような重さではない。輪郭の、はっきりした、刃のような痛みに、戻ってきていた。 懐の手記が、上着の前で、温かい。 左の小指の銀が、雨の冷たさを、内側へ、しまい込む。 俺は、もう、ヴァルムント家の三男坊では、ない。 追放された「1」でも、ない。 崖下で、母の盾を、初めて、自分の手で握り返した、ノアだ。 二歩目を、踏み出した。 三歩目で、走り始めていた。 森の枝が、頬を、二筋、裂いた。鉄の味が、もう一度、舌の付け根で、滲む。だが、今度は、笑いに、ならなかった。 北北東。二百歩。 間に合うか、ではない。間に合わせる、と、俺は、走りながら、左の掌を、もう一度、強く、握った。