第3話
第3話
肩甲骨の間の冷たい指の感触が、まだ薄く残っている。
薪小屋の影に潜んでいたクラウスの仲間は、結局、出てこなかった。俺が薪を抱えて宿の勝手口へ向かい、平然と十束を婆さんに引き渡したあたりで、足音が遠ざかっていく気配を【危険感知】が拾った。視界の右上、青枠の赤みが、すっと薄れる。
(……尾けて、何を確かめたかったんだ)
考えても、こちらの腹は埋まらない。婆さんから差し出された朝粥の椀は、湯のように薄かった。麦の浮いた水面に、自分の頬の線が映っている。半年間で、頬骨だけは明らかに尖った。
「蓮、今日は森だ」
厨房の隅で粥を飲んでいると、宿の主人が紙片を投げてよこした。ギルドからの斡旋。──薬草採取、F級、銅貨四枚。
「薪じゃないんですか」
「お前ひとりで十束担げるなら、もう薪番は卒業だろ。森へ行け、雨上がりは芽吹きが早い」
紙片の端が、湿った指でふやけた。F級の薬草採取。半年前、俺がギルドで最初に申し込んで「無理だ」と弾かれた仕事のひとつ。今になって押し付けられるあたり、街の薬草師が雨明けの一斉採取で人手不足なのだろう。誰でもいい、ということだ。──それでも、皿洗いよりはましだった。
(視界に、青い枠がある)
それを忘れるな、と自分に言い聞かせる。粥を一息に飲み干して、椀を竃の脇に置いた。
森までは、街門を抜けて半里。革靴の継ぎ目から、また泥水が染みてきた。腰の革袋には、母さんから持たされた解体ナイフ──柄に「蓮」と彫ってあるやつ──と、薬草を入れる麻布の小袋。それで全装備だった。
森の入口で、立ち止まる。落葉樹の梢から、雫がぱた、ぱたと音を立てて落ちている。湿った腐葉土の匂い。土中のキノコ菌と、踏み散らされた枯葉の発酵香が混ざっていた。半年前にも、薪拾いで何度かこの森へ入った。──同じ森のはずなのに、視界の輪郭が違って見える。
【危険感知】
青枠が、静かに緑のままだ。三十歩以内に、悪意はない。
歩を進めた。湿った苔の上を、革靴がきゅっと鳴る。
依頼書には「薬草師ノルドへ提出。回光草、五本以上」とあった。回光草は、F級駆け出しでも知っている。葉裏が銀色で、傷口に貼ると血止めになる。一本につき銅貨二枚。五本でちょうど十枚、ギルドの取り分を引いて、依頼書面の銅貨四枚。
(……割は、悪い)
それでも、足を屈めて、湿った下生えに目を走らせる。回光草は、楢の木の根元、北側の半日陰に多い。半年前、誰かに教わった。誰だったか、もう思い出せない。
楢の根元、苔の間に、それを見つけた。葉の先がわずかに反って、裏返ると銀。一本、二本、三本──摘んでいく。茎の根元を爪で挟んで、ねじって切る。汁が指先について、薄荷に近いひんやりした香りが立った。
四本目を摘もうとした時、視界の青枠が、ふわりと縁を金色に走らせた。
【鑑定(受動・自動) / 範囲内の対象を識別】
【──薬草:中級(隠し) / 該当・三本】
(……は?)
手が止まった。
枠の指示する方向に、視線を上げる。楢の太い根が、地面から拳ほど盛り上がっている。その根の裏側、苔に埋もれて、葉の先が二股に裂けた草が三本、寄り添うように生えていた。葉の表は薄緑、裏は──金色の細い筋が一本、走っている。
しゃがみ直して、葉裏に指を伸ばす。回光草より一回り厚みがある。茎の節が、四つ。
(……こんな草、見たことが、ない)
半年通った森だ。薪を拾いに、薬草師の見習いに頼まれて雑草の選別を手伝ったこともある。けれど──葉裏の金筋は、よほど近づいて、しゃがみ込んで、苔をかき分けないと見えなかった。
枠が、追加の文字を浮かべた。
【金鎖草(きんさそう) / 中級魔力薬の主原料 / 街の薬草師相場:一本につき銅貨二十】
──二十?
回光草の、十倍だった。
息を、一度吐いた。指先がわずかに震えて、それから、止まる。冷静になれ、と、自分に言い聞かせる。視界の青枠は、嘘をつくか? 昨夜から半日、まだ判断材料が足りない。──けれど、判断は、ノルドの店先で水晶に当ててもらえば済む話だ。
爪で根元を挟み、慎重にねじ切った。三本、麻袋の別の隅に、回光草と分けて納めた。指先には、回光草とは違う、わずかに苦い樹脂のような匂いが残った。
念のため、楢の周囲を半径三十歩、青枠を頼りに歩いてみた。【鑑定】の縁が、二度、金色に光る。沢の脇の朽木の裏に、もう二本。倒れかけた笹藪の根元に、一本。──合計、六本。
(青枠が、ある)
指先の震えは、もう、止まっていた。代わりに、こめかみの奥が、軽く熱を持っている。
街門をくぐる頃には、日が西へ傾いていた。
薬草師ノルドの店は、ギルドから二筋入った職人通りにある。煤けた木戸を押すと、乾燥薬草の埃と、樹脂を煮る独特の苦い匂いが鼻を打った。奥の作業台で、髭の白い老人が、薬研を握ったまま顔を上げる。
「珍しいな、お前か」
ノルドは俺を覚えていた。半年前、薬草採取の仕事を断られた俺の顔を、たぶん、忘れずにいた。
「回光草、五本。それと──これも、見てもらえますか」
麻袋から、回光草を先に台に置いた。次に、別の隅から、葉裏に金筋の走った草を、六本。
ノルドの薬研を握った手が、止まった。
「──どこで」
短い問いだった。声が、低い。
「楢の根元と、沢の脇の朽木と、笹藪の根元です」
「全部、お前ひとりで」
「はい」
ノルドは無言で、葉を一枚指で持ち上げ、葉裏の金筋に目を細めた。それから、台の下から鈍く光る丸い水晶を取り出し、葉の上に翳す。水晶が淡く緑に明滅して、ノルドの白い眉がわずかに上がった。
「金鎖草。それも、節が四つ。──去年、王都の薬師ギルドが買い上げた最高品と、同じ等級だ」
「……買って、もらえますか」
「一本、銀貨二枚で買う。六本で銀貨十二枚。回光草五本は、銅貨十、ギルドへの仲介を引いて八」
(……銀貨、十二枚)
数字を、頭の中でもう一度なぞった。
半年通って、俺の手にした最大の日当は、銅貨二枚だった。銀貨一枚は、銅貨百枚に当たる。──十二枚。今日の予定の銅貨四枚の、三百倍。
ノルドが、革袋から銀貨を数えた。台の上に、銀色の小さな円盤が、一枚、二枚、三枚──と並ぶ。十二枚、並んだ時点で、俺の指先より先に、手のひらが先に汗ばんだ。
「お前、名前は」
「蓮、です」
「ふん、覚えておく。──次に金鎖草を見つけたら、まずうちに持ってこい。ギルドを通すと取り分が落ちる」
ノルドはそれだけ言って、薬研に戻った。会話の終了。──職人の流儀、というやつだろう。
店を出たところで、革袋の中の銀貨が、革の継ぎ目越しに鈍く触れ合った。重い。銀貨十二枚と、回光草分の銅貨八枚。袋の重みが、革靴の継ぎ目から染みた水の冷たさより、ずっと、現実だった。
職人通りの路地裏で、立ち止まった。誰も見ていない壁際で、青枠を、開く。
【ステータス画面】
【蓮 / 16歳 / 種族:人間】
【冒険者ランク:F】
【スキル:危険感知 / 鑑定】
【──封印スキル:98 / 解放可能:1】
(──鑑定も、解放扱いになってる)
無意識のうちに、自動で解放されたらしい。今朝、薬草を見分ける必要のある状況に対して、青枠が応答した。──そう、解釈するしかなかった。
そして、もう一行。
枠の最下段、【封印スキル:98】の文字に、視線を据えた。その下に、半透明で、小さく、淡い文字が並んでいる。半年間、こんな下層は表示されていなかったはずだ。──いや、表示されていたとしても、俺が視線を落とさなかっただけかもしれない。
【封印スキル一覧 / 開示:三件】
【──剛力斬り(攻撃)】
【──概念斬(切断)】
【──ステータス隠蔽(秘匿)】
三つだけ。残り九十五は、まだ伏せられている。けれど、確かに、刻まれていた。──「概念斬」の三文字に、視線が、しばらく止まった。
(……何だ、これは)
回りに視線を走らせる。職人通りの裏路地、夕方の薄闇。誰もいない。【危険感知】の枠は、緑のままだった。
革袋を、ぎゅっと握り直す。銀貨の角が、掌の肉に食い込んだ。痛みが、現実の重さを、もう一度、確かめさせてくれた。
(明日、もう一本、解放できる)
剛力斬り、概念斬、ステータス隠蔽──三つ並んだ文字を、もう一度、眼の奥に焼き付けた。
宿への帰り道、薬草師ノルドの店から二筋戻ったあたりで、視界の青枠が、ふわりと淡く赤を帯びた。【危険感知】の縁。──三十歩、東。背後の路地裏。革靴の踵が、湿った地面を擦る音。
足を、止めなかった。歩調も、変えない。
革袋の重みを、わざと腰に響かせて。俺は次の角を、左へ、曲がった。